第7話 獅子と虎

 無事に人質を取り返した俺達は、廃工場を後にして堂々と正面門を通り敷地を出ると、薄暗い電灯の明かりが俺達二人を闇から見つけ出してくれた。

「ん? ソウマと彩空さんじゃないか、遅い時間にこんな辺鄙な場所で何してたんだよ?」

 廃工場前に伸びる闇の中からふと、聞き覚えのある声が投げかけられる。

「……その声は、カオルか!」

 声の主は暗闇から蠢いて、薄暗い電灯の明かりへとその姿を照らしだした。

 そこには、寝癖のひどい橙色の髪をした俺の唯一の友達が、口の端を吊り上げてこちらを好奇の目で捉えているのが確認出来てしまう。

 それを確認したカオルは俺だけを引っ張り、彩空から少し距離を取って俺の肩へと腕を回すと、彼女に聞かれない様にこそこそと囁いてくる。

「(おいおい、ソウマ! 人見知りなお前が、彩空さんと一緒なんて珍しいじゃないかよ! 二人で何してたんだ~? こっそり、内緒で教えてくれよ~?!)」

「(い、いや。俺達は別に何も・・・・・・・・・・・・)」

 お前の為にスマホを回収して来たんだよ! なんて本人を前にして言うのは恥ずかしいし、彩空とこの時間まで遊んでました。っていうのもあらぬ誤解が生じる可能性が高い……。ここは沈黙で行こう。答えは沈黙だ。

「いいのかよソウマ~! おれ達の仲で隠し事なんて、おれは悲しいぜ~!」

 ゆさゆさを俺を揺らしてボロを出させようとしてくるが、話せない事もあるんだ。許せカオル……!

「青海君は、あなたの奪われたスマホを奪い返す為に、一人でこの廃工場に乗り込んで来たのよ」

 凛とした彩空の声音が、俺の内情を暴露してしまう。

 どうやらカオルが興奮してあげた声が、距離を置いていた彼女にも聞こえた様だ。

「ちょちょちょっ!? 彩空ッ! 何で言っちゃうんだよ!」

 俺は露骨に狼狽して、若干声が上擦ってしまう。

「うん? 何か隠す必要があったの?」

「いや、特にはないんだけどさ……! だって、恥ずかしいだろ! 本人が目の前に居るのに、お前の為に内緒で張り切って取り返しに来ました! なんて言うの! ……それに、俺一人で奪い返せたわけじゃないし…………」

「……わざわざ努力の成果を隠すのは、美徳じゃなくて慢心よ? 青海君は十分活躍したのだから、堂々と胸を張って顔を上げなさい。じゃないと相手も後ろめたくなってしまうでしょう?」

 彩空からの叱咤が飛んでくる。確かに彼女の言う事はよく分かるんだが、今回の作戦って俺はスマホとランドセルの回収と、パトカーのサイレンが鳴るだけの動画を再生しただけなんだよな……。だから、彩空が言うほど俺は殆ど活躍していないと思う。

「そんな事をしてたのかよ!? 別におれに任せておいてくれれば良かったのに、まったく……。怪我とかはしなかったか? タイガ先輩は見てくれは怖かっただろう? まさかおれの為にわざわざ取り返しに行ってくれたなんて、へへっ。ありがとなソウマッ! 無事で良かったぜ本当に」

 カオルは心底嬉しそうに俺をゆさゆさと揺すり、賑やかな笑い声をあげている。

「お、俺達は友達だろ? だったら、助けられてばかりじゃなくて、助ける必要もあると思ったんだよ。だから当然の事をしただけだ……」

 実際は逃げ帰りたい、見て見ぬ振りをしたいと何度も心の中で口にしたが。そのたびに赤色のマフラーが脳裏に浮かんで俺を引き留めてくれた。それに友達の為だと思えば何だか勇気が湧いてくる気がして、二人のおかげで偶々頑張る事が出来ただけなのだ。

「……ほら。見た処、傷は無さそうだった。また荒事に巻き込まれても困るだろうし、スマホケースでも買ったらどうだ?」

 俺は懐からケースに入っていない裸のスマホを取り出して、カオルへと差し出した。

「おぉ! マジでおれのスマホじゃないか! まさか無傷で帰って来るとは、ありがとうなソウマッ! それに彩空さんもッ!」

 カオルは俺の手からスマホを受け取ると、いそいそと起動を始める。

「彩空さんッ! ちょっとこっちに寄って来てくれないか~!」

「良いけど、何をするのかしら?」

「ふっ、記念撮影だぜッ! おれは良いことがあったら一枚撮る事にしててさ、折角だから彩空さんも一緒に撮られてくれないか?」

 俺達二人のやり取りを邪魔しない様に眺めていた彩空へと、カオルは声を掛ける。

 カオルお前、勇気あるなぁ……。異性と写真撮影なんて、普通は誘えないだろ。

 ……しかし、これはチャンスだ。俺の持ってる彩空の写真はクラスの集合写真だけ、この写真は後でカオルに送ってもらって今度印刷しよう。

 ありがとうカオル、お前にはいつも感謝しかしてないが……本当は見返りなんて必要はなかったけど、それでもこれが頑張った戦果だとすれば、十分苦労に見合っていると言えるだろう。

 薄明りの電灯の下で、男子高校生の二人が腰をかがめて肩を組み、その後ろに赤いマフラーを巻いた一人の女子高生がスマホのレンズへと視線を向ける。

「それじゃ撮るぜ!」

 カシャッ。と軽快な音が鳴ってシャッターが切られると、その平凡な光景を収めた一枚の画像がスマホの画面に出力された。

「友達に感動した記念の一枚ッ! 良い一枚になったけどソウマ、お前……。本当に写真写り悪いな。その伸びた髪を切れば少しはマシになるんじゃないか」

「昔からよく言われるよ、写真写りが悪いって……」

「顔の角度が下を向いてるのもあるかもしれないわね? 青海君はもっと顔を上げるべきよ、俯いていては気分まで落ちてしまうもの」

 撮影されたスマホの写真は良く取れていた。

 カオルは俺の肩をがっちりとホールドしながらにこやかな笑顔とビシッと決めたピースマーク。

 彩空は俺達の後ろに位置取ってその口の端を吊り上げており、実に楽しそうにしているのが伝わってくる笑顔とわずかに覗かせたVサインの指が可愛らしい。

 ――前者二人に比べ、俺と来たら。伸びた暗めの前髪が元来の陰鬱さを引き立てて、撮り慣れていないも相まったその口元は歪んで不気味さが増している。

「ねぇ橙山君。その写真、後で私にも送ってくれないかしら」

「おう、勿論良いぜ!」

「ありがとう。素敵な思い出だもの、確かに写真として残すのはいいかもしれないわね」

 え。二人共連絡先知ってるの!? いや、まあ俺が登校していない間に交換してたりしたんだろうか、それとも入学式の時にしたんだろうか。俺ともいつの間にか交換していたし、カオルの前向きなコミュ力ならばとっくにしていてもおかしくはないか……。

