第6話 オペレーション コード:ラナンキュラス

夜の帳が降りた夕暮れ時、俺は叔父さんに教えてもらった廃工場へと足を運んでいた。

 正面門入り口には黄色と黒色の警告色に彩られた紐に、立ち入り禁止と書かれた札。元は車の修理でもしていたのか、石の塀で囲われた敷地内には錆び付いて動かなくなったのだろう車が何台か廃棄されている。中央にはよくある波型スレートの外壁をした三階建て相当の建物が一棟、建物の窓ガラスは殆ど割れていて中の様子を確認出来た。建物の扉は正面に一カ所と裏口に一カ所ずつ、裏口付近の塀は一部だけ崩れていて敷地内に侵入できる様だ。

「……さて、どうしたものか」

 俺は裏口付近の崩れた塀の外から様子を窺っていたのだが、どうも外の見回りがいるわけではなさそうだった。けれど、割れた窓から中を覗いていた時に、叔父さんが教えてくれた特徴に合致する奴が一人。確認出来た。

 茶髪をオールバックにした眼付きが鋭く、彩空学園の制服を乱雑に羽織っている不良の風格たっぷりの男……恐らくアイツが『鬼寅きとら タイガ』なのだろう。奴がテーブルに置かれた謎の黄色い入れ物? とケースに入れられていないスマホを眺めては顔を歪め、何人かの不良と話しているのは見えたが、建物にどれ程の数潜んでいるのかは不明だ。

 今回、俺がやるべき事は鬼寅 タイガを倒す事ではない。あくまでカオルのスマホを回収する事だ。そうすれば、鬼寅が待ち伏せるこの廃工場にカオルが踏み込む必要はないし、後でこのことを叔父さんにでも告発すれば、罰則の上限間近な鬼寅は退学なり何なりされるはず。

 しかし、どれ程の数待ち伏せているのかも分からない工場内部へと侵入し、カオルのスマホを無事に回収するのは困難を極めていた。一応一つだけ策はあるにはあるのだが……正直、あまり自信がない。

 俺はどうにか他に手段がないか色々探していたが、結局思い浮かばず時間ばかりが経過してしまっていた。このままでは、指定された時刻の十九時になってカオルが姿を現してしまうだろう……。

「…………一か八か賭けてみるしかない、か」

 刻一刻と迫る時間に焦る俺は、とうとう覚悟を決めて懐のスマホを取り出そうとすると、突如として背後から声がかかった。

「あなた。鬼寅の仲間かしら?」

 わずかに籠った怒気が垣間見える凛とした声音――。

 俺は背後を振り返ると、そこには俺の頭部に照準を置いた鈍く光る拳銃に、それを手にした鮮烈な赤色をしたマフラーを首に巻いた少女――彩空 ヒイロの姿がそこにあった。

「……彩空?」

「あら? …………青海君?」

 怒りを秘めた真っ直ぐな緋色の瞳が俺を見据えて――ゆっくりと拳銃を降ろし、スカートの中のホルスターへとしまってくれた。

「何故、あなたがここにいるのかしら?」

「いや、何というか……鬼寅 タイガって奴にちょっと用があってな」

「青海君が鬼寅に? 何か合ったの?」

「ああ、カオルのスマホが――」

 俺は彩空に今までの事情を説明する。

 昼休みのこと、カオルの様子が変だったこと、柄の悪い不良のこと、カオルに隠して来ていることを――。

 彩空は塀に背を預けると、口を挟まずに俺の話に耳を傾けてくれた。

「……そう。そういう事情があったのね」

「まあな。彩空の方は何があったんだ……? 何だか前に会った時よりかなり怒ってる様に見えるんだが……」

 入学式の時もわずかに怒りを感じられたのだが、今日のはあの時よりも明確にその感情を汲み取れる程だった。

 彩空は俺を一瞥すると、ぽつりと零す。

「……鬼寅がツクヨを悲しませた」

「金木犀さんを……?」

「ええ。今朝、彼女がいつも使っている黄色いランドセルを奴の仲間が奪っていったわ」

「…………? 黄色いランドセル……?」

 どういう事だ。金木犀さんは高校生ではないのか? それなのにランドセルをいつも使っている? それもそのランドセルを鬼寅の仲間が奪っていった? いったいどういう状況なんだ……。

 頭に疑問符を浮かべている俺を見て、彩空は付け加える様に補足説明をしてくれた。

「黄色いランドセルはツクヨが小学生の頃から使用してる物よ。体格が成長しないから高校生になった今でもそのまま使っているらしいわ。それとその中には彼女が改造を施したノートパソコンとドローンが一機入っているの。ランドセルは兎も角、この二つはツクヨが大切にしている物だから、何としても取り返したい……あとツクヨを悲しませた報いを受けさせるわ。必ずね――」

