第一話 女子医官、配転を命ぜられる③

 それは翠珠も知っていた。確か三、四か月前の話だったと思う。

 皇帝のちよう・河嬪は二十二歳。翠珠と同じ南州出身の方である。

 彼女にとって初めての懐妊から半年足らず。まさに幸福の絶頂からの悲劇だった。しかも胎児がある程度大きくなってからの流産が母体に与えた衝撃は大きく、それ以来河嬪は部屋に引きこもったままなのだという。

 鈴娘は首肯した。

「とうぜんでしょう。貴妃様のご命令で見舞いにもうかがったわ」

「先日、河嬪がお住まいの殿から牡丹皮が見つかった」

 夕宵の言葉に、翠珠は彼がなにを疑っているのかを理解した。

 鈴娘のほうは気づいていないとみえ、表情に不審を募らせるばかりだ。

「河嬪は、心当たりはないと仰せだ」

「だから、なんなのですか?」

 いらだちを隠しもせず鈴娘は声を張った。とことんまで気が強い人だ。

「ならば単刀直入に問う。河嬪に牡丹皮を服用させて堕胎をもくんだのは、あなた達しやくやく殿のものではないのか?」

 しばしの絶句のあと、鈴娘は猛烈な勢いでみつく。

「──ぶ、無礼な!」

「しかしこの帳簿には、あなたが三か月前から牡丹皮の購入をつづけていることが記録されている」

「だから、なぜ牡丹皮を求めたことで疑われるのですか?」

 どうにもやりとりがかみ合わぬのは、双方が肝心なことを話していないからだ。鈴娘は、宮廷医局ではなく宮外で薬を買い求めた理由を。夕宵は、牡丹皮がなぜ流産につながるかを──。

「牡丹皮は、懐妊中の方にはあまり使用しません」

 たまらず翠珠は口を挟んだ。刑事事件にかかわるつもりはなかったが、こればかりは医師としても放っておけなかった。

 夕宵と鈴娘は二人同時にこちらに目をむけた。二人とも官人だから、衣装で翠珠が医官であることは分かるだろう。

「噓よ、血の巡りをよくする薬だと──」

「そ、その通りです」

 非難めいた鈴娘の口調に店主があわてて弁明する。翠珠も医師のはしくれとして助け船を出す。

「血の巡りをよくするということは、つまり流産の危険性を伴うのです。ですから妊婦の方への使用は注意を要します。どんな良薬でも適応を間違えれば、それは毒となりかねません」

 自分達に疑いがむけられた理由に合点がいったのか、鈴娘は口をつぐんだ。

 すかさず翠珠は提案する。

「差支えがなければお聞かせいただけませんか? 呂貴妃様が、どのような症状により牡丹皮を服用するに至ったのか。それが適切であれば、こちらの御史も納得されるはずですから」

 ちなみに生薬を単体で摂取することは、あまりない。病状や個人の体質にあわせていくつかの生薬を組みあわせる『方剤』として使用することがほとんどだ。

 翠珠の提案に、鈴娘はしばし疑うような顔をしていた。だがこのままではらちが明かぬと観念したのか、ぽつぽつと語りはじめる。

「ここ数か月、身体に色々な不調をきたされているのよ。夜に良く眠れない。身体がひどくだるくて、やたらイライラする。暑くもないのに汗をかいて、ときどきどうが強くなって息苦しいこともあるそうよ」

「なるほど」

 翠珠はあいづちをうつ。

「それらは血の巡りが悪いゆえに、よく起こりうる症状ですね。そして呂貴妃様ぐらいの年回りの女性が、血の巡りによる症状で悩まされるのはしばしばあること。ゆえに牡丹皮は一般的な処方で、特に怪しむことではありません」

 正直にいうと三十八歳というのは少し若いのだが、そのあたりは個人差がある。もっと若いうちから悩まされる者だっている。

 よどみない翠珠の説明に、鈴娘はあんの色を浮かべる。対照的に夕宵は釈然としない顔をしていた。

「君は医官だな」

「はい。李少士と申します」

「医師としての意見は分かった。しかし梨花殿から、流産の危険性がある牡丹皮が見つかったことは紛れもない事実だ。もともと河嬪の流産には疑念が持たれていた。妊娠初期のうちならともかく、半年近くにもなって、なんの誘因もなく流産するなど珍しいと医官達も口を揃えていた」

 それは翠珠も覚えているし、知識としても知っていた。

 一般的に流産の危険は三か月辺りまでが高く、それを過ぎると落ちついてくる。半年頃での自然流産はあまり聞かないから、医官達が不審を抱いたのはむを得ない。

 とはいえ、その頃になれば早産の危険性もはらんでくるから、妊婦が常に危険と隣り合わせの存在であることは間違いない。

「その河嬪の殿から牡丹皮が見つかり、流産の頃とときを同じくして、呂貴妃は宮外から牡丹皮を求めていた。宮廷医局に要請すればいくらでも手に入る薬であるにもかかわらずだ。ここになんらかの関連を疑っても不思議ではあるまい」

