第8話 濃浅葱の幕間
もうすっかり見慣れた風景を夜の帳が暗くして、柔らかな月明りがわざわざおれを照らし出してくれる。
けれどもおれは、そんな周囲の光景に一瞥をくれることなく、手元の頼りない光源に意識を向けていた。
そこにはトークアプリの画面が映しだされており、『彩空 ヒイロ』と会話相手の名前が表示されているが、会話の履歴はなくまっさらな状態だ。
おれは適当な箇所を押して、今まで撮った画像の一覧を表示させる。
――初めて撮った可愛い妹達の写真、入院する前に撮ったじいちゃんとの写真、入学式前日に姿見の前で撮った制服姿のおれの写真、入学式を抜け出して撮ったソウマとの写真…………そして、さっき撮った彩空さんとソウマとおれの写真。
「まだ、たったこれだけしかねぇか……」
はぁ。と嘆息が零れる。
このスマホは一か月ほど前に、じいちゃんが入学祝いに送ってくれたおれの数少ない大切な物。
『沢山思い出を作って来なさい、いつか思い出が十分に溜まったらじいちゃんに見せておくれ』。そう言っておれに買い与えてくれたのを、昨日の出来事の様に思い出せる。
「十分に溜まったら、か……」
四枚しか表示されない写真フォルダを見て、再び溜息が零れそうになるが。
最後に撮った写真が視界に入ると、ふっ。と軽く口元が綻んだのが分かる。
「あいつらと一緒なら、思い出なんて幾つでも作れそうだし、焦る必要はねぇな」
先程まで帰り道を同じにしていた、二人のクラスメイトの姿が脳裏に浮かぶ。
最初はビクビクと周囲に怯えている印象だった彼が、今日はおれを助けにわざわざ上級生へ歯向かう様な真似をして、遂にはおれの大切な物を取り返してくれた。
男子、三日会わざれば…………みたいな言葉があったはずだ。入学式の後、一週間程学校に来なかったが、その間に何かすごい特訓でもしてたんだろう。フッ……こんなに立派な友達が出来ておれは嬉しいぜ。
そして、赤いマフラーと毅然とした態度の彼女。彩空さん。
入学式といい、自己紹介の時といい、シビれる程にかっこいい奴だ。
今日は何でソウマと一緒に居たのかは結局教えてもらえなかったが、バカなおれの脳みそでも凡その検討は付いた。
だって、ツクヨちゃんが登校してくるときにいつも背負っていた、黄色く目立つランドセルを彩空さんが背負っていたとあれば、ツクヨちゃん繋がりで何かあったんだろうと言う事は、想像に難くない。
「まったく、二人揃ってお人好しな奴らだぜ」
おれが言えた事ではないか。と心で独り言ちる。
「『悔いのない三年間にしましょう』ねぇ……」、彩空さんの記憶に連れられて彼女が入学式に残した言葉がふと浮かび、そして先程のタイガ先輩との交わした言葉の数々が思い出された。
「悔い、後悔…………」
過去に幾度となく口にした言葉。
それらは今も尚、おれを苦しめ縛り付けているのだろう。
「もうしたくはねぇな」
あんなに悔しくて苦しくて耐え難い痛みは、もう御免だった。
「――おれもやってみるか、全力で」
彩空さん程、全力で三年間を突っ走れるかは分からない。
けれども、もうあんな思いはしたくなかった。
――それに、ソウマならきっと、アイツみたいにはならないはずだ。
ソウマは確かに臆病で内気な奴だけど、しっかり踏み止まれる強さを持ってる。
苦手な人混みの多い入学式でも帰らずに、食いしばりながら顔を上げていたのを覚えている。
自己紹介の時もそうだ。対人が厳しいのにも関わらず、衆人環視の中でソウマは声を大にして自己紹介をしてみせた。
昼休みの時も、あの柄の悪い先輩を前に、怖くて足と咽を震わせながらも声を上げてくれたし。
ソウマは自覚していないだろうけど、その心には強い勇気を秘めている。
じゃなければ、怖い物や苦手なものを前にして、声を上げる事はできないはずだ。
……フッ。つくづくおれは恵まれていると感じる。
愛すべき家族に、イカしたクラスメイト、勇気のある友達――。
「んじゃ、おれも後悔せずに突っ走ってみっか!」
おれはスマホに未だ表示され続けている、三人で撮った写真を選択すると、そのまま送信した。
少しするとに既読表示が付き、『ありがとう』と、一言だけメッセージが送られてくる。
おれはそれに対して、一件のメッセージを返信する事にした。