 金木犀さんについて詳しく説明し、最後には怒りの波動を燃やし始めた彩空。

 入学式の時も感じたけど、彼女は一見結構クールに見えて、実は感情的に動くタイプなんだろうな。すぐ顔や態度に表れてくれるから分かりやすい子だ。

「因みになんだが……なんで金木犀さんのランドセルが奪われたんだ? あのノートパソコンにはやばいデータでも入ってたりするのか?」

「私はよく知らないんだけど、ツクヨが言うには”とてつもなく価値のあるデータ”が入っているらしいわね。それを鬼寅 タイガは狙ったんじゃないかと私は考えているわ」

 なるほどな。だったら納得もいくか。どれ程の価値があるかは分からないけど、金木犀さんがそこまで大切にしているデータなら余程価値があるのだろう。それに、さっき建物の様子を窺った時に見えた謎の黄色い入れ物は恐らく、彼女の黄色いランドセルなのだろうな。

「そういえば、あの金髪の……金木犀さんはどうしたんだ? 彼女も近くにいるのか?」

 金木犀さんは入学式の時も彩空と一緒にいたし、カオルの発言から察せられる様に彼女達が共に過ごしている事は多いのだろう。なのに今日に限って金木犀さんの姿が見えない。付近で見張りでもしているのかな。

「ツクヨはすぐに家に帰したわ。ランドセルがなくなった事を知ったツクヨが、あんまりにも取り乱して泣き止まないものだったから、緊急の措置よ」

「もしかして、彩空と金木犀さんが登校して来なかったのって、そのせいだったのか……?」

「そうよ? ちゃんと学校には来たんだけどね。今朝、いつも待ち合わせしている空き教室に向かったら、ツクヨが教室の隅で丸まってて……事情を聞いたら柄の悪い不良みたいな奴がランドセルを持っていったって泣き止まなくて。私はそれからずっとその不良の事を追ってたから教室に顔を出す暇がなかったわね」

 なるほどな。俺が久しぶりに登校して来たのに、彩空がいなかったのはあの不良のせいだったとは……カオルの件もあるし、絶対に許せない。あとで叔父さんに告発してやるからなッ! 覚悟しとけよッ!

 俺達はお互いの状況を整理し終え、目の前の問題に顔を突き合わせる。

 彩空は左腕を軽く膨らんだ胸の前にあてて、立てた右腕でその細く白い指先を自らの頬に添えると、こちらを窺う様にその真っ直ぐな緋色の視線を注いでくる。

「それで――青海君はどうする気なのかしら?」

 それはどこか俺を試すかの様な口ぶり。

 彩空は入学式の時からそうだけど、何だか俺に当たりが強い気がする…………気のせいだと思いたいが。

「……そんなの決まってる」

 そう。俺はすでに覚悟決めてここに足を運んだのだ、今更それは揺るがない。

 それに彩空に焦がれた過ごした一週間、ただ無為に引き籠っていたわけではなかった。彼女の鮮烈な赤色へと手を伸ばす為に、俺は――死ぬほどFPSゲームのランキングを上げて自己肯定感を増やしていたのだ! そしてカオルという友達を助けるという青春的要素も合わされば、今の俺には最早、敵はいないと言っても過言ではない! 柄の悪い不良の一人や二人、どうって事ないさ! …………多分な。

「無事にカオルのスマホと金木犀さんの黄色いランドセルを回収して、……あとは叔父さんにでも告発すればこの話はお終いだな!」

 俺は不敵に口の端を吊り上げるが、彩空からは不気味に見えるだろうなと思い直してすぐに元に戻した。俺がもう少しイケメンだったらと悔やむが、それに関しては致し方なしだろう。

「ツクヨのランドセルも一緒に回収してくれるの? 意外と優しいのね?」

「そりゃまあ、一緒の場所に置かれているみたいだし……金木犀さんが困ってるのを知ってて見過ごすのは違うと思うからな」

 どうせカオルのスマホを回収するついでだし、そこまで手間にはならないはずだ。それに知り合いが困ってるのに手を貸さない理由はないだろう、俺がカオルの為に行動を起こしたように、彩空も金木犀さんを大切に想っているはずだ。誰でも友達が苦しんでいるのを見ているのは辛い、俺は今日それを知った。だったら手を貸したいと思うのは当然じゃないか。

 彩空は俺に注いでいた視線を上げる。

「そう。じゃあ私は見ててあげるから、うまくやってみせてね?」

「えっ」俺はその言葉に絶句する。今までの話的に彩空も手伝ってくれるんじゃないの!?

「あ、あの……彩空サンも手伝ってくれたりとかは…………」

「うん? 私も一緒の方が良いの?」

 彩空はこちらを横目で見ると軽く首を傾げ、赤いマフラーがゆらりと揺れる。

「ああ。出来る事なら彩空も手を貸してくれると、作戦の成功率が上がるんだが……どうだろうか……?」

 俺は若干の冷や汗を流しながら彩空の顔色を窺う。

 実際、彩空が協力してくれれば色々やりようがある。俺一人じゃ大したことは出来なくても、入学式にあれだけの事をやってのけた彩空が手を貸してくれれば、それこそ百人力なのだが……。あと、彼女がいてくれれば俺のやる気も上がるし。

