第5話 友達
――赤いマフラーが揺れる。
それを掴もうと俺は必死に手を伸ばす。
しかし、赤いマフラーは手に触れる直前に陽炎の如く揺らめいて、いつの間にか掻き消えてしまった。
……ああ、まただ。君彩に焦がれた想いは、脳裏に焼き付かれて色褪せる事は無く。夢の中でも俺はその緋色に魅入られている。――……『彩空 ヒイロ』。
――――ジリリリリリリリリリリリィッッッッッ!
突如、世界の終わりを報せるかの如くひどい緊迫感を感じさせる音が鳴り響き、緋色の夢に溺れている俺を現実の世界へと引き戻した。
俺はぼやけた視界を擦り、未だにうるさく鳴り続けるスマホを手に取るとアラームを停止させる。その時に表示されていた時刻は八時丁度。どうやらちゃんと予定通りに起きれた様だ。
「ソウマ~! 今日は行くんだろ~。朝食はテーブルの上に作っておいたから、遅刻しない様に家を出るんだぞ~」
アラームが止められた事で俺が起きたのを察した叔父さんが、俺の部屋のドアの前から呼び掛けて来た。
「あぁ。ちゃんと行くよ」
俺のその言葉を聞いた叔父さんは、「それ、今日で七度目だぜ~」。と零して出勤していった。
俺はまだ横になっていたいという意志を強引に追いやり、なんとか身体を起こして学校に行く支度を始める。部屋を出て歯を磨き、顔を洗い、朝食を口にして、部屋に戻って学生服に着替える――。その一連の行動をしている間、叔父さんが呟いた「七度目」という言葉が頭にチラつき、己の意志の弱さに辟易して自己嫌悪に陥りかける。
――そう。時が経つのは早いもので、今日であの入学式から一週間が経過していたのだ。
あの日、家に帰宅してからは絶対に明日も行こう! と自信満々に息巻いていたのだが、人とはそう簡単に変われる生き物ではなくて。寝て起きたらその自信と意志は何処へやら、立派な引き籠りに戻ってしまっていた。
今日は何とか登校をしようとしているのも、友人であるカオルから連絡を貰ったからであり、一人だったら負けていたかもしれない。
カオルとは入学式の時にスマホで連作先を交換した……らしい。俺の記憶には存在していないのだが、しっかりとスマホの連絡先の欄には『橙山 カオル』と表示されており、「隣が寂しいからよ、会えるのを待ってるぜ!」と送られてきた内容が俺の心を突き刺した。友達からこう言われたら、行かないわけにもいくまい。まあ毎日登校しろという話なのだが……。
そうこうしているうちに、朝食のおにぎりを食べ終えて、黒い学生服に袖を通す。姿見からは色の暗い髪が伸びて人相の悪い俺の顔が映り、朝からテンションが下がってくる。……いい加減髪を切るべきだな。
俺は床に乱雑に置かれている青色と黒色を基調にした手提げ鞄を手に取ると、その中身を確認する。中にはノートが数冊と折り畳み傘に長財布。あと、上履きも。昨日寝る前に準備したので忘れ物は大丈夫そうだ。
彩空学園では教科書や筆記用具の持参は必要なく、学園側で貸し出しされている物を使用するらしい。だから持っていくのは書き写す用のノート数冊に、財布とスマホに学生証。この三点セットさえあれば十分で、体育がある日は学園指定の体操着も必要になるが、今日の予定ではなかったはずだ。
元は勉強をする為の机だったが、今はモニターとゲーム機が占拠している机の端に無造作に置かれている、俺の大切なアイテム――青色の有線イヤホンを手に取って。よし。と意を決して自分の部屋のドアを開き、玄関へと向かって家を出る。
玄関のカギを閉めて、おもむろにスマホの画面を確認すると、現在時刻は目を覚ました時刻から大分経過していた様で、八時三十分と表示されていた。
……ギリギリ間に合うくらいか。家から彩空学園までは凡そ15分程度の距離なのだが、俺の非力な肉体ではもう少し掛かってしまうだろう。
面倒くさくなってきたな。俺は心の中でぼやき、顔を持ち上げる。そこには澄み渡る青色が広がっていて、今日はとびきり快晴なのを報せてくれていた。
「…………彩空、か」