「……なぁ、彩空。俺とも連絡先をこうかn――」

「来ると思ってたゼェ! カオルゥー!」

 俺の儚い申し出を掻き消して、地の底から響く様な力強い声音が俺達に届いた。

 廃工場の薄暗く明滅する頼りない明かりを背にした二つの陰が、ゆっくりとこちらに歩みを進め――近くの電灯がその姿を暴く。

 そこには先程逃げ出したはずの、茶髪をオールバックにして獣の如き鋭い眼光を放つ彩空学園の学生服を羽織っている男子生徒。鬼寅 タイガと。

 昼休みに俺達へちょっかいを掛けてきた、あの柄の悪い不良の二人が立ち並んでいた――。



「どうも、タイガ先輩。三年前から変わっていない様で安心しましたよ」

 カオルは俺と彩空を後ろに追いやって数歩前へと足を踏み、鬼寅の威圧した口調と態度をものともせず返した。

「おいおい、なんだぁそのかしこまった話し方はヨォ? 三年前、当時中学一年生の時に不良グループをその拳一つで全員殴り倒して、『獅子』と呼ばれ恐れられてたテメェは何処にいっちまったってんダァ?」

「三年も経てば話し方の一つくらい変わりますよ。それに――おれはもうこの拳を誰にも振るわないって決めたんで」

 橙に染まったライオンの鬣如き髪が獅子に見えない事もないカオルと、その肉食獣めいた鋭い目付きと迫力のある鬼寅が相対し、一蝕即発の空気となる。

 二人の会話の内容から分かるのは、鬼寅とカオルは過去に何らかの因縁があり、それの決着を付けに来たのだろうか?

 正直、分からない事ばかりだが、しかし、今のカオルには鬼寅とそう言う事をする理由がないはずだ、人質のスマホも俺達が取り返した。だったら逃げれば良さそうなものだが……まぁその場合は体力のない俺では逃げ切れなさそうではあるけど。

「なぁ、カオル。スマホは取り返したんだから逃げないか……? あんな恐ろしい奴とやり合う必要はもうないはずだしさ」

「悪いなソウマ。わざわざ取り返してきてくれたのは感謝してるぜ。でも、タイガ先輩とはここで一度決着を付ける必要があるんだ、だからソウマと彩空さんは帰ってくれて大丈夫だぜ、用があるのはおれだけだろうからな」

 カオルはこちらに振り向く事はせず、鬼寅を見据えながらも俺達の事を心配してくれている様だ。

 だが今日の俺はその程度では引き下がれない。俺は友達の為にここまで来たのだから、今更その友達を一人置いて帰るなんて出来るわけが無い。もし帰り道を歩く事になるならばその時は一緒に、だ。

「……カオルをここに置いていけるわけないだろ。俺は残る!」

 俺は意を決してその言葉を呟く。鬼寅はその迫力満点のビジュアルに強く響く声音、普段の俺であれば余裕で逃げているであろう相手を前に、その言葉を出すのは相応の覚悟が必要だったが、震える手を固く握りしめてようやく言の葉に成った。

 そんな俺を見ていた彩空も、俺と同じようにカオルへと言葉を掛ける。

「私も一緒に残るわ、あの程度の相手に逃げ帰る必要はなんてないもの」

 俺の隣で赤いマフラーを揺らしながら不敵な笑みを浮かべて、いつの間にか拳銃をその手に握り締めている姿は実に頼もしかった。

「ははっ。まったく……おれは大丈夫だってのに。――でも、ありがとうな二人共ッ!」

 カオルは未だ俺達に背中を向けているが、嬉しそうな声をあげながらもその口の端を吊り上げている気がする。

「――へッ」

 鬼寅の口がわずかに開き、その恐ろしい顔に一瞬笑みを浮かべるが、それはすぐに身を潜めてしまう。

「ソイツが新しいお友達カァ? わざわざテメェのの為に身体を張ってくるとは――前の奴みたいにいなくならなさそうで良かったじゃあねぇかヨォ!」

 鬼寅はその鋭い眼光で獲物を値踏みするが如く俺を見据えると、次に彩空へと視線を動かし、最終的にカオルへと元に戻す。そして横に並び立っていた柄の悪い不良へと一言零した。