「そうね……。じゃあ、青海君の覚悟を聞かせて?」

 彩空は塀に預けた背を起こして俺へと向き直ると、再びその真っ直ぐな緋色の瞳で視据えてくる。

「……俺の覚悟?」

「ええ。今日の青海君は入学式とは違って確かな意志と覚悟が宿っているのを感じる。でも、人はそう簡単に変わる事はないわ。もしもこの作戦中にあなたが臆病な瞳に戻ってしまい途中で逃げ出してしまったら。……私は青海君に失望してしまうもの。出来ればそんな姿は見たくないわ。だから、青海君が何を以てこの作戦をやり遂げようとしているのか、その覚悟と意志を私に聞かせて?」

 彼女の緋色の瞳が一瞬揺れる。気遣う様な、期待する様な、そんなわずかに感情が見え隠れする視線が、俺の瞳を釘付けにして離さない。

 それに俺も真っ直ぐに見据えてくる彩空からは逃げたくなかった。何となく感じるのだ、少しでも彼女の瞳から逃げ出したら、あの鮮烈な赤色のマフラーは、本当に手の届かない場所へと行ってしまうと。

 だから彼女の視線から『逃げるな』と、俺は自らに言い聞かせて。拳をぎゅっと握りしめる。

「……俺は今日、いつも俺が困っている時に助けてくれた、初めての友達が苦しんでいるのを見て、その時に感じたんだ」

 寝癖がひどい獅子の如き髪をした強面の顔が、彼がふいに零した強がっている表情が。俺を気遣う言葉の数々が……脳裏に浮かび上がる。

「悔しいなって。何かしてやりたいって。……俺には不良達をどうこう出来る程の力がないのは分かってる、それでも。俺はただ助けられているだけの、名ばかりな”友達”にはなりたくなかったんだ! ……面倒ごとが増えるだけかもしれない、けど俺はカオルの友達だから! 今回だけは絶対に、逃げ出したくないんだ……!」

 俺は今日感じた事を、想った事をすべて彩空へとぶつける。

 これでダメなら一人で何とかするだけだ。当初はそのつもりだったのだから、何も問題は無い……が。それでも彩空にこの覚悟が届かなかったら、それはそれでつらい。

「だから、頼む彩空! 今回だけで良いんだ、お前の力を貸してくれ……!」

 俺は力強い覚悟と意志を秘めた瞳で返して、真摯に頭を下げる。

「そう。逃げないのね……良いわ。信じてあげる」

 俺はその言葉に心を弾ませて頭を跳ね上げて、大きく眼を見開いて彩空を見た。

 彩空はふふっ。と口に手を当てて、柔らかい笑みを零す。

「入学式の時はあんなに陰鬱とした臆病な瞳をしていたのに。今日は逃げる処か友達の為に、困難に立ち向かおうとするなんて――学園に来なかった一週間でどんな心境の変化があったのかしら?」

 陰鬱だとか臆病だとか、ひどい事を言われた気がするが。彼女が初めて零した微笑みの前には塵となって消えて行き。その言葉にドキリとしてしまう。

 ――彩空に憧れて毎日過ごしていました。なんて口が裂けても本人には言えない。

「まぁ良いわ。それよりも――青海君の考えた作戦、私にも教えて?」

 彼女は赤色のマフラーと黒いスカートを揺らすと、子供が悪巧みを思いついた時に見せる悪戯っぽい笑みを零した。

「……ああ! まずは――――」



 4月17日/p.m.18:45/快晴/はずれの廃工場 正面門入り口前


 ゆっくりと心を落ち着かせる様に深呼吸を一つ。

 手にした黒く鈍い光沢を放つ拳銃を優しく撫でて。

 首に巻いたマフラーを締め直す。

 準備は万全。後は実行するだけ――。

 

 私は黄色と黒色の警告色の紐を乗り越えて、傍の廃棄された車の陰に隠れる。

 わずかに顔を覗かせて建物の様子を窺うが、相変わらず不良達は外に意識を向けていない様だった。

 手にした拳銃を窓ガラスへと照準を向けて。

 そして――いつもの合図を呟いた。

「オペレーション コード:ラナンキュラス。任務開始ミッションスタートよ!」

 パァン! パァン! パァン! パァン! と立て続けに発砲する。

 四発の銃弾が正面の窓ガラスに直撃し、盛大な音を立てて砕け散ると、その一帯を赤色に染めた。

 銃声が辺りに響き渡るが、ここは比較的住宅街から離れた郊外。豊かな緑と田畑が広がっている場所だから、近隣住民に迷惑になることはないだろう。

「な、ナンダァ!? 橙山 カオルの襲撃か!」

「奇襲なんて卑怯な真似をしやがって! タイガさんの手を煩わせるまでもない!」

「ああ! 俺らがタイガさんに代わって、あの生意気な態度の一年坊主にリベンジするぞ!」

「お前らァ! 行くぞォ!」

「ちょっ、テメェら! 別に行かなくていい……」

「「「「「うおぉぉぉぉーーーー!」」」」

 声と威勢だけを立派に轟かせて、四人の不良が正面の扉を勢いよく開いて飛び出してくる。

「……まさか正面の窓を割るだけで簡単に出てくるなんてね」

 とはいえ、本命の『鬼寅 タイガ』はまだ建物の中、残りの窓も一応割っておいた方が良いだろう。後は青海君が上手くやってくれるかだけど、今日の彼ならば任せても大丈夫だと思える。この一週間に何が彼を強くしたのかは分からないけど、彼の瞳には強い意志と覚悟が宿っていた。だから今の彼ならきっと大丈夫なはず。