幾度となく呟いたその言葉を口ずさむたびに。彼女の顔が、凛とした声音が、揺れるマフラーが脳裏にチラついて俺の心を離さない。
あの鮮烈な色を浮かべるだけでわずかに前を向ける。そんな気がするのだ。
俺は手にした青色のイヤホンを両耳に装着し、スマホのイヤホンジャックへとプラグを挿入する。片手でスマホを操作すると、疾走感のある曲調で抑圧的な歌詞が人気を博した曲が耳元から流れ始め、準備は完了と俺は歩みを始めた――。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「何とか朝のホームルームには間に合ったな……」
手元のスマホを覗き見ると、八時五十分と表示された現在時刻が、遅刻しなかったのだと教えてくれる。
俺はイヤホンとスマホを懐にしまい三つ横並びに建った校舎の一つ、一番右側の赤色の玄関マットの敷かれた入り口へと足を踏み入れて、手提げ鞄から学園指定の白色と黒色を基調にした上履きを取り出すと、強引に足を突っ込んで教室へと向かう。
――そして、一年A組の扉に手を掛けるが。その手はわずかに震えており、緊張で早まった鼓動が胸を締め上げて、その手をとめてしまった。
入学式の日にした自己紹介の光景が頭に過る。
……くそっ。怖い。めちゃくちゃ怖い……。好奇の視線、嘲笑……。トラウマがフラッシュバックし、扉に掛けていた指がだらりと落ちる。
「お、ソウマじゃないか! おはよう!」
明るい挨拶と共に、俺の肩へと手が置かれた。
「あっ、……カオル!」
俺はその声の方に振り向くと、そこには前と同じく寝癖のひどい橙色の髪をした強面の顔があり、俺は心から安堵すると共に口元が自然とほころんでいた。
「お互いギリギリって感じだな! おれも丁度今来たところなんだよ、早く教室に入ろうぜ」
そう言うとカオルは俺の代わりに教室の扉を開け放つ。中はまだざわざわと賑わっており、楽しそうに友人と会話を楽しむ者。ノートパソコンと睨めっこしている者。一人で読書に興じる者。各々が好きに時間を使っている様だった。
俺達は自分の席に座り、机の横に手提げ鞄を掛ける。そして一息ついて――俺は伸びた前髪から左隣の席へと視線を流し、赤いマフラーをした彼女の様子を窺った。
しかし、俺の左隣とその前の席は空いていて、彼女の姿はどこにも見当たらない。
「なぁカオル。あの……アイツ。彩空は来てないのかな……?」
「彩空さんか? 彼女はソウマと違って毎日登校して来てたけど、朝からいる事もあれば。休み時間にツクヨちゃんと一緒に来たり、授業の途中でふらりとどっかに行ってそのまま戻って来なかったりと、自由気ままな感じだからな。今日も登校してくるかは分からないぜ、なんせこの学園にいる奴はみんな自由だからな!」
「……そっか。そうだよな」
そりゃそうだ。彼女は入学式でメチャクチャをした張本人だしな。その苗字の如くある意味この学園を表している存在なのかもしれない。……会いたかったなぁ。頑張って登校して来たのに、今日に限っていないのかよ。はぁ……。
カオルの言葉に妙な納得感を覚えると、今日は会えないのかと思い。溜息が零れる。
「なんだソウマ。彩空さんの事が気になるのか?」
そんな落胆した表情を浮かべる俺を見て、カオルはにやけ面で尋ねて来た。
「ち、ち、ちげーし! 別に彩空の事が気になるってわけじゃ……折角、頑張って登校して来たんだから、ご褒美くらいあっても良くないかって思っただけで……」
俺は図星を突かれて動揺し、つい思った事を口にしてしまった。
「ははっ! そうかそうか、ソウマは彩空さんを狙ってるのか~。良いんじゃないか、入学式の時のこともあるし、お前達には何かしら縁があるのかもしれないぜ!」
「いや、別に狙ってるとかそういうわけじゃないんだ。……ただ、彼女に憧れていると言うか。あの鮮烈な色に惹かれたというか……。兎に角、やましい気持ちはないんだ!」
彼女が名乗りを上げたあの瞬間、彼女の色は何よりも赤く、太陽よりも眩い輝きを放ち、俺に憧憬の念を抱かせるには十分で。俺は別に彩空に恋心を抱いてるわけじゃない……はずだ。多分。