「手ェ出すんじゃあねぇゾォ」

「分かってますよタイガさん、ご武運を――」

 鬼寅はズカズカとこちらへと歩みを進め始める。

「二人共。残ってくれて嬉しいんだが、タイガ先輩には手を出さないでくれよ」

 カオルはそれだけ残していくと、鬼寅に応える様に足を動かした。

 二人は手を伸ばせば届く程の近距離で相対する。

「一つだけ聞かせろカオルゥ。テメェはあの時のテメェのままカァ?」

 鬼寅はカオルよりも高い身長からメンチを切り、威圧している様だ。

 だがカオルはそれでも尚、特に動じることはなく、鬼寅から視線を外さない。

「んや。タイガ先輩、おれはもうあの時とは違いますよ。だけど、タイガ先輩がどうしてもというなら、相手になりますぜ」

「――――そうかヨォ。そんじゃあ、証明してみせるんだナァ! テメェがあん時とどう違うのかをヨォッ!」

 鬼寅が声を上げたのを皮切りに、今までギリギリ保たれていた空気が弾け飛ぶ。

 大きく振りかぶった右拳を勢いよく、鬼寅はカオルの顔面へと振り下ろした。

 しかし、カオルはそれを左手で受け止めて見せると、すぐにそれを放してしまう。

「おいおい、昔のテメェなら受け止めながら反撃して来ただろうだろうにヨォ……マジでその拳は使わねぇつもりカァ? ――舐めやがっテェ!」

 鬼寅はカオルの回答を待たず、すぐさまキレのある回し蹴りで再び攻撃を仕掛けるが、それもまたカオルは受け止めた。

「さっき言ったじゃないっすか。おれはもうこの拳は使わないって」

「へッ! その割には、言葉遣いが少し乱れ始めて来た様だがナァ!? オラァ、テメェがどれ程本気か知らねぇが、その化けの皮を剥がしてやるヨォ!」

 それから二人は言葉を交わす事はなくなり、鬼寅の攻撃が苛烈を極める。

 右の正拳突きを放ち、左膝を打ち上げ、受け止められれば左肘を突き落とす。

 けれどもカオルはそれらを見事に受け止めて、未だに一度も攻撃が通らない。

 それを見ていた彩空が呟く。

「橙山君は大丈夫そうね?」

「……カオルって強かったんだな」

 格闘技でもやっていたのだろうか? 鬼寅の凄まじい攻撃を完全に見切っているし、何と言うか俺達が居なくても何とでもなりそうだった……。

 そんな静観している事しか出来ない俺達に、ふと声が掛けられる。

「よぉ、一年共! テメェらも手出しを禁じられた口かぁ?」

 俺と彩空はその声の方向へと振り向くと、そこにはいつの間にか俺達の傍に寄っていたらしい柄の悪い不良だった。

「橙山君が決めた事だもの、私達が出る幕ではないわ。それとも、あなたが私達の遊び相手になってくれるのかしら?」

 彩空はその強い語気に怯むでもなく、悠々とその手にした拳銃の照準を彼に定める。

「――ッ! い、いや別に、そういう訳じゃあねぇよ!」

 柄の悪い不良はさっきの特製ペイント弾が余程身に染みたのか、大柄な態度はすぐに身を潜めた。

「テメェらはわざわざ俺達のアジトにまで乗り込んで来たんだ。橙山 カオルとはそれなりな関係なんだろ? テメェらから見た橙山 カオルという人物の姿を聞いておこうと思ってな」

 カオルの人物像……。見てくれは強面な感じだけど、実際は俺みたいな人見知りでコミュ障な相手にも分け隔てなく接してくれる優しい奴で、最初の友達としては最高の相手と言えるだろう。カオル以外の相手だったら、俺はここまで来てないだろうしな……。

「……カオルは、最高の友達だ」

 俺は思った事をそのまま口にした。

「ほぉ?」

 柄の悪い不良は値踏みする様に、俺の頭から爪先までをじっくり観察し始め。

「テメェ……どことなくアイツに似てるな。――フッ、なるほど」

 柄の悪い不良は独りでに納得している様で、何やら俺とカオルを交互に見ていた。

「おい陰鬱なツラしたテメェ! 橙山 カオルから逃げ出さないでやってやれよなっ!」

 柄の悪い不良は俺に近づいて両の方を勢いよく掴むと、その口を吊り上げてよく分からない事を言ってくる。

 『カオルから逃げ出さないでやってくれ?』。なぜ、カオルからそんな事をする必要があるのだろうか、むしろ俺がカオルに愛想をつかされない様にするべきだと思うが……。

 俺が胸中で疑問を抱えていると、横から少しだけ怒ったような感情を秘めた凛とした声音が響く。

「あなた失礼ね。ソウマ君は絶対に逃げないわ。それに人を呼ぶ際にイチイチ『テメェ』と口にするのは相手に悪いと思わないのかしら?」

 なぜか若干怒っている彩空が、柄の悪い不良の頭部へと手にした拳銃を照準していた。細く白い指が引き金に添えられており、いつでも発砲準備が出来ているみたいだ。

 彩空の威嚇とも取れる行動に若干怯えた柄の悪い不良は、俺の肩から腕を放す。

「……なぁ赤色ォ、すぐに武力行使するのは良くねぇと思うぜ?」

 俺もそう思います……。

「私は彩空 ヒイロ。もう一度その抽象的な呼び名で呼んでみなさい、次は容赦なく撃つわよ」

 彩空の剣幕に押された柄の悪い不良は、面倒くさそうなやつを見るような目をして、渋々と言った感じに謝罪をこぼす。

「はぁ……悪かったよ。俺は――……そうだな、『R先輩』とでも呼んでくれ。これでも一応彩空学園の二年生だからよ。それと陰鬱なの。昼休みは巻き込んで悪かったな、すまねぇ」

 柄の悪い不良こと『R先輩』は、ひどく嫌そうに自己紹介を交えて、昼休みの事を謝罪してくれた。

 それにしても、なぜ本名を口にするわけでもなく、渾名らしきものにしたんだ。

「……えぇと。俺は青海 ソウマ……です。まあ昼休みの事は過ぎた事なんで、ハイ……」

 一応上級生なので敬語を使おうとしたが、普段から使わないのもあって取ってつけたような形になってしまった。あと、素直に謝られてしまい、イマイチ強気に出れない。

「彩空と青海な、覚えておくわ。ところで一年共」

「なにかしら?」

「……?」

 俺と彩空は首をかしげる。

「テメェらは橙山 カオルについてどこまで知ってるんだ?」

「……カオルについて?」

「ああ、具体的に言うならば、アイツの中学時代の話だ」

「私は知らないわね。知り合ったのは彩空学園に入ってからだし……」

「俺も彩空と同じ……です。特に噂とかも聞いた事は無い……ですね」

 たどたどしい敬語を交えながら言葉を紡ぐ。

 しかし、カオルの中学時代か。俺も彩空もカオルのそういう話は聞いていないけど、それはまだ知り合って日が浅いのもあるだろう。

 よくよく考えると、俺とカオルは大して過ごしてもいないし、お互いの事を知るわけでもないのに、こんなに頼りにしてしまっているのはカオルが少し過剰に感じるくらいに俺を気にかけてくれているのもあるし、引きこもりの俺にとって”友達”という関係は一種の憧れになっていたからだろう。ちょっと歪んでる気もするが……カオルに友達と呼ばれた時、俺が喜びを感じたのもまた事実だった。

「そうか。んじゃあ俺が後輩共に一つ昔語りを話してやるとするかっ! 橙山 カオルが獅子と呼ばれたあの当時の事を――」

 R先輩は俺達から視線を移した先には、痛快な右ストレートを放つ鬼寅とそれを難なく受け止めているカオルの姿があった。

 ”獅子”と呼ばれたカオルか。見てくれは確かに寝起きのライオンみたいな髪型をしているけど、無暗に乱暴をするような奴ではないのは間違いない。

 それでも、そういう異名が付く程の何かが過去にあったのだろう。俺は少しだけ緊張した面持ちで、R先輩に耳を傾けることにした。

「――当時、三年前の橙山 カオルには一人の友達がいたんだ。テメェ……じゃねぇ、青海と似たような陰鬱とした印象を受ける橙山と同じクラスの男子生徒がな。ソイツは人との交流が上手くなかったんだろう、聞いた話じゃ内気で臆病な性格が災いして、裏では陰湿なクラスメイト共のいじめの被害にあっていたらしい」