 窓枠から照準を外して、出て来た不良達の顔面へしっかり狙いを定めると、こちらも四発の弾丸を撃ち込んだ。

「ンナァ!?」

「うごっ!」

「へぶっ!」

「ぐおォー!?」

 四者四様の悲鳴を上げると、不良達はその場で悶絶し始める。

「な、なんじゃこりゃ! 視界が赤色しかねえぞ!?」

「それに染みる! うごーーー、誰か水を! 水をかけてくれ!」

 相変わらず効果はてきめんの様子。このペイント弾はツクヨが改良した特殊な弾で、弾に内蔵された赤色の液体が目に入ると、洗い流すか一定時間経つまでそのひりひりとした感覚に襲われる――らしい。人体に害は無く、服に着いてもすぐに洗い落とせるので、荒事の時はこの弾を使う事にしている。

 不良達が動けなくなったのを確認して、私は近くの廃棄された車のボンネットへと勢いよく飛び乗って、更にもう一歩車の屋根上に乗せ、そのまま塀の上に着地する。

 まずは正面から左側面にある窓ガラス。細い塀を上を足を踏み外さない様に注意しながらも足早に駆けて、パァン! パァン! パァン! パァン!と目的の窓ガラスに四発撃ち込む。

 粉々になった窓ガラスが盛大に割れると、中からは不良の悲鳴が聞こえてきた。

 私は破壊が完了したのを確認して、すぐに次の場所へと足を動かす。

 次は裏口側の窓ガラス、こちらは三発撃ち込んでやる。殆どヒビが入っていたのもあって窓ガラスはすぐに音を立てて吹き飛ばされた。手にした拳銃を見やるとスライドが完全に後退し、弾切れを報せていた。

 私は空になった弾倉を引き抜いて、懐から新しい弾倉へと装填をする。

「残りは――」

 そして最後の目標へと足を進めようとすると、裏口の扉が音を立てて開かれた。

「おいテメェ! タイガさんのアジトを滅茶苦茶にしやがって! タダで済むと思うな――ぶへェっ!?」

 私は出て来た柄の悪そうな不良の顔面へと一発撃ち込むと、彼は悲鳴を上げて倒れ、叫び声を上げながら一生懸命に袖で顔を拭いはじめる。

「め、目がァー! っチクショー! めちゃくちゃ染みやがるぞ!」

 柄の悪そうな不良は倒れながらも尚、その口を閉じる事なく、特製ペイント弾に文句を零しながらじたばたとしていた。

「ったく。しょうがねェ奴だナァ……」

 地の底から響くような力強い声と共に、新たに扉から姿を現したのは茶髪のオールバックにし、彩空学園の制服を乱雑に羽織っている男だった。彼はじたばととしていた柄の悪い不良の顔にバケツ一杯の水がぶちまけて。

「す、すみませんタイガさん!」

「起きたなら急いでみんなを集めてアジトを掃除しやがレェ! 俺様はあの襲撃犯に話があるから、終わるまでに片付けておけヨォ!」

 勢いよく飛び起きた柄の悪い不良は、バタバタと慌ただしく正面の方へと向かっていった。恐らく私が最初にダウンさせた四人を、起こしにでも行ったのだろう。

「俺様は『鬼寅 タイガ』っつうもんダァ! わざわざこの廃工場に襲撃して来たんだ、この名前の意味が分かるよナァ? それで、テメェは何者ダァ? 今日の来賓者は一人しか予定してねェはずだゼェ」

 鬼寅 タイガと名乗った茶髪のオールバックは、虎の如き鋭い目つきでこちらを見据えてくる。伊達に不良達を束ねているわけではない様で、その迫力は本物の虎を連想させる程に凄まじいものだった。

「私は彩空、それ以上の名乗りはあなたにする必要を感じられないわね」

 私は拳銃を鬼寅の顔面に照準する。

「ッチ。喧嘩っ早い奴だゼェ、俺様が誰だか理解しても尚、その銃口を向けるとはナァ」

 茶髪のオールバックは舌打ちをすると、はあ。と大きくため息を零した。

「この後に大事な用件が控えんダァ、さっさとしてくれねぇカァ」

「物分かりが早くて助かるわ。なぜ、ツクヨのランドセルを奪ったのかしら?」

「ツクヨのランドセル……? アァ、あの黄色いランドセルの事か、アレは別に俺様が指示した訳じゃねぇヨォ! 俺様があんな幼稚な物を必要とする訳がねェだろうガァ! ……ハァ。アレは舎弟共の悪い癖でナァ、置いてある物を勝手に拾ってきちまうんダァ。すまねぇナァ……」