「だがなぁソウマ。彼女は高いぞ、それこそ富士の山に咲く花みたいにな!」
カオルはこちらの胸中など窺い知らぬとばかりに、彼女の話を続けている。
「ソウマは今日まで登校してこなかったから知らないだろうが、この数日間ですでに彩空さんは二十件ほど告白を受けているんだぜ!」
「……彩空が!? そん、な……」
俺はその言葉に衝撃を受け、机に顔を倒れ伏す。とても痛い、痛いが。それよりも彩空が告白されていたという事実に、心中穏やかではいられなかった。
「それで……どうなったんだ? 彩空は誰かと付き合っているのか……?」
「んや。全員その場でバッサリと断られてたよ、だから誰とも付き合ってないんじゃないか? 良かったなソウマ、まだお前にもチャンスがあるぜ!」
それを聞いて俺の口からは心底ほっとした様に安堵が漏れる。
……よかった。彩空は誰とも付き合ってないらしい。……? いや、何で俺はそこでほっとしてるんだ? さっき恋心は抱いていないと確認したはずだよな。なんだか彼女の事になると、俺自身もよくわからなくなってきた。
俺達がそんな他愛の無い世間話で賑わっていると、朝のホームルームを報せる予鈴が鳴り響き、ざわざわとしていた教室は徐々に静かになっていく。
俺はもう一度左隣の席を確認するが、やはりそこは空席で誰も座っておらず、柔らかな春の日差しが物寂しく佇む机を照らしているだけだった――。
★
――今日何度目かの予鈴が鳴り響き、授業の終わりを報せる。三十六台の机には半分程しか人影はおらず、まともに授業を受けて午前中を過ごした生徒達からは、チラホラと昼食の話が上がり始める。
あれから彩空が教室に顔を出す事はなく、昼休みになった今でも俺の左隣とその前の席は空白のままだった。
「ソウマ、お前は昼飯どうする? おれは弁当があるけど、購買か食堂にでも行くか?」
カオルは鞄から風呂敷に包まれた弁当箱を取り出して机に置くと、お腹が空いて仕方がないとでもいう様に、昼食の催促をしてくる。
「……購買か食堂か。多分、人多いよな……?」
そう、この彩空学園にはよくある購買と食堂が併設されているのだ。
俺達が過ごす『教室棟』は各学年に別れて横並びに三つの校舎が建てられているのだが、その後ろにはその三つの校舎を合わせた程の大きさをした『多目的棟』があり、そこの一階フロアに両方共が併設されている。
「まあそうだな。そこそこ混み入ってると思うけど、購買の方なら人は少ないと思うぜ? 大体の奴らは食堂の日替わりセットメニューを頼みに行くからな。購買で買い物をするのはノートを忘れた奴か、一人で飯を食べたい奴くらいなもんだよ」
「……なるほどな。じゃあ、購買で買ってくるか……」
とは言うが、内心はとても行きたくない。極稀に行くコンビニ店員にすら目を合わせられず、ぼそぼそと礼を零す有様なのだ、正直言って一人で行って帰って来る自信がない。だから、ここは恥を忍んで――。
「なぁカオル。頼みがあるんだが……」
俺は神妙な面持ちで、カオルを見つめる。
「なんだ頼みって? 俺達は友達だろ、何でも言って見ろよ!」
カオルはにっ。と口を吊り上げて頼りになる言葉を掛けてくれた。
俺はカオルの言葉に甘える様にして、情けないなと自覚しながらも願いを呟く。
「……購買まで一緒に、付いて来てくれ!」
俺は精一杯、カオルへと頭を下げた。
「なんだ、そんな事かよ? いきなり頼みがあるなんて言われたから、どんなものが飛び出してくるかと思ったら、ははっ!」
カオルは笑い声をあげて俺の肩を叩くと立ち上がり。
「ほら、行こうぜ!」
親指を立てて廊下側にある、多目的棟をくいくいと指さした。
「……ああ! サンキューなカオル!」
やはり持つべき者はくだらない用事に付き合ってくれる友達だ。こんなにも頼りになる相手と巡り合えた俺は、実はかなりラッキーだったんじゃないか。カオルの優しさに触れると、あの日頑張って入学式に臨んでよかったなって少しは思える。