『三年間、悔いのない様にしようぜ!』
拙くスマホの画面をスワイプして、ゆっくりと文字を打ち込み。
その一言だけを送信する。そして、それと同じ内容をソウマにも送った。
「これで良し、と……」
スマホを懐に仕舞って、ふと顔を上げる。
先程までおれを照らしてくれていた月明りは、見慣れた建物の陰に隠れてしまってその優しい光を浴びる事はなかったが。
代わりに、食欲をそそる香りが漂ってきて、おれの空いたお腹を刺激してきた。
「今日はカレーだな」
灰色の外壁はひび割れて、今にも崩れ落ちそうな程に老朽化した家屋の二階からは、一室だけ光が漏れ出しており入居者が存在するのを教えてくれる。
おれは錆びだらけの階段を静かに上ると、『204』と記された唯一明かりが灯されている部屋の前に立ち、ゆっくりとドアノブを回した。
扉を開け放つと、先程から漂っていたカレーの匂いが更に強まり、奥からはチカチカと明滅する電灯が頼りなく部屋の中を照らしている。
「ただいま、兄ちゃんが帰ったぞー!」
おれは鍵を閉めて、靴を乱雑に脱ぎ棄てると、駆け足で部屋の奥へ向かった。
「兄さまー! おかえりなさい!」
するとそれに気付いた我が可愛い妹が、抱き着いてくる。
「ハナちゃんただいま! 今日の学校はどうだったんだ? 新しいクラスには馴染めそうか?」
綺麗な栗色の髪の前髪をパッツンで切った、今年で小学五年生になるおれの可愛い妹の一人、ハナちゃん。
性格は明るく友達も多い、野花が咲くが如く満開の笑顔を見せてくれるおれの自慢の妹は、その小さな顔に花を咲かせて見せた。
「はいー! みんな優しくて、今年も沢山の友達を作れそうでしたー!」
「そうかそうか! それは良かったなぁハナちゃん!」
おれはよしよしと、その小さな頭を撫でると、ハナちゃんもまた嬉しそうに笑顔を綻ばせる。
「兄さまも良い事がありましたかー? 今日の兄さまは、いつもよりも何だか嬉しそうですー!」
「お、流石は名探偵ハナちゃんだ、バレちまったか!」
「兄さまは顔に出やすいので、すぐに分かっちゃいますよー!」
「はははっ、聞いてくれよハナちゃん、実はさ――」
「兄貴ッ! ハナちゃんも! ちょっと道を開けて!」
おれとハナちゃんが狭い通路で話し合っていたのもあって、もう一人の妹が声を荒らげる。
「おっと! すまんユウちゃんッ! ハナちゃんも邪魔になっちゃうから、こっちおいで」
おれはハナちゃんの手を引いて横に避けると、カレーの匂いを漂わせた後ろで一つにまとめている栗色の紙束が前を通っていき、奥にある卓袱台に御盆からカレーとスプーンを人数分、音を立てずに置いていく。
「今日のカレーも美味しそうだぜ! 流石はユウちゃん、将来は三ツ星シェフだな!」
「あーハイハイ。お世辞は良いからさっさとご飯にしちゃいましょ、兄貴が遅いからもうお腹ペコペコなんだから」
「やっと晩御飯が食べられるんですねー!」
二人の妹たちはボロボロになった卓袱台に着くのをみて、おれも空いている場所に座る。
「待たせてごめんな。んじゃ――」
おれは二人に謝罪を零して。
「「「いただきます!」」」
使い古して鈍い銀色を放つスプーンを握って、ユウちゃん特製カレーへと手を伸ばし、口を大きく開けて放り込む。
ハナちゃんに合わせた甘口のカレーはおれの好みとは少し違ったが、それでも愛情を込めて作られているのが分かる出来栄えだった。
「やっぱり、ユウちゃんのカレーは世界一だな!」
「姉さまのカレーは世界一ですー!
おれとハナちゃんは同じ感想を抱いた様で、似たような言葉が同時に飛び出す。
「イチイチ言わなくていいって! それよりも、兄貴」
「ん? どうしたんだユウちゃん?」
スプーンを片手に、訝し気におれを見つめてくる我が妹。
「今日は何か合った? いつものにやけ顔が三割増しになって気持ち悪いんだけど」
「ああッ! そうなんだ、聞いてくれよ二人共――」
おれは懐のスマホを取り出して、三人で撮った写真を二人に見せると、今日の出来事を語り聞かせた。臆病で人見知りな友達の武勇伝を――。
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