 鬼寅は申し訳なさそうに謝罪を口にする。意外にも素直な相手なのだろうか? 学園で聞き込みをした時に聞いた、悪い噂の人物だとは思えなかった。

「返してもらえるのかしら?」

「……アァ。構わねェぜ持って行きナァ、中身には一切触ってねェから安心してくレェ」

「そう。中身が無事で良かったわ。……あともう一つ、良いかしら?」

「……良いゼェ。ただし、これを最後にしてもらおう。そろそろ予定時刻だからナァ、出迎える準備をしなくちゃあいけねぇんだワァ」

 鬼寅の目付きがさらに一段と鋭くなる。

「――なぜ、あなたは”橙山 カオル”を狙っているの?」

「……あン? テメェ、アイツの仲間カァ?」

 その名前を口にした瞬間、鬼寅が強い殺気を放ち始めた。

「仲間とは少し違うけど、同じクラスメイトではあるわね」

「……そうかヨォ! アイツの関係と分かった以上、タダで返す訳にはいかなくなっちまったナァ……悪ィがテメェには事が済むまでアジトに居てもらうゼェ!」

「そうはいかないわね。私もそんなに暇ではないもの」

 私の黒く鈍い光沢の銃口と、彼の虎の如き鋭い眼光が交差し、一触即発の空気。

 そんな中、突如として歪ませた様な緊張感を孕んだ音が響き渡った。

「……ッチ! クソがヨォ! このタイミングでサツが来るなんテェ……。ついてねぇぜまったくナァ。テメェら! 急いでアジトから離れロォ! 絶対に見つかるんじゃねぇゾォ!」

 鬼寅は去り際にこちらを睨みつけると、大声で舎弟達に指示を出し、敷地の外へと消えて行った。

「……青海君。やったのね」

 彼らが完全に消え去るのを確認して塀を降りると、私は未だに煩くパトカーのサイレンを鳴らしている場所へと足を向けた――。



 ――時は少し撒き戻り、廃工場の裏口付近の塀の外。

 

「……ああ! まずは彩空の持ってる拳銃について教えてくれないか」

 彩空の協力を得た俺は、当初の作戦を二人用に修正する為に、彼女の事の手札を知る事から始める。

「これはツクヨがエアガンを改造してペイント弾が撃てる様にしてくれた特注品よ。今使ってる弾は特別でね、何でも唐辛子をわずかに混ぜ込ませてるらしくって、この弾のペイントが目に入ると染みて少しの間動けなくなるわ」

 彩空はスカートの中から、黒く鈍い光沢を放つ拳銃を取り出して見せてくれる。この拳銃の事を語っている彩空は、実に誇らしそうに嬉しそうにしていて、クールな側面とのギャップでドキリとする。

「な、なるほどな。だから俺は無事だったのか……」

「ええ。あの時の弾は完全なペイント弾だから、目に入ってもただ視界が赤くなるだけね。それとも、この特製弾の方が青海君は好みだったりするのかしら?」

 彩空は悪戯っぽく冗談を仄めかし、俺をからかってくる。

 彼女のおかげで入学式は散々な目に遭ったので、何か一言くらい文句を言ってやりたかったが……。異性とこんなに近くでやり取りしたのは久しぶりだからか、どぎまぎしてしまってそんな余裕はない。それに、楽しそうに話す彩空の表情を今だけは独り占めしていると思えば、その程度の事は最早些事でしかなかった。

「え、えと。威力はどれ程のものなんだ? ひび割れてたりする窓ガラスくらいなら割れそうか?」

「そうね。通常のガラスなら恐らくは……それに割れているなら、数発撃ち込めばまず壊せると思うわ」

 威力、性能共に問題なしと。なら次は――。

「おーけー。銃に関しては大体把握した、次は彩空について聞かせてくれ。十五メートル離れた的に当てる事は可能か?」

「問題ないわ。もうずっと使ってるし、その程度の射程ならこの闇の中というハンデでも余裕で当てて見せるわよ」

 自信満々にそう言うと、彩空は手にした拳銃を構えて見せてくれる。

 両手で拳銃を握ると、顔の横まで持ち上げて、わざわざポーズを決めてくれた。

 ……ッ! 彩空の圧倒的破壊力を秘めた爆発を浴びて、俺の矮小な童貞心が容易く撃ち抜かれるが、何とか心のコミュ障を思い出して寸での処で踏み止まる事に成功する。……本当に危なかった。もし、心のコミュ障を呼び起こしていなかったら、俺は今この瞬間に彼女へと気持ちの悪い愛の告白をして、無残に撃沈されていただろう。

 恐ろしきかな彩空 ヒイロ……。そしてなんてチョロいんだ俺という奴は……!そしてこれは憧憬であって恋心では――。

「青海君? どうかしたの?」

 茫然と心の中で葛藤をしていた俺を不思議に思った彩空が声を掛けてくれた。

「あ、いや! 何でもない……何と言うか様になってるなと思っただけだ」

「ふふっ……そうかしら? これでも結構練習したのよ」

 彩空は無邪気に笑い、くるりとその場で回って見せる。

 黒いスカートがふわりと膨らんで一輪の花弁を作り、赤いマフラーは彼女の尾の如く後ろについて回って揺らめくと、一回転した身体を正面で止めてしっかりと俺の頭へと狙いを定めた。