「クラスメイトで虐め? ……橙山君もそれに加担していたのかしら?」

 彩空は目を細めさせて、R先輩を睨む。

「いや、当時の橙山 カオルはクラスの殆どの奴と仲が良く、唯一ソイツとも関係を持っていたのもあってアイツは加担していない。むしろ、虐められているソイツを励まして支えていたのは橙山 カオルくらいだったらしいしな」

「そう。橙山君は虐めを認識していたの?」

「していると思うか? 俺が陰湿なクラスメイトとあえて付け足しているのはそこだ。ソイツと唯一仲良くしている橙山 カオルにはバレない様に陰でこそこそと、口外しない様に脅して虐めを繰り返していたんだよ。……ッチ、この話は相変わらず胸糞で気分悪ぃな本当によっ!」

 R先輩は話している内容に腹を立てて、むしゃくしゃと頭を掻きだす。

 むしろそう言う事をしてる側に見えるのに、腹を立ててるところから意外と悪い人ではないのかもしれない。

「まあ、そんなこんなあってソイツはあまり学校に顔を出さなくなった。――というのは表の話で、実際はその辺り一帯の地域を仕切っていた不良グループに属して学校に行っているフリをして過ごしていたんだ」

「……? なんでわざわざ不良グループに属してまで登校しているフリを? 別に家で引き籠っていても良かったんじゃ……ないですか?」

 虐めが嫌なら家にいればいいと思うのだが、それは長年引き籠り生活をしていた俺だからそういう思考になってしまっているのか。それともそこまでして家に居たくない理由があったのだろうか。

「両親に心配を掛けさせたくなかったらしい。ソイツの親は少ない給料で働いていて、いつも帰るのは夜遅く休みも殆どなかったんだと。だから虐められている事を告げられず、不良グループのもとで時間を潰すようになったんだ」

「……そうか」

 俺は両親が残した財産と叔父さんのおかげで引き籠っていられたが、確かに引き籠れるほど生活に余裕がなければそれは成立しない。

 カオルの当時の友達に、虐めを学校側に告発する勇気があれば……と思ったが俺と似たような感じの奴らしいし不可能だな。それに両親に迷惑を掛けたくないという理由な以上、それは無理な話だろう。

「――そんでその不良グループってのが。タイガさんが頭を張ってた不良グループでよっ、確かに表向きには不良グループと呼ばれていたんだが、実のところは学校や家に居場所のない奴を集めてグレない様にする為の場を提供していたに過ぎないんだ」

 フッ。とR先輩は誇らしげに笑みを零した。

「鬼寅 タイガが? 信じられないわね。学園で集めた彼の情報には”悪い噂”も混じっていたわ」

「……確か、叔父さんも言ってたな。鬼寅は二年の頃から悪い噂が立ち始めたって」

 正直、R先輩の言う事は信じられない。だってあの恐ろしい風貌でカオルを罠に嵌めた挙句、一方的に殴っている現状を見てその言葉を信じるのは難しいだろう。

「…………あー、それは誤解だ。タイガさんはその風貌のせいでよく冤罪を掛けられるんだよ。声を掛けただけで恫喝に間違えられ、週に数回は職質に会ってるしな。あの人が犯罪を犯した事は一度だってないぜ?」

 まあ、あんなザ・不良みたいな感じを気取っていればそりゃ、冤罪もあるだろうけど……。それでもまだ、あの人がそんな慈善事業をするとは思えないよなぁ……。

「……今、目の前で暴行罪が行われている様に見えるけど……ます」

「青海の目は節穴かぁ? 暴行罪ってのは傷害を与えられる行為を指すんだ、タイガさんが橙山 カオルをわずかにでも負傷させられるわけねぇだろうが」

「……どういう事……ですか?」

 今日はよく疑問符を浮かべる日だ。R先輩が言っている事を読み解けない。

 今目の前で行われている行為では負傷を取れないという事なのだろうか……? あの鋭い右ストレートや、キレのある周り蹴りは傍から見ればすごい威力を秘めている様に見えるけど……それとも、カオルに直撃していないからセーフ理論なのだろうか?

「あー、まあアレだ。タイガさんのパンチやキックに大した威力はねぇ」

 R先輩はこめかみを抑えると、はあ。と一つため息をつく。

「確かに、鬼寅 タイガの技の一つ一つは形になっている様に見えるけど、それに比べて威力が足りなさそうね。まったくと言っていいほどに音も響いていないもの」

 彩空が鬼寅の攻撃を入念に観察していた様で、R先輩の言葉を裏付けてくれる。

「ああ。タイガさんは筋力が殆ど無いし、体力もあんまり無くてな。本気の力で殴っても精々、膨らませた風船が割れるかどうかってレベルだ……」

「……マジか」

 俺はあまりにも愕然とした真実を聞いて、つい敬語を外して呟いてしまった。

 あの人、あんな風貌と迫力で力が貧弱なのか。マジかよ……。

 憐みというか、何て言うか非常に困惑した感情が入り混じった視線で、つい鬼寅を見つめてしまう。

「タイガさんも元は虐められていた側だったんだよ、でも元来非力なのもあって暴力じゃあ勝てねぇから他の方法を模索したんだとさ、それがあの姿なんだ。あの茶髪のオールバックと乱雑な羽織り方は自分の身を守り、似たような境遇の奴を救う為のシンボルマークになった。あの人は俺達の様な居場所のない奴からしたら、英雄の如き存在だったんだよッ!」

 R先輩は若干興奮気味に語り、その握り締めた右拳をふるふると震わせた。

 聞いている限りでは、鬼寅は居場所のない日陰者たちを集めて道を踏み外さない様にしていたらしい。それが本当なら素晴らしい人材に他ならないが……カオルを殴る蹴るしている事実は覆らないし、鬼寅は自分の攻撃が傷付けられるほどでないと理解しているのに攻撃を続けているのか。まだ分からない、鬼寅の狙いは何なんだろう。

「それで橙山君の中学時代の友達の話はどうなったの? 途中から脱線しちゃったけど」

 俺が問う前に彩空が軌道修正してくれた。

「ああ、悪ぃ悪ぃ。確か不良グループに入った処まで話したんだったな、ソイツはそこで比較的充実した時間を過ごしていたよ。アジトの端で本を読んでる姿が多かったな」

「うん? もしかしてあの廃工場を三年前から使っていたの?」

「そうだ、あそこは俺の親父の所有地だからな。当時、鬼寅さんに相談されたときから解放してんだよ。もう使わねぇし、親父はいまだに処分したがらねぇから丁度良くってな」

「……そう。窓を割ったのは私よね。ごめんなさい」

「……すみませんでした」

 俺と彩空は同じようにR先輩に頭を下げた。

 事情があったとはいえ、故意に器物破損をしている以上こちらが全面的に悪い。ここは素直に謝るべきだろう。

「別に気にすんなって! ひび割れてたしな、張り替える口実になって丁度良かったんだよ。それにあの窓をあんなにボロボロにしたのは元はと言えば――橙山 カオルだしな」

「……どういう事……ですか?」

 カオルがあの廃工場の窓ガラスにひびを? そういえばカオルはこの廃工場の場所を知っていた。それは以前に来た事があったからだったのか、でもどうしてそんな事を……?