俺は手提げ鞄から長財布を取り出して懐へとしまい。俺達はこの一年生の教室棟から多目的棟を繋ぐ一階の渡り廊下を歩いて、人の雑踏で埋め尽くされた巨大な食堂のホールを越えて、ようやく購買まで辿り着いた。
「丁度人もいないな、ちゃちゃっと買ってきちゃおうぜ! その間に、おれはトイレに行ってくるからよ」
「おう、早く帰って来てくれよな」
食堂のホールとは逆の方向の通路へと立ち去るカオルに言葉を掛けて、俺は購買のメニューを物色する。
乳白色をした長方形のプラスチックケースには、様々なパンやおにぎりが置かれていて、何だか少しだけワクワクとした気分になった。
俺はそこから『ツナマヨおにぎり』と『焼きそばパン』を手に取り、レジの前にそれらを置くと、レジの奥では何やら作業を行っていた人影が俺に気付いて出て来てくれた。
「はーい、いらっしゃいませ~! 二点で二百円になります! 袋に入れますね~」
明るい声で姿を現した店員さんはバイトだろうか、見習いと書かれたバッジを胸に着けて、茶色い髪を後ろで一つにまとめているにこやかな笑顔をした、大学生くらいの女性だった。
見習いの店員さんは、若干たどたどしい手つきで白い袋を開くと、パンとおにぎりをその中へと放り込む。
俺は懐から長財布を取り出して、その中から鈍い銀色の光を放つ『百』と記された硬貨を二枚、彼女の前へと差し出した。
「はい、丁度ですね! ありがとうございました~!」
「……あ、ありがとうございます」
見習い店員さんの明るい声音と笑顔に耐えられず、俺は逃げる様に袋を手にすると購買を後にした。ついでに近くの自動販売機から、気品溢れる黄土色と深い青色の優雅なコントラストをしたパッケージに包まれている崇高な甘味飲料――『ミルクティー』を一本購入して、柱の陰に隠れるようにカオルを待つことにした。
――しかし、十分程待ってもカオルは戻って来ず、なんだか不安になってくる。
あのカオルの事だ、俺を置いて行ったりなんてするわけがない。……するわけないよな? ……お腹が痛いのかもしれないけど……何か合ったのかもしれないし、ちょっとだけ様子を見に行こう。
人も多くあまり馴染みのない場所なのもあって心細く、若干の不安が疑心暗鬼を呼び起こした俺は、カオルが去っていった方向へと歩みを進める。
しばらく廊下を進み、いくつかの教室を通り過ぎると、建物の突き当りに青色と赤色のお手洗いの表札が見えてきて。俺は足早に向かおうとすると――。
「なぁ頼むよ。返してくれないか?」
「おいおい、テメェがぶつかって来たくせにその態度はどうなんだよ? テメェのせいで俺の大切な花瓶が割れちまったんだぞ! へへっ、だから俺は別に良いんだぜ? 俺の大切な花瓶を割った、テメェの大切なスマホをぶち壊しちまってもよぉ!」
「……おれが悪かったって、ずっと謝ってるじゃないか。もういい加減返してくれよ」
すぐそばの教室から何やら言い合う声が聞こえる。それもどうやら片方はカオルの様で、誰かと揉めているみたいだった。
俺は気になって、その教室の扉に空いた隙間から様子を窺う。
そこには、必死になって頭を下げているカオルと、柄の悪い風体をしたザ・不良みたいな男子生徒が真新しいスマホを片手に、真摯に頭を下げたカオルへと意地悪くしているのが確認出来た。
……カオルが不良に目を付けられたのだろうか。それに不良の手にはケースにしまわれていないスマホが握られている。あれは恐らくカオルのスマホだろうな、今時ケースもしないでスマホを生身で持ち歩く方が珍しいし、何より前に写真を撮った時に見たからほぼほぼ間違いないだろう。
しかし、どうしたものか。俺には正直言ってどうしようもない。……不良が怖いのもあるが、俺は当事者ではないし、何も見ていないからカオルの擁護も出来ない。友達の為に何かできないだろうか……。
俺が教室の中を窺いながら、カオルの手助けを出来ないかと思考を重ねていると、不良の懐から何やら不気味なメロディが流れ始めた。