「ですが鄭御史は先程、呂貴妃様のこの店での牡丹皮の購入記録は三か月前からつづいているとおっしゃっていましたよね。河嬪様の流産の時期を考えれば、それ以前から三か月前までの間の購入でなければ整合性がありません」

 そこで翠珠はいったん言葉を切る。

「それに故意に流産をもくむのなら、牡丹皮のような緩い薬は使いません。他にもっと適した薬剤があります」

 翠珠の物騒な発言に、鈴娘と店主が目をく。

 夕宵は形の良いまゆを跳ね上げた。内心で翠珠はひるんだ。相手が御史台の官吏ということもだが、なにより異性からこんな怖い目で見られたことがない。女医をけいべつする者からさげすみの目をむけられたことはあるが、それとはちがう。かといって反撃されたことによる怒りでもない。

 夕宵のひとみは、事を真剣に追及しようとしている御史台官のそれだった。

 正直怖いし、かかわりたくはなかった。しかしこのままでは店主が捕縛されてしまうのだから放ってはおけない。

 緊張で高まる鼓動を抑え、夕宵の鋭いまなしを受け止める。ひるみそうだが、自分は間違ったことは言っていない。呂貴妃や鈴娘が実際になにをどうしていようと、牡丹皮にかんして噓偽りは言っていない。

(落ちついて……)

 翠珠は自分に言い聞かせた。知識に基づいて答えれば恐れることはない。相手が御史台官だろうと、たとえ皇帝であったとしても同じことだ。

「流産させることが目的なら、ぼうちゆうさん漿しようこんを使ったほうがより確実です」

「ボウチュウにサンショウコン?」

 聞き覚えのない名称を、夕宵はげんそうに繰り返す。翠珠がうなずくと、夕宵は店主にと視線を動かした。

「確かか?」

「わ、私は先生達ほどの知識はありませんが、牡丹皮は堕胎目的ではあまり用いないかと存じます。もちろん懐妊中の方に危険であることに間違いはありませんが」

 店主の意見を聞いた夕宵は、あごに手をあてて気難しい表情で思案していた。そわそわする翠珠と店主とは対照的に、鈴娘はそんな態度を崩さないまま、まくしたてた。

「まったく意味が分からないわ。呂貴妃様の御子様方はお二方とも健やかにお育ちよ。そもそも亡くなられた皇后所生の皇太子はすでに成人しておられる。いまさら位の低い嬪が産む子供など脅威でもなんでもないわ」

「その通りです」

 存外素直に夕宵は認めた。鈴娘はもちろん、翠珠も拍子抜けした顔をする。

 夕宵はさして悔し気な顔も見せず、淡々と述べた。

「分かった。ここはいったん持ち帰り、再度調査を行おう。しかしあなたも余計な疑いをかけられたくなかったら、隠し事はしないことです」

 一矢報いたかのような物言いに、鈴娘はむっとした顔をする。しかし彼女のほうも一方的に怒るのはちがうだろう。宮廷医局で出してもらえる薬をわざわざ街の薬舗に買い求めにきた、その理由を結局は説明していないのだから。流れ的に必要がなくなったというのもあるのだが。

 夕宵と鈴娘が帰ったあと、店主は礼を言った。

「李先生。助かったよ」

「災難でしたね。呂貴妃はどこかお悪いのですか?」

「私は医者じゃないから良く分からないよ。しよほうせん通りに調合しただけなのに、まさかこんなことになるとはね」

 やれやれとばかりに店主はため息をつく。

 翠珠は首を傾げた。はたしてその処方箋は誰が記したものなのだろうか? 宮廷医が記したのなら、普通はその者の手で宮殿内の薬局で調合される。そこに在庫がなければ内城の医官局から取りよせる。

 ということは呂貴妃の診察は、宮廷医が行ったものではなかったのか? ならば医官達の間で、彼女の不調が話題にならなかったことも納得できる。だとしたら呂貴妃は、なぜそんな手のかかる真似をしたのだろう。

 次から次へと浮かんでくる疑問に考えを巡らせたあと、答えが出ないことに飽きた翠珠は思考を打ち切った。

(まあ、私には関係ないし……)

 宮中のことは、そちらの医官に任せればいい。

 あと数か月。このまま医療院で研修を終えて、南州に帰る。拓中士という指導医にも恵まれた研修は、どうやら順調に終わりそうだと、このときまで翠珠は疑ってもいなかった。



 それから三日後、翠珠は次長室に呼び出された。

 開局当初の女子医官局は、男子の医官局の被官組織的な扱いだったらしいが、さすがに四十年もの時を経ると相応の独立性を持ってくる。特に内廷、すなわち後宮での地位は完全に女子が優勢だ。逆に外廷を含む皇城は、男性医官の活躍の場となっている。

「明日から内廷に異動が決まったわ」

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