第一話 女子医官、配転を命ぜられる②


 官立医療院はかんの建物が並ぶないじようではなく、市井の人々が暮らすがいじように建てられている。市民に無料で診察を提供するという施設の性格を考えれば、理にかなった配置といえよう。

 莉国の帝都・景京は、外城、内城、こうじようきゆうじようの四重構造の城壁都市だ。このうち皇城と宮城は宮殿区域となり、城壁で囲まれて庶民は立ち入れない。

 内城は主に官衙街で、外城がいわゆる市街にあたる。かつてはこの二つの間にも壁は存在したらしいが、現在は取りはらわれて出入りも自由となっている。石造りの古いはいぼうが、そのこんせきを残すだけだった。

 翠珠が医療院を出たとき、朝から時折降っていた雨はんでいた。

 出勤時にさしてきた傘を手に、内城にむかって目抜き通りを進む。二年の研修期間中、女子医官は内城にある官舎住まいとなる。学生のための寮も兼任しており、女子医官局の敷地内にあった。ちなみに学生は三人部屋、研修生は二人部屋である。

 通りは大勢の人でごった返していた。ちょうど官庁が閉まる時間なので、内城のほうからは帰路につく官吏達が歩いてきている。ほうや冠の色で所属や立場はおおむね分かる。高官は徒歩で帰らないから、すれ違うのは中級以下の官吏ばかりである。

 おうくん姿の主婦に、買い物かごを提げた仕女。習い事帰りの子供。仕事終わりでいっぱい引っかけようと店を物色する職人。肩がぶつかるほどの距離で老若男女が行きかっている。

 立ち並ぶ露店やしゆ(飲食店)の窓から、煮炊きの煙が上がっている。この匂いはやきもちか、あるいは揚げ物だろうか。ぐうっとおなかが鳴ったが、このあと寄る場所があるので、いま買い食いをするわけにはいかなかった。

 人混みを避けながら、右折して小路に入る。小路といっても大路と比較した名称なので、馬車が乗り入れられる程の幅は十分にある街路である。人通りも多いその小路で、つじから数えて二つ目の店に『やく』の旗が掲げてあった。

「こんにちは」

 開け放したままの入口をくぐると、受付用の長い台とその奥に小さな引き出しがいくつもついた、巨大なくすりだんが備えつけてある。

「おや、李先生」

 接客中の店主が、機嫌のよい声をあげた。五十に近い腰の低い男性で、娘のような年齢の翠珠にも丁寧に接してくれる。

 台を挟んで手前には、客とおぼしき女性が立っていた。年の頃は三十を少し越したあたりか。黄色のたてえりうわぎに、幅広のひだのついたしゆう入りの若草色の裙は一目しただけで仕立ての良さが分かるものだった。

(なんだろう。まだ若いのに、どこか具合が悪いのかしら?)

 医師のさがというやつで、つい好奇の目をむけてしまう。とうぜん女性からはぷいっと顔をそむけられた。ただちにしつけだったと反省する。しかも無意識の行動だったから余計にたちが悪い。

 店主は台上で、彼女のための薬を量っている。よくないと分かっていても、好奇心に負けてついチラ見してしまう。

たんか……)

 婦人病の処方によく使われる生薬である。この年齢だから月経の不調か、あるいは子宝にかんする症状だろうか?

「すみません。こちらの方が終わるまでちょっと待っていてくださいね」

 どう思ったのか店主が申し訳なさそうに言う。翠珠はあわてた。

「順番ですから、お気になさらず。それに私は拓中士に言われて、入荷の確認に来ただけですので」

「ああ。しつなら入りましたから、そう伝えておいてください」

「中士?」

 それまで黙っていた女性がぽつりと言う。

 中士や少士は、特に医官にかぎってのものではない。いわゆる中級官吏共通の役職名だ。とはいえ薬舗でのやりとりだから、通常は医官に対するものと考えるだろう。

「はい。私の上司で、医療院の医官です」

 弁明のつもりで翠珠は言った。医官という立場を教えれば、先ほどの不躾な態度も少し納得してくれるのではと思ったからだ。

「ならば、あなたも医官なのですか」

「まだ少士ですけど」

 翠珠の答えに、女性は露骨に表情をこわらせた。

 なぜ? と不思議に感じたあと、すぐに女医に対する世間の反感を思いだす。一般的に若い女性は寛容だが、例外はもちろんいる。彼女もそんなうちの一人かもしれない。

(だったら、しかたがないか……)