 俺と彩空が頭を戻したのを確認すると、R先輩は再び口を開いた。

「俺達の不良グループにソイツが加入してから少し経ったある日の事だ、突如としてあのアジトにアイツが、橙山 カオルが単身で乗り込んで来やがった。そして有無を言わさずにそこに居た奴を視界に入れた先から順に殴り倒し始めたのさ……、まさに悪夢だったぜ。俺とタイガさんは橙山 カオルと止めようと必死に抵抗したんだが、俺達程度じゃアイツにはまったくと言っていいほどに歯が立たなくてな、タイガさんの不良グループは奴の友達を残して全員が、ひどい怪我を負って病院送りにされちまったんだ」

「その時に割れたのが、あの窓ガラスだったのね」

「……ああ。そして後から聞いた話なんだが、橙山 カオルはクラスメイトから俺達の不良グループが奴の友達を脅して学校に行くのを邪魔していると、嘘を教えられたみたいでよ。それで友達想いの橙山 カオルはその暴走した正義を暴力にして振りかざしたらしい。橙山 カオルもタイガさんも誰かのためにと思って行動を起こした結果、陰湿な横やりのせいで潰れちまった……ッチ。本当に嫌な思い出話だぜッ!」

 R先輩は舌打ちをすると、憂いを秘めた瞳で鬼寅とカオルを見つめる。

「……それで、その後はどうなったんですか?」

「……あー、タイガさんの不良グループは解散。奴の友達はその後すぐに転校しちまって行方知れず。橙山 カオルはそれ以来、学校に来る事はなくなったはずだ。ただ、その凄惨な暴力事件の話は広がってな、誰が名付けたかは知らんが橙山 カオルを『獅子』と呼んで嘲る奴を校内ではよく見る様になったんだ」

 俺はR先輩が聞かせてくれた話を聞いて、非常に遣る瀬無い気持ちでいっぱいになった。

 だってそんなの理不尽ではないか、誰も救われず。救おうとした者達が損をするなんて……!

「ねぇR先輩。その虐めた陰湿なクラスメイト達はどうなったのかしら?」

 彩空も怒っている様で、怒気を秘めた言葉がR先輩に投げつけられる。

「俺は違う学年だったから詳しくは分からねぇが、奴らは特に反省するでもなく悠々と学校生活を過ごしていたぜ……」

「……そん、な」

 俺とR先輩が歯痒い思いで顔を歪める。彩空もいつの間にか拳銃をしまい、首元に撒いたマフラーを口元まで引き上げて、拳をぎゅっと握りしめていた。

「タイガさんは別に橙山 カオルに恨みがあるわけじゃねぇんだ……ただ、アイツが当時の『獅子』と呼ばれた暴力的なアイツかどうかを確かめる為と、もしまだアイツが苦しんでいるなら助けてやりたいみたいでよ。拳を交えればアイツが抱えているモンを吐き出させられるかもってな……。ハァ、あの人は本当に……不器用でお節介な人だと思うぜッ!」

 R先輩が見つめる先には、肩で息をしながらも全力で右拳を振り抜いて、その想いを後輩へ届けようとする一人の漢の姿が立っている。

 俺達はただ見届ける事しか出来なかった。彼ら二人が満足し、納得するその時まで――。



 もう何発の拳を、蹴りを受け止めただろうか。

 鈍っているとはいえ、まだまだ十分動ける体力はある。

 しかし、おれを目掛けて拳を振ってるこの人はもう限界が近い様で――。

「なぁタイガ先輩。もうやめにしよーぜ。あんたじゃおれには敵わない事はよく分かってんでしょう? なのに、何でそこまでやるんすか?」

 おれの目の前には、ぜぇぜぇと息を吐きながら、肩で呼吸をするのが精一杯な状態のタイガ先輩が、膝に手を置いて下からこちらを睨め付けていた。

「――――ハァ、ハァ。ったくテメェは何でそんなに強ェんだよヨォ! これでも、俺様は三年間鍛え続けたんだゼェ、それなのに一発も殴れねぇなんてナァ……まったく、テメェが羨ましくてしょうがネェ! カオルヨォー!」

 先程より遥かに遅い右拳がおれの頭目掛けて放たれるが、速度も威力もないパンチなんて簡単に止められた。

 次は足を使うか、左腕を使うか。至近距離での技を見切るのは至難の業だが、タイガ先輩はすでに疲労で衰えている。次に何が来ても十分受け止められるだろう。

 それにしても、タイガ先輩の意図が読み取れない。まあおれの頭が悪いからそれも仕方がないのだが、だとしてもタイガ先輩はおれみたいなバカじゃないのは知っている。

 そんなあの人が、ただ威力の無い攻撃をしてくるのは何故だろうか。それとも、そんなの関係なしにあの時の復讐をしたいだけなのか。復讐なら受けても良いのだが、それにしても威力が低すぎる。これでは当時、おれがタイガ先輩達にした状態にはする事は到底できないだろう。

「……おい、カオルゥ! テメェ……本当に、変わっちまったんだナァ。いや、変わったというよりも、牙が抜け落ちちまったって感じだガァ……」

「そう言ってるじゃないっすか。おれはもう暴力を振わねぇって決めたんすよ」

 タイガ先輩達を殴り倒した後の――、アイツの言葉が思い起こされる。

『お前がすべてを壊したんだ! 全部、全部。お前のせいなんだよ! もう二度と前に現れないでくれ! カオルなんて友達じゃないよ! 大ッ嫌いだ!』

 アイツの怒りの籠った言葉、おれを否定する言葉、おれ達の関係性を砕く言葉。

 おれはただアイツの為になりたかっただけなのに、アイツはおれを恨んで姿を消してしまった。

 ――おれの拳がすべてを壊してしまったから。

「テメェは……後悔したカァ? その拳で色んなモンをぶち壊しちまった事を――」

 未だにタイガ先輩の右拳を掴んでいるのもあって、おれ達は顔がくっつきあうギリギリの距離で睨み合っている。

 そんな状態でも、タイガ先輩の鋭い眼光はおれの瞳を見据えており、彼の言葉は何処かおれを気遣う様なものを感じさせた。

「俺様は後悔したゼェ。もっと俺様が強ければ、テメェの暴走を止められたかもしれねぇってナァ。だから俺様は鍛えたんダァ、もう一度同じ理由で後悔しねぇ為にヨォ! まあ、結果はこのザマだなんだガァ……テメェはどうなんだカオルゥ?」