「……腕前も大丈夫そうだな。運動能力に自信はあるか?」

 銃の腕前は自身があるのだろう、なら残りは彼女の運動神経だけだ。

「ええ。運動は好きよ。体力も結構ある方だと思うし、大抵の事なら熟せると思うわ」

「おーけー。……だったら任せられるけど。これ女の子に任せる役割じゃないよな……うーん。でも彩空にしか頼めないし……少々危険かもしれないが、大丈夫か?」

 出来れば彩空を危険に晒したくはない。ないのだが……俺のちっぽけな脳ではこの作戦が精一杯だった。

「別に構わないわ。青海君がそれで必ず成功すると言うなら、私に異論はないもの」

 そういわれると自信がなくなって来るが。しかし、これくらいしか今の俺には考えがない。彼女の期待に応える為に、是が非でも成功させるしかないだろう。

「ああ……! 絶対成功させてみせるっ!」

 俺は自身の無さを消し飛ばす為に力強く応え。彩空に作戦の詳細を伝えた――。



「――良いと思うわ」

 つらつらと話す俺の作戦の内容を静かに聞き終えた彩空が口を開く。

「本当か!?」

「ええ。因みに、予定通りに不良が出てきた場合、倒してしまってもいいのかしら?」

 この子、まじか……。あの不良達を倒す気満々だったのかよ。まあ、特製ペイント弾の話を聞いている限り、何とか出来そうではあるけど。結構好戦的だな……。

「あ、ああ。別に良いけど…………」

「そう。了解したわ」

 彩空は拳銃を優しく撫でて、不敵な笑みを零す。何だかこちらが悪役染みて来たけど、本当に大丈夫か……。

「あと、もう一つだけ」

「ん? 何か不明点が合ったか?」

 彩空がこちらを見据える。

「――名前は?」

「へ?」俺はその言葉が何を指すのか分からず、間の抜けた声が口から漏れ出る。

「この作戦の名前よ。何て呼ぶのかしら?」

 …………? 作戦の名前? 何で作戦に名前を? 突貫で立案したものだ。当然、そんなものは付けていないが……。必要なんだろうか?

「作戦の名前……? 付けてないけど……」

 俺は困惑でいっぱいだったが、彩空はその言葉を受けて嬉々とし始める。

「そう。じゃあ名前を付けましょう」

「俺の突貫で作った作戦に、わざわざ名付ける程でもないと思うが……」

「人は特別な事柄や物には名前を付ける事が多いのよ? その名前から当時の事が連想されて、強く記憶に刻まれるの。それに、作戦名があった方が格好良いと、青海君は思わないかしら?」

 彩空は実に楽しそうにそんな事を呟いて、こちらの瞳を覗き込んでくる。

 正直、俺としてはどっちでも良いんだが……それに高校生になって格好いいってのもな。あと、俺の稚拙な作戦を覚えられるのもそれはそれで恥ずかしいので、ここは必要ないと言うべきだろう。

 ……とか思ってはいるが、そんな期待に満ちた目で迫られたら、俺の脆い童貞心などでは到底耐えられるわけもなく――。

「ああ! 俺も作戦名があればなーって丁度思っていた処だったんだよ!」

 そんな思ってもない事が口から出ていく。

 ……まあ、しょうがないよな。ここで「いや、別に必要なくないか……」なんて言った日には、楽しそうにしている彩空が不機嫌になって、それこそこの作戦自体が頓挫してしまうかもしれないし。それに彩空と二人だけの思い出なんて、恐らくもうできないだろう。ここは彩空の言葉にあやかって、一生ものの記憶にするべきだ。

「何か案はあるの?」

 彩空が期待する様な瞳でこちらを刺してくる。心に来るので非常にやめて欲しい。

「いや……特には……。彩空も一緒なんだし、アレだったら彩空が決めてくれないか?」

 名前を付けるって言っても、そういうの恥ずかしいし……。急に思い浮かぶものもないので、ここは一旦発案者である彩空に振ってみる事にする。

「そう、ね……」

 彩空は俺の下から上へと視線を動かして、じっくりと観察を始めた。

「『オペレーション コード:ラナンキュラス』! 何て言うのはどう?」

 彩空が得意げに横文字の言の葉を読み上げる。

「おぺれーしょん こーど:らなんきゅらす。……良いんじゃないかな?」

 『オペレーション コード』までなら理解出来たが、『ラナンキュラス』というのは何かの名詞なのだろうか? まあ、彩空が楽しそうだし、とても良いと思う。

「ふふっ、それじゃ決まりね。さて、そろそろ始めましょう? オペレーション コード:ラナンキュラスを!」

 彩空は拳銃を誇らしげに持ち上げて、いつでも行けると強調してくる。

 俺は懐のスマホを取り出して、現在時刻の確認をすると。そこには十八時四十二分と表示されていた。もう時間が無い。

「ああ。もう時間があまり残されてない、早速始めよう!」

「うん。それじゃ青海君、頑張ってね」

 彩空は俺に声援を送って、正面門の方へと向かい闇の中へと消えて行った。

 俺は一呼吸して、彼女に熱された心を落ち着ける。

 それにしても、今日だけで彼女の色々な顔を見た。友達の為に強く怒る彩空、悪戯っ子みたいな彩空、好きな事を嬉々として話す彩空、心の底から楽しそうにしている彩空……。

 どれも魅力的で素敵な表情をしていて、コミュ障の俺でも気にしないで話してくれる気さくさも持ち合わせているし、もしかしなくても物凄く良い子なのかもしれない。第一印象は冷たそうで、滅茶苦茶な奴だと感じだが、普段はこんな感じで人当たりはかなり良いんだろうな。あの金木犀さんと友達だし、俺みたいなコミュ障とは別次元の人種。