 拒絶する者とはかかわらないのが一番だと、景京に住むようになって何度も繰り返した言葉をはんすうする。

 気持ちを切り替え、翠珠は店主に声をかけた。

「では、牛膝が入荷したことは拓中士に伝えておきます」

「よろしくお願いしますよ」

 そのとき、入口でがたがたと大きな物音がした。何事かと目をむけると、木綿のつつそでを着た数名の男達が入ってきたところだった。どこぞのやしきの従者か下級役人といった風体で、とうてい薬を買いに来たようには見えない。

「あ、あの、どちらさまで……」

 不安げに店主が尋ねると、後ろから一人の青年が進み出てきた。

 翠珠は目を見張った。そうせざるを得ないほど、非常にふうさいの良い若者だった。

 年のころは翠珠よりも少し上なくらいで、二十歳をいくつも越えていないように見えた。彫の深い整った面差しには、少年のような初々しさと潔癖さがただよう。細身の身体にまとう青灰色のこうりようほうは機能的な筒袖だったが、素材が絹なので高位の官吏であることがひと目で分かった。

「ここは馬薬舗で間違いないな」

「は、はい」

「私はぎよだいの官吏、ていゆうしようぎよである」

 物騒な官職名に、翠珠はひるんだ。

 御史台とは司法に関わる機関『三法司』のうちのひとつで、主として百官の監察とだんがいつかさどる。早い話が、役人の犯罪を追及する組織である。ちなみに民間の犯罪捜査を行う警吏局も、御史台の管轄下にある。要するにまともな日常を過ごしていれば、まず縁のない機関だった。

 ちなみに御史とは役職名で、四等官の第三位・はんがんのことである。ゆえに夕宵に対する呼び方はていぎよとなる。

「お役人さまが、いったい何用で?」

 店主は声を震わせた。そうとうにおびえている。御史台はただでさえ敬遠される部署だ。それがこんな大仰に押し寄せてきたのだから、普通の神経ならおびえる。馬薬舗は誠実な経営で評判の店だから、御史台の役人に詰問されるなどはじめての経験にちがいない。

「皇帝の妃、に薬を売ったな」

「は、あ、あの……」

 狼狽うろたえながら店主は、奥にいる女性をちらりと見た。その視線を受けた彼女はぐっと唇を引き結んでから前に進み出る。

「その通りです。私がこの店に足を運び、貴妃様のための薬を買い求めておりました」

「あなたは?」

「私は呂貴妃様付きの女官で、りんじようと申します」

 身なりの良い女性だと思っていたら、女官だったのか。

 後宮に仕える女性の地位と役割はひんも含めて数多あまただが、全国津々浦々から選抜されて入宮しているだけあって、民間の仕女に比べても風采が良い。

 しかも呂貴妃といえば、皇后不在の後宮では最上位の妃である。

 その妃付きの女官というだけあって、さすがに度胸も据わっている。泣く子も黙ると言われる御史台の役人相手にひるみもしない。

「ならば、話が早い」

 夕宵は言った。この段階で翠珠は自分がここにいてよいものかと悩んだが、下官達が入口をがっちりとふさいでしまっているので逃げようがなかった。野次馬が入ってこないようにしているのだろうが、それは同時に中の者が出られなくなることを意味している。

「後宮の妃嬪方は、宮廷医局からの診察と薬の提供をいつでも自由に受けられる。それなのに、なにゆえこのような市井の薬舗に足を運ばれるのか? そもそも後宮の女官が頻繁に外出をする事自体が異例であろう」