「……おれ、は…………」

 おれも当然、後悔した。アイツのおれを恨むような言葉を聞いた時に。そして、タイガ先輩の不良グループの実態を知った時。おれがもっと賢くて視野が広ければ、防げたかもしれなかったと……何度も後悔を口にした。

「まあ言わなくても俺様には分かるゼェ。情に厚いテメェの事だ、絶対しただろうからナァ――――だけどヨォ、カオル」

 タイガ先輩は優しく諭すように言葉を紡ぎ、おれの名を口にする。

「テメェの行動は決して貶される様な事じゃあネェ! 直接暴力で訴えたテメェは確かに良くは無かったかもしれねぇし、テメェがもう少し思慮深ければよかっただろうがヨォ。……んなもん、結果論に過ぎねぇだろうガァ! 誰かのために動いたテメェの行いはすげぇ勇気のある事なんだヨォ! ……だのに、テメェは誰からも賞賛されず、その正義を振りかざしいた拳をしまいやがって。挙句にテメェは何とも無さそうにしおらしく普通を装ってるのが、俺様はひどく気に入らネェ! せめて、一発ぶん殴らせろヤァーーッ!」

 タイガ先輩は叫び声と共に右拳に力込める。足を踏ん張り、身体全体で右拳に全力を注いでいるのだろう。

 ――それでも、おれが掴んだ拳をぶち抜く程には遠く及んでいなかった。

「タイガ先輩。あんたじゃおれに一撃入れるのは無理っすよ。それにおれはもう決めてるんです、すべて受け入れるって」

 それしかおれにはもう償う方法がないのだから。アイツもいない、タイガ先輩のグループが元に戻ることもない。おれが出来るのは彼らからの恨みや憎悪を受け止める事だけだ。

「ったくヨォ! テメェはもう少し、誰かを頼る事を覚えろよナァ!」

 タイガ先輩の右拳の力が急に抜けて引き戻されていき、それと同時におれの身体も引き寄せられて――タイガ先輩の額とおれの額が鈍い音をあげて、勢いよくぶつかった。

「……ようやく、一撃お見舞い出来たゼェ」

 タイガ先輩の額からは赤色の滴が滲みだしており、彼の迫力ある整えられた茶髪のオールバックが乱れてしまっている。

 おれの方は昔から体だけは頑丈なのもあって、わずかに痛みが走った程度で大した傷は負っていなさそうだった。丈夫な身体な事に感謝だ。

「これで満足っすか? おれにはタイガ先輩が何をしたかったのか分からねぇけど――タイガ先輩の気遣いは十分に感じましたよ」

「――別ニィ。俺様はただ、テメェのよそよそしい感じが気に喰わねぇから、ぶん殴りたかっただけだゼェ。他に意味なんてもんはあるわけねぇだろうがヨォ!」

 タイガ先輩はふっ。と笑みを零して満足そうに吼えて、ふらふらと体勢を崩していき、その場に座り込んでしまう。

「大丈夫っすか」

 おれがタイガ先輩を起こそうと手を差し出すが、彼はその手を拒んで俺を睨み付ける。

「……もう、行けヨォ。俺様の用は済んだ、テメェの大事なお友達を連れてさっさと失せやがれってんダァ!」

「……そうっすね。そんじゃ、タイガ先輩……ありがとうございました」

 おれはタイガ先輩の気遣いに礼をして彼の前から立ち去った。

 結局、タイガ先輩はおれに何を伝えたかったのだろうか? あの人の気遣いは伝わって来たし、おれを肯定してくれているのは分かる。

 けれども。おれが壊したものは戻らないのだから、それを受け止めていくしかないのではないだろうか――。

 そんな幾度となく自分に問い続けた、答えの出ない問題を自問自答して、待たせていた気の良い友の下へと足を動かす事にする。



 すっかり夜の帳が降り切って、道沿いに並んだ電灯が導く様に帰る道を照らしだし、通る家々からは食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。

 俺達三人は崩れ落ちた鬼寅とR先輩を残して、帰路に着いていた。

「もう痛みは大丈夫なのか?」

 俺は隣を歩く、寝起きな獅子の如き髪型をした友人へと、心配を零す。

「大した事ねぇって! おれの身体は頑丈だからな! それに、彩空さんに絆創膏も貼って貰ったし、これ以上文句も出ない程だぜ!」

 額に名誉の証とでもいう様に絆創膏を張られたカオルの表情は清々しく、以前よりも自然な印象を受ける。まさに憑き物が落ちたといった感じだ。

「それよりも、ソウマこそ怪我はしてないか? 廃工場に乗り込んだんだろ?」

「ああ、指先を少し切ったけど、俺も彩空に絆創膏を貰ったからな、今はもうあんまり血も止まったみたいだから平気だよ」

 俺を心配するカオルへと絆創膏を貼った指を見せつけて、大丈夫な事を教えてやる。

「ふぅ、なら良かったぜ」

 R先輩の話を聞いたのもあって、カオルの過保護な優しさは過去に居た友達との出来事を俺に重ねているのかもしれないな。

 勿論、カオル本来の性格が情に厚いというのもあるだろうけど……。

「……別にそこまで心配する程の事でもないだろ。俺達ももう高校生なんだし、これくらい何てコト……」

「だってよぉ。ソウマと初めて会った時なんて、あまりの人の多さに今生に絶望した様な表情をしてたんだぜ? それにクラスの自己紹介の時も緊張でいっぱいいっぱいで、見てるおれの方が冷や汗凄かったんだからなー?」

「うっ……」カオルに事実を告げられて、俺の口からは苦悶の声が上がる。

「そんな不安な要素ばかり見て来たおれとしてはソウマが心配なわけだ」

 全くもってぐうの音も出ない……。

「でも、今日の昼休みや、廃工場に乗り込んだ事といい。おれはもう少しソウマを信じてみても良いのかもしれねぇな!」

 へっ。としたり顔を見せるカオル。

「……あ、ああッ! 俺達は友達だからな、頼り頼られるべきだ」

 俺もカオルに呼応するように、口の端を上げて笑って見せる。

「んじゃ、頼りにしてるぜソウマッ! あと、次の昼飯は一人で買いに行くんだぞ? ソウマを信じてるからな! 今のお前ならきっと大丈夫だ!」

「お、おおおう……!? いや、待ってくれカオル! 流石にお昼の多目的棟に一人はまだ…………」

 確かに今の俺ならば、お昼の雑踏の如く犇めき合った多目的棟へ一人で赴く事が出来るかもしれない……だが、これは一時的な気分の高揚であって、寝て起きればいつもの臆病な俺に戻っているはずだ。