 そりゃ、顔も良くて人柄も優しかったらモテるよな……俺には銃撃して来たけど。はぁ。今日という日の思い出を、大事にしよう。『オペレーション コード:ラナンキュラス』その名を忘れない様にと、大切に、しっかりと記憶に刻もう。

「さて、俺も所定の位置に着くか」

 彩空の事は一旦頭から排除して、目の前の作戦に集中する。

 これは絶対に失敗出来ない作戦だ。友達の為にも、期待してくれている彩空の為にも、必ず成功させたい。

 俺は茹だって柔くなった覚悟と意志を奮い立たせ、廃工場の敷地内へと足を進めた――。



 ――パァン! パァン! パァン! パァン! と銃声が響き渡り、その直後にすぐそばの窓ガラスが音を立てて砕け散る。

 俺は正面門から見て右側の廃工場の壁に身を屈めて潜んでいた。

 彩空は予定通りに正面側の窓ガラスを破壊してくれた様で、これで作戦一段階目は成功。あとは屋内の不良達次第だが――。

「「「「「うおぉぉぉぉーーーー!」」」」

 四人の不良達が威勢の良い雄叫びを轟かせて扉を勢いよく開いた。

 俺はわずかに顔を覗かせて様子を窺う。しかし、その中には『鬼寅 タイガ』の姿と、昼休みに遭遇した柄の悪い不良の姿はなく。まだ屋内にいる事が分かる。

 すると、再び四発の銃声が響いて、四人の不良の顔を赤色に塗り潰してしまった。

「……マジでやりやがったよ」俺はその徹底ぶりに、つい口を開いてしまう。

 四人の不良達はその場でじたばたと顔を拭い始め、彩空は近くの車を踏み台に塀の上に無事降り立った様だ。彩空はしっかりと作戦通りに進めてくれている、後は俺が目的の物を回収出来るか。

 プレッシャーで心臓の鼓動が早まり緊張が増し、握り締めた拳はわずかに震えているが、俺の思考は驚く程に何処までも澄み渡っていた。

 建物の反対側から四回の銃声とガラスの粉砕音が轟き。俺の後ろで悲鳴が上がる。

 これで二枚の窓ガラスを破壊完了。残りは二枚……順調に作戦は進んでいるが、この作戦は何処まで行っても不良達の行動次第なのだ。

 パァン! パァン! パァン! と今度は三発の銃声が響く。

 残りは俺の潜んでいる正面右の窓ガラスだけだ。

 俺は早く屋内の外へ出て行ってくれと。半ば祈る様に、息を殺す。

「タイガさん! このままじゃ橙山 カオルが来る前に、アジトが滅茶苦茶になっちまいますよォ!」

「……ッチ。ここまで舐められちゃあ、出るしかねぇカァ。おら、行くゾォ!」

 昼休みに聞いたあの不良らしき声と、地の底から力強く響く様な声音の話し声が屋内から聞こえ、そのすぐ後に裏口の扉が開く音がした。

「おいテメェ! タイガさんのアジトを滅茶苦茶にしやがって! タダで済むと思うな――ぶへェっ!?」

 一発の銃声と一人の情けない悲鳴。恐らく彩空が発砲したのだろう……。

「め、目がァー! っチクショー! めちゃくちゃ染みやがるぞ!」

 やっぱりな。それもしっかりと顔面にヒットしたらしい。まあ俺とカオルにちょっかいを掛けてきた奴だし、彼に同情はないが……なるべく彩空を怒らせない様にしようと心に誓う。

「ったく。しょうがねェ奴だナァ……」

 先程の力強く響く声音が裏口の方から聞こえる。屋内から聞こえたのはあの二人の声だけだった。今なら誰ににも遭遇せず、屋内に侵入出来るだろうか。

 俺は一息ついて。建物の正面に姿を晒す。そこには先程から顔を拭っては悶え続けている四人の不良。しかし、俺の目的は彼らじゃない。

 俺は彩空が破壊した正面の窓から中の様子を窺った。

 ――よし。誰も居ない。今なら回収出来るはず。

 俺は窓枠に残ったガラスに気を付けながら廃工場に侵入する。

 ゴミ捨て場から拾って来たのだろうボロボロのソファーに、チカチカと明滅して不安を誘う白色の蛍光灯、目の前の質素な鉄のテーブルの上には、目標の黄色いランドセルとケースに入れられていないスマホが一台。