「無礼な!」

 鈴娘は声を大きくした。

「私がここに通っているのは、貴妃様のご要望を受けてのこと。もちろん外出の許可も受けております。御史などにとやかく干渉される筋合いはありません」

「こちらも上からの命を受けている。納得のいく説明をいただけなければ、あなたとここの店主を捕縛するしかない」

 とばっちりでしかない展開に店主は短く悲鳴をあげた。それはそうだ。薬舗は薬を売ることが仕事なのに、それで捕縛されてはたまったものではない。粗悪品を売ったとでもいうのなら分かるが、このやり取りからしてそうではなさそうだ。

「お役人さま、私はなにも」

「蘇氏になにを売ったのか、帳簿を見せよ」

「は、はい……あの、呂貴妃様になにかご不調が?」

 店主の問いに、翠珠ははっとした。

 そうだ、その可能性があった。

 薬を服用した呂貴妃に不自然な不調が現れれば、薬舗か鈴娘が疑われる。事故であれ故意であれ、相手が皇帝の妃となれば厳罰は免れない。

 この店主の問いに、鈴娘が素早く反応した。

「呂貴妃様の不調は以前からのものです。だからここに薬を求めに来たのです」

 だから、その答えでは堂々巡りだ。

 なぜ宮廷医局ではなく、市井の薬舗を頼ったのか。その理由を説明しなければ、夕宵は納得しない。

(ていうか、貴妃様ってご不調だったんだ……)

 官舎には宮廷勤務の同僚も住んでいるが、そんな話は聞いたこともなかった。

 女子医官の研修先はいくつかあるが、そのうちの一つに宮廷医局がある。

 その中でもとりわけ後宮は、女医にとって主戦場と言える場所だった。なぜならこの国の女医の誕生には、当時の後宮が大きくかかわっていたからだ。

 男子に比べて女子に極端な貞操観念を求める風潮は、古今東西存在する。この国も例外ではなく、特に良家の婦人に対してそれが顕著だった。中でも既婚女性には異常としか言えないれつな貞節が求められてきた。

 妻は夫以外の異性に姿を見せるものではなく、ましてその身に触れさせるなど死に値する恥辱である。こうした価値観のもとで医師の診察を拒む、もしくは本人が望んでも家族から診察を阻まれる婦人があとを絶たない結果となった。

 病に倒れた時の皇太后が、貞節を理由に医師の診療を拒んだのは五十年程前の話である。この件により後宮における女医の必要性が浮き彫りとなり、女子太医学校の開校にとつながったのである。言い方は悪いが、皇帝の私的な孝行の念により女医制度ができたというわけだ。

 そのような経緯から、妃嬪の診察は女医が請け負う習わしになっていたのだ。

 彼女達から、呂貴妃の具合が悪いという話は聞いていない。相手の立場や守秘義務もあるので、むやみに口外していないだけかもしれないが。

 呂貴妃は三十八歳。皇帝との間に男女一人ずつの子をもうけたが、いまはすっかりけいをかこっていると聞いている。そのせいか元々の気質なのは分からぬが、かなり気難しい方との評判だった。そんな噂話程度の情報を頭の中で整理している間も、夕宵と鈴娘は言い争いをつづけている。

「この帳簿によると、あなたは牡丹皮を定期的に購入している。これは確かか?」

「記録があるのなら、かずとも分かるでしょう。呂貴妃様の症状にはそれが効くと医者が言っていたのよ」

「だからなぜ街の薬舗を使うのか、その説明をしていただきたい」

「貴妃様に対して、それが無礼だと言っているのです。であれば、そちらが先に調査の理由を説明すべきでしょう」

 鈴娘は言い返した。なるほど、筋はある。いくらちようあいが薄れているとはいえ、相手は子にも恵まれた貴妃だ。問答無用で捕縛できる庶民とはわけがちがう。

 夕宵はけんにしわを寄せ、しばしの思案のあと口を開く。

ひんの流産はご記憶か?」

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