 いつでも勇気が奮い立てれば良いんだけどなぁ……。

「ははははっ! 冗談だぜ、冗談! まあ、あと何回かは付いて行ってやるからよ」

「……ああ。助かる」

 カオルの冗談に今後の不安を募らせるが、これもカオルからの期待だと思えば悪い気はしなかった。

 それに彩空に憧れているならば、あの程度の雑踏をものともしないくらいにならなければいけないのだから、これも修行の一環だと思えば――いや、きつい。

 俺がそんな未来の苦しみに胃を痛めていると、お腹から子気味良い音が鳴った。

「……腹減ったな」

 普段ならすでに夕食の時間なのもあってか、美味しそうな臭いを嗅いだ俺のお腹はぐぅ~。と音を立ててしまう程に空腹だった。

「夜遅くまで付き合わせてごめんな。アレだったらコンビニでも寄っていくか?」

「……そうだな。ちょっと寄っていくか」

 帰宅したら夕食もきちんと食べるが、久しぶりに大量のカロリーを消費した様で、普段よりもだいぶお腹が空いている気がする。なのでホットスナック一つ程度なら、腹に入れても大丈夫だろう。

「よっしゃ! んじゃ近くのコンビニに寄っていこうぜ! 彩空さんもどうだー?」

 カオルは暗闇でも存在感を放つ黄色のランドセルを背負って、赤色のマフラーをゆらゆらと揺らしている俺達の少し先を歩く相手に声を掛けた。

「うーん。そうね……」

 彩空は歩みを緩めて少しだけ悩んだ素振りを見せる。懐からスマホを取り出して頼りない光源を放つと、そこに表示された現在時刻を確認した。

「まだ大丈夫ね。行きましょうか」

 彩空はそのさらさらとした黒髪と赤いマフラーを靡かせて、こちらをくるりと振り返ると、わずかに楽しそうな笑みを零す。

「んじゃ、決まりだな! コンビニに行くとすっか!」

 明るく声を上げるカオルは待ちきれんという様にしている。

 そういえば、鬼寅と拳を交えてからカオルの口調が少しだけ変わった気がするのは気のせいじゃないのかもしれない。

「もしかして、橙山君が奢ってくれるのかしら?」

 彩空が揶揄う様な口調で、そんな事を口にする。

「ははっ! いいじゃねぇかっ! この時間まで付き合わせた礼って事で、今日はおれが二人の分を奢ってやるぜ!」

 カオルは彩空の言葉に調子よく乗っかって、気前よく宣言してしまう。

「お、マジか? 後悔しても知らないぜカオル……!」

 空腹なのは兎も角、今日の俺はかなーり頑張ったからな! 奢りと言われれば、ちょっとした贅沢品を手にしてしまうかもしれないぞ!? ……まあ、ホットスナック一つにミルクティーを一本追加するだけなんだけど。

 それに入学式や昼休みの事を考えれば、むしろ奢るべきなのは俺の方だと思わないでもないし、本当は何かを買って欲しいのではなくて、そういう時間を過ごしてみたかっただけなので、多くを求める必要は無かった。

「もう。今のは冗談よ、自分の分は自分で払うから気にしないで」

 俺の俗物的な心のうちに反して、彩空はとても謙虚だった。

 それは拾ったお金をしっかりと交番に届けるが如く真面目で――。

「……そうだな。俺も自分の分は自分で買うよ、ありがとうなカオル」

 彩空に感化されて、俺もカオルの厚意を断る事を口にしてしまう。

 彼女に憧れているのもあるが、なんだか彩空の前ではあんまり醜態を見せたくないと考えてしまう俺がいる。……すでに入学式の日にかなり晒した気がしないでもないが、これ以上はなるべく見せない様にしたかった。

「彩空さんは兎も角、ソウマまでそんな事言うのかよっ!? ――だったら、支払いの時に、おれが先に名乗りを上げてやる――ぜっ? ああっ!」

 カオルはにやにやと笑みを浮かべていたが、懐に手を突っ込んだ辺りからその余裕は消えていき、最後には驚愕の声を叫んだ。

「ど、どうしたんだ?」

「…………忘れちまったぜ」

 カオルは凍り付いた表情でぽつりと呟いた。

「うん? 何を忘れたの?」

 彩空も俺達のやり取りに気付いた様で、カオルの主語のない言葉に疑問を零す。

「財布を、家にっ!」

 カオルは絶望の淵に沈んだかの如く、地面に膝をついてしまう。

「なんだ、そんな事か。カオルの奢りはまた今度だな、むしろ今日は俺に奢らせてくれ。入学式と昼休みの礼をしたかったんだ」

「い、いや。付き合わせたソウマに奢ってもらうのはおれが許せねぇっ! くそう、こんな事ならしっかりと確認しておくんだったぜ……っ!」

「なら、さっきのカオルの言葉を借りて、支払いの時に俺が名乗りを上げさせてもらう(まあ、人見知りが発動しなければだけど)――あれ?」

 俺はカオルの様に高らかに声を上げて、財布を取り出そうと鞄の中に手を突っ込もうとした処で気付く。

「ん? 固まったままでどうしたんだ?」

 カオルは絶望の淵から何とか脱した様で、立ち上がって動かなくなった俺の肩をゆする。

「…………俺も学園に忘れて来た」

 登校する時には手にしていたはずの鞄を持っていない。そういえば……机の横に掛けたままだったのを今思い出した。

 カオルの事で頭がいっぱいだったのもあって、完全に忘れていた。誰かに盗まれて無ければ良いが……せめてロッカーに入れておくべきだったな。

「ははっ! お前もかよソウマっ!」

 カオルが打って変わって腹を抱えて笑い出した。

「……くっ。学園を出る時にしっかり確認しておくんだった……!」

 まさか、こんな処で忘れ物が響くなんて思わなかった。恨むぞあの時の俺……!

「もう、二人してお財布を忘れてくるなんて、意外と抜けている処があるのね?」

 彩空はふふっ。と口に手を当てて笑っている。

「しょうがないわね。今日は私が払ってあげる、素敵な時間を過ごせたお礼だからお返しは要らないわ――よ?」

 彩空は懐から取り出した物を見て軽く首をかしげていた。

 彼女の手元を覗き込むと、そこには――『TOPPO』と書かれたチョコレートのパッケージが握られている。

「…………二人共、一本食べる?」

 彩空は背筋が凍てつく程に冷たい声音で、そんな事を俺達に提案してきた。

 なんだこの重い空気は……!? 先程までの和気あいあいとしたものは何処へ行ってしまったと言うんだ!