 俺はカオルのスマホを懐に入れて、金木犀さんのランドセルを右肩に背負い、入って来た窓ガラスから急いで飛び出す。その際に、わずかに右手の一指し指がガラスの破片で切れて、じわじわとした微かな痛みが浮かぶが、今はそんな事を気にしていられない。

 丁度、俺が窓から飛び出して物陰に隠れたタイミングで、裏口に行っていた柄の悪い不良が慌てて正面に戻って来て、悶絶していた四人の不良へと水を運んできた処だった。

「……危なかった。もう少し遅れていたら出るタイミングを見失っていた処だったな」

 ふぅ。と何とか目的を達した。後は、不良達をこの場から排除するだけだ。

 俺が懐の自分のスマホを取り出そうとすると、裏口から地の底から響くような、殺気を纏った唸り声が響く。

「……そうかヨォ! アイツの関係と分かった以上、タダで返す訳にはいかなくなっちまったナァ……悪ィがテメェには事が済むまでアジトに居てもらうゼェ!」

 彩空が危ない! 俺は急いでスマホを取り出して、その画面を開く。

 そして、予め再生しておいた動画の試聴を開始し――スマホの音量を最大に設定する。

 俺のスマホから近所迷惑間違いなしな程の音量で、”パトカー”のサイレン音が流れ始め、俺は何とか耳を塞ぎながら不良達が退いてくれる事を祈った。

 鬼寅 タイガが罰則上限間近なのは知っていた。だから学園に問題がバレる警察を嫌がる事は間違いない。ただ、これを流すだけでは彼らが逃げてしまい、目的のスマホをそのまま持っていかれてしまう可能性が高かった。

 だから彩空が窓ガラスを割ってもらって、なんとか彼らを挑発して屋外に出て来てもらう必要があったのだ。いきなりの襲撃で窓ガラスを割って回られたら、おいおいとスマホをしまってランドセルを持ち逃げる余裕もないはずだろうからな……。




 何分か経過した処で、俺の肩がとんとんと軽く叩かれる。

 当然、そこには耳を塞いだ赤色のマフラー。彩空 ヒイロが佇んでいた。

 俺は動画の再生を止めて、スマホの音量設定を元に戻す。

「やったわね青海君、任務完了ミッションコンプリートよ!」

 彩空は余程嬉しかったのだろうか、口元を大きく綻ばさせて、無邪気そうにはしゃぎ始める。何だこの可愛い生き物は。

「あ、ああ……何とか作戦通りに事が運んだな」

 俺は平静を装いつつも、無事に終わったという安堵と、彼女の心から喜んでいるその姿に自然と笑みが零れていた。

 可愛い生物から視線を外して、手に持っているスマホに表示された現在時刻を覗き見ると、そこには十八時五十九分とある。

 カオルが予定時刻前に来るタイプじゃなくて助かった。

「青海君は楽しかったかしら?」

 スマホを覗いていた俺へと、彩空が凛とした声を響かせる。

「……ああ、中々悪くなかった」

 実際、緊張や不安はあったが楽しくもあった。二人だけで作戦を練って、作戦名を決めて、実行して成功させた。今日という日のこの二人だけの作戦を、俺は生涯忘れる事はないと思えるくらいにワクワクさせてもらった。

「そう。それは良かったわ」

 彩空はクスリと微笑むと、赤色のマフラーを揺らす。

「あら? 青海君、その指……」

 スマホの頼りない光源が俺の右指を照らしていた様で、先程切ってしまった人差し指からは血が滲みだしていた。

「窓を飛び越えるときに切ったみたいだな。まあ大した傷でもないし、これくらいならそのうち治るだろ」

 昂った気持ちも落ちて付いてきたからか、じわじわと指先の痛みを実感し始める。

 まあ名誉の負傷だと思えば、この程度の傷は安い物だ。帰ったら適当に絆創膏でも貼っておけばそのうち治るだろうしな。

 俺がそんな楽観的な事を頭に浮かべていると、彩空は俺から黄色いランドセルを奪いその中身を漁り始めた。

「……彩空? どうしたんだ?」

「少しだけ待ってて…………やっぱり、入ってたわね」

 彩空は目的の何かを見つけた様で、漁った中身を片付ける。

「ほら、指を出して」

 俺は彼女の言われるままに、血の滲んでいる指を彼女の目の前に出して広げた。

 彩空は俺の指先の傷跡へと、ランドセルの中から見つけたであろう絆創膏を巻き付ける。

「これで良しっと。他には痛いところはない?」

「ああ……大丈夫だ。ありがとう、彩空」

「礼ならツクヨに言ってあげて。これは彼女が用意してくれていた物だから」

 そう言って彩空は黄色いランドセルを背負う。背丈に対して若干サイズの合っていないランドセルを背負う様は、何と言うか……いけない物を見ている様な背徳感が凄い。

「それじゃ、橙山君にスマホを返しに行きましょう?」

 彩空は赤色のマフラーをはためかせて、黒色のスカートを気持ちよさそうに浮かせると。彼女は正面門へと歩みを進める。

 辺りは完全に夜の帳が降りきっていて真っ暗、彼女の色が暗闇に溶けて見失わない様に、俺は彼女の後を急いで追いかけた――。

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