華は天命を診る 莉国後宮女医伝
小田菜摘/角川文庫 キャラクター文芸
華は天命を診る 莉国後宮女医伝
第一話 女子医官、配転を命ぜられる①
「朝だけなんですよ。指が
診療机を挟んだ先で、還暦過ぎと
(うちの医院にもいっぱいいたもんね。こういう人)
その帝都・
そのために景京の女子太医学校で、四年間みっちり学んだ。いまは官立のこの医療院で、研修医として
女子太医学校を卒業した者は、二年間の医官局勤務が義務付けられ、様々な施設に配属される。翠珠は自ら希望を出して、医療院勤務となった。市井に門戸を広げたこの施設には、老若男女様々な
緊張しながらもやりがいのある充実した日々は、翠珠の
やくたいもない話をつづける患者の様子を、翠珠は注意深く見守った。
診察の基本たる
(声に活気はあるけど、ちょっとかすれている。全体的に少しむくみ気味で、顔のくすみがやや目立つ)
なあ~んともない、と本人は言うが、翠珠は実家の医院で似たような症例を何人も見てきた。南州は景京に比べて湿度が高いので、このような症状を呈する患者が多いのだ。
「それにしても、やっぱりこういうときは娘ですね。嫁なんて結局は他人だから、冷たい──」
「ちがうね。お前さんは
話が嫁の悪口になりかけたところで、彼女の担当医は婦人のお
医官は経験と実績で三つの位に分けられる。上から
お喋りを遮って告げられた診断名に、婦人は首を傾げる。
「風湿?」
「そう。
軽い口調で物騒なことを言われた婦人は青ざめた。そこですかさず翠珠は、身を乗り出す。
「大丈夫です。拓先生は風湿を診慣れていますから、任せてください。きちんと薬を飲んでしっかり養生なされば快癒しますよ」
裏のない明るい口調での励ましに、婦人の顔色が元に戻った。
そんな弟子の姿を横目に、拓中士は筆を執る。
「処方を書いておくから、七日程服用してみなさい。状態が良ければ、もう七日つづけて、そこでやめてよし。変わらなければもう一度来なさい」
医師が記した処方は、民間の薬舗で調合してもらうことが一般的だった。何百とある生薬の在庫を抱えることは、特に小さな医院では難しいからだ。
民に対する福祉という名目で開院されたこの医療院では、診察と処方を書くまでは無料で行っている。しかし薬代は患者持ちなので、人によっては購入を断念する者もいる。身なりや反応から察するに、この婦人はその心配はなさそうだ。
「
婦人が帰ったあと翠珠が尋ねると、拓中士は目を細めた。
「そうだ。よく学んでいるな。さすが首席卒業だけある」
「ありがとうございます」
礼を述べてから、あらためて翠珠は答えた。
「南州は景京よりも湿度が高いので、あのような症状の方が多かったのです。梅雨に入ると特に手足が
気分よく語っているうちに、思ったよりも大きな声になっていたらしい。入口の
「あ、すみません。どうぞ」
愛想よく招く翠珠に、しかしその高齢男性はあからさまに
ざらりとしたものが胸を
医療院で仕事をするようになってから──いや、景京で医学生の制服を着るようになってから、しばしこのような視線に遭遇してきた。とうに慣れたことでも不快にはちがいない。
──女が外で仕事などをして、はしたない。
この国に女子太医学校が創立されてから四十年。すでに
婦人の正しい生き方は、結婚をして夫とその両親に尽くし、子を産んで家庭を守ること。そんな考えが主流だった時代にとつぜん、この国の女医制度は誕生したのだった。
あんのじょうその男性患者は、席に案内をした翠珠に礼も言わなかった。それどころか目をあわせようとすらしない。男の拓中士には低姿勢で病状を訴えているのに、えらいちがいである。
別に珍しくもないことだった。この医療院には診療にあたる女医が数名いるが、女であることを理由に患者から拒絶されることはしばしばある。大方は年配者だが、たまにびっくりするぐらい若い者もいる。比率のちがいはあるが、女医を軽視する者は老若男女問わず存在する。そのいっぽうで
「──脈は浮き、力は弱い」
脈診の結果をつらつらと述べたあと、拓中士は傍らに立つ翠珠を見上げた。
「どうだ、お前の診立ては?」
とつぜん振られて、翠珠は目をぱちくりさせる。患者の男性は抗議するように拓中士を見る。女に
むくむくと負けん気がこみあげてくる。
翠珠は意識を集中し、男性患者を正面から見据えた。
患者の見た目や動作を観察する望診。声、話し方、呼吸音、時には患者の匂いにまで神経を研ぎ澄ます聞診。そこに先ほど拓中士が行った問診と切診(脈を診るなどの実際に患者に触れて行う診察)の情報を加える。そうして知りえた患者の情報に、これまで学んできた
「先程の方と同様、
「確かに。天気のせいか、昨日あたりからその症例が多いな」
今朝もそうだったが、ここ三日ほど雨降りがつづいている。梅雨入りしたのかもしれない。その影響ゆえか、湿邪による症状を訴える患者が多くなっていた。
「では、さっきと同じ処方にするか?」
理屈だけ言えばそうだが、引っかかる部分もある。
「どうでしょうか? こちらの方は
「その通りだ。ならば当帰は省いてもいいんじゃないか?」
言われてみれば道理である。翠珠は首肯した。
拓中士はゆるりと視線を動かし、ぽかんとする男性に言った。
「私はこれまで男女多くの弟子を指導してきましたが、その中でもこの娘は、一、二を争う程に優秀なんですよ」
胸がすくとはまさにこのことである。
男性はといえば、気まずさと不服が入り交った顔のまま、処方を受け取って出て行った。本日の患者は彼が最後である。
「先生、お茶を
「おう、頼む。今日は疲れたから濃いものが飲みたいな」
「濃いめですね」
うんと背伸びをする師の前で、翠珠は茶器を準備する。
拓中士は
「ああ、うまいな」
「先生」
「ん?」
「先程はかばっていただいて、ありがとうございました」
翠珠の礼に、拓中士は茶杯を傾けたまま上目遣いにこちらを見る。
「礼を言うことでもない。お前は私の弟子だ。弟子が無能だと誤解されては、私の
「先生の沽券はなによりも大切です。正直に言うと、私も気分は良くありませんでした。ですが気になさらないでください。ああいう態度を取るのは、おおむね年配の方ばかりですから──」
「近々にみんな死ぬから、放っておけってわけか?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
翠珠はあわてた。そこまで考えてはいなかったが、確かに突き詰めればそういうことになる。
拓中士は茶をごくりと飲み干した。
「まあ、お前の言うとおりだとは思うが」
だからそんな物騒なことは言っていない。
「しかし、ああいう親から
「それは──」
翠珠は口
研修を終えたら実家の医院で働くのだから、それまでの辛抱である。女医が経営する医院に足を運んでおいて、女が信用できないと言う患者はまずいない。祖母の時代はなかなかの苦労があったようだが、いまや南州の李医院といえば、県外からも患者が来る盛況ぶりだ。
攻撃的、ないしは拒絶する者とはかかわらないのが一番だ。
翠珠にはそれができる未来がある。だから景京に来てしばしば経験する先ほどのような不快なことも、実はあまり深刻に受け止めていないのだ。
「確かにそういう人も、いるかもしれません。けれど大丈夫です、実家の医院にはあんな患者は来ませんから」
苦笑いで答える弟子に、拓中士は無言で茶杯を受け皿に戻した。陶器と陶器が触れ合うカチリという音が、やけに高らかに響いた。
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