 先程、鬼寅と張り合っていたあのカオルも、隣で彩空にわずかにその拳を震わせていた。

 彩空のさらさらとした前髪が壁になって、彼女の表情を、感情を読み取ることが出来ない。俺達は何か彼女の地雷を踏んでしまったのだろうか……?

 俺達が彼女の問いに答えられず、その場で凍り付いていると。

「……ふふっ」

 彩空が顔を上げて、くすりと笑いを零した。

 俺もそれに釣られて自然と口がつり上がる。

「……ははっ」

 何だか分からないが、俺はひどく安心した。

「あーっはっはっはっ!」

 カオルが声を大にして笑い出す。

「何やってるのかしらね。三人揃ってお財布を忘れるなんて……ふふふっ」

 そういう彼女は実に楽しそうに笑い。

「本当に、何やってんだろうな……」

 俺も心からの笑みが零れる。

 何だか分からないが、今俺は心が満ちる程に充実感を覚えている。それは引き籠っていたら絶対に味わえなかったものだ。

 三人揃って財布を忘れるとは間抜けも良い処で、傍から見れば酷く滑稽なこの光景は、とても心地よくて――何よりも得難い物だと実感する。

「ははっ。……こういうのも、悪くないな」

 俺の口から素直な言葉が、ふいにこぼれ落ちていった。

「だなっ! ……おれさ、正直な処、高校生活が不安だったんだ。また中学みたいな事になっちまいそうでよ。でも――おれの為に怖い先輩が待つ廃工場へと先に乗り込んでくれる勇気ある友達が出来て、その心配はかっ消えたんだぜ。だからさ、ありがとなソウマっ! それに彩空さんも! はははっ! 最高のクラスメイトに囲まれておれは嬉しいぜっ!」

 カオルがそんなくさい言葉を恥ずかしがらずに口にする。

「……俺達は友達だからな。友達なら、と、当然のことだろ……?」

 俺は少し恥じらいながらも、想ったことを口にする。

 助けられるだけなのはかっこ悪いし何より、漫画やアニメの知識では友達とは助け合うものだと学んだ。

 それに、今日分かったんだ。創作物で大切な誰かの為に動く時、力が漲って勇気が奮い立つあの現象は本当だと言う事を。

「俺も楽しかった。初めてだよ、こんなに充実した時間は……ありがとう」

 今までの様に引き籠っていたら、絶対に体験する事の無かった充実感。

 今日という日に登校出来て、本当に良かったと思える。

「ええ。私も楽しかったわ――ふふっ」

 彩空はくすりと笑い、にこりと微笑みを見せると。

「はい、一本だけあげるわ」

 彩空はいつの間にか封を切った先程のチョコレートの袋を一つ俺達の前に差し出すと、器用に中身を二本だけ取り出しやすいようにはみ出して見せた。

「……悪いな。有難く頂くとするよ」

 そう言って俺は、二本あるうちの片方に手を出して引き抜こうとするが――。

「……? 彩空、もう少し力を抜いてくれないか。じゃないと引き抜けないよ」

 なぜか、彩空の込める力が強く、中身のチョコレート菓子を取り出す事が出来ないでいた。

 俺はもう一度引き抜こうとするが、依然としてその力は弱まることはない。

「……な、なぁ彩空。力が…………」

 俺は彩空の顔を窺うと、じーっと手にしたチョコ菓子の袋を真剣に見つめていた。

「あの……彩空サン?」

 俺が恐る恐る声を掛けると、こちらに緋色の瞳を動かしてくれる。

「……なにかしら?」

 ――しかし、その瞳は笑っていなかった。

「いや……なんでもございません」

 俺が彩空に圧されてチョコ菓子から手を離そうとすると――。

「――待って!」

 彩空が珍しく声を荒げた。

「……い、良いわよ」

 彼女がずい、とチョコ菓子の袋を前に出してくる。今度こそ取っても良いと言う事だろうか?

「……そ、そうか。それじゃあ、今度こそ」

 俺がチョコ菓子を引き抜こうとすると――今度はすんなりと袋から取り出す事に成功した。

 彩空の表情を窺うと、少しだけムッとしていたのは気のせいだろうか。

「んじゃ、俺も一本頂くぜ! サンキューな彩空さん!」

 カオルも残りの一本へと手を伸ばし、特に苦も無く引き抜くことに成功していた。

「……もしかして彩空って、このチョコ菓子が好物なのか?」

 提案したはいい物の渡すのを渋っていた辺り、もしかしたらそうなのかもしれないと。俺はふとした疑問を投げかけてみた。

「ええ。チョコレート菓子全般は好きよ、特にこのチョコ菓子は特別ね」

「……なるほど」

 やっぱり。好物なのもあるが、何かしら思い入れのあるチョコ菓子なのもあって、俺達に分けるのを少し渋っていた様だ。

 彩空は先程の様に、器用に袋から一本チョコ菓子を取り出して、まるで煙草を吸うみたいに口にくわえる。

 俺もチョコ菓子を口に入れると、サクサクとした食感の良いプレッツェルの生地に優しいチョコレートの甘さが口の中に広がり、疲れた俺の頭に栄養を補給をしてくれた。

「……美味いな」

 普段は菓子と言えばポテトチップスくらいで、甘味はすべて至高の飲料水であるミルクティーに頼りきりだったからか、他の甘味を口にしたのは久しぶりで新鮮な感覚だった。

「そうでしょう? チョコレートは幸せの味がするもの。――ふふっ」

 彩空がくすりと笑うと、彼女の赤いマフラーが風に吹かれ、俺を誘う様にひらひらと揺らめいた。

 俺は誘われる様に彼女のマフラーへと手を伸ばす――が、彩空がくるりと踵を返してしまいマフラーが揺らめいて、俺の拳が何かを掴むことは無かった。

「さて、楽しいお話も良いけど、そろそろ足を動かしましょう? じゃないと、いつまで経ってもご飯が食べられないわよ?」

 そう言って彩空は再び、俺達の数歩前を歩き出す。

「あ、ああ……いい加減に帰るとするか」

「買い食いはまた今度だな、次は忘れないからよ!」

 俺とカオルも彩空に続いて足を進め始める。

 ふと顔を上げると、そこには暗い夜空に浮かんだ黄色い月が、その静かな光で俺達を優しく照らしてくれていた――。

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