不良は何やら慌てて懐に手を突っ込むと、髑髏のマークケースに入ったスマホを取り出して、急いで着信に応答し始める。
「……はい! ……予定通りに。ええ、はい。十九時にあの場所ですね……分かりましたッ!」
不良は何やら焦りながら通話を終えると、そのまま二つのスマホを懐にしまい。
「おい、テメェのせいで俺が『タイガさん』に怒られちまったじゃねぇかよ!」
「おれは別に何もしてないけど……あんたがとろいから悪いんじゃないか?」
「……ッ! 言わせておけば!」
不良はカオルそのの言葉に怒りをあらわにし、カッとなってその右手を振り上げる。
……アイツッ! カオルがこのままじゃ危ない! 何とかしなくちゃ……。
俺は咄嗟に扉を開けて、声を振り絞る。
「おいッ!」
唐突な闖入者の出現に、不良とカオルはこちらに顔を向けた。
「あん? なんだぁ? テメェ……」
不良が露骨にイラついて、こちらを蛇の様な眼光でにらみつける。
「い、いや……その、暴力は良くないんじゃないかなと、思うんだ……」
俺はその威圧に怯み、徐々に声が小さくなっていった。喧嘩っ早そうで正直怖い、今にも殴られそうだし、何だったらあのまま声を上げなかったらカオルは殴られていただろう。
「……チッ。まぁいい。今はこんくらいにしておいてやる。いいかテメェ、今日の十九時にはずれにある廃工場に一人で来い。そうすればこいつは返してやるよ」
不良はそう言って、未だに頭を下げていたカオルを突き飛ばすと、俺の方へ歩み寄って来て――。
「邪魔だ」。と言いながら、わざと肩をぶつけて来た。
「痛っ!?」。俺はぶつかった拍子に倒れ込んでしまい、心配したカオルが駆け寄ってくれる。
「大丈夫かソウマ!」
俺達は不良の方を見やると、彼はすでに視界から消えており、戻ってくる気配もなさそうだった。
俺はカオルの手を借りて立ち上がる。
「ああ、俺は平気だよ。それよりカオルこそ大丈夫なのかよ?」
「おれは全然。……まあちょっとだけ面倒ごとに巻き込まれたけど、概ね問題なしだ!」
カオルは俺に心配を掛けさせまいと、気丈に振舞ってはいるが、その表情は何処か陰っている。
「……何があったんだ?」
「何っていう程の事じゃないんだが、おれがスマホを見ながら歩いてたのが悪いんだよ」
「ながらスマホを……? それがどうして不良に絡まれるんだ」
「よくある奴さ、わざとぶつかって来て因縁を付けてくるんだよ。でも……今回はおれが悪いんだ、あいつが大切に持ってた大きな花瓶を割っちゃってな。ほら、そこにあるだろ」
カオルが指さす方向には、確かに大きめの陶芸品の破片が散乱しており、小さな赤い花が一輪くたびれている。
「それでスマホを取り上げられても、抵抗しなかったのか……」
「んや。抵抗しなかったのは関係ないけど、まあ全部おれが悪いんだ。……それに、ごめんなソウマ。怖かっただろ?」
なんだか今のカオルは見ていていたたまれない気持ちになってくる。ここは友達として俺もしっかりしているという処を見せるべきだろう。
「なに言ってるんだ、あんなコケ脅しの不良ごときに俺がビビるわけないだろ。それに俺達は友達なんだから、カオルがピンチな時は助けるのは当たり前だ」
我ながらくっさい台詞を吐いたと思うが、内心ではそう想っているのも事実だ。いつもカオルには助けられてばかりだからな、少しは返さないと友達として成り立たないだろう。
「――ははっ。ソウマが言うじゃないか。んじゃ、おれがまた不良に絡まれてたら、その時は頼むぜ!」
カオルは笑い声をあげて、俺の肩を力強く叩く。
「……あ、ああ。その時が来たら、俺の力を見せてやるよ」
俺は見栄を張ってそんなことを口走る。
「んじゃ、教室に戻って昼飯にしようぜ! おれはもうお腹がぺこぺこなんだよ」
「ああ、そうだな。戻ろう……」
カオルは普段の雰囲気に戻り、教室を出ていく。俺もカオルについて行こうと歩みを進めるが、頭の中で何かが引っかかった。
俺は教室を出る際に、割れた花瓶の破片をもう一度見やる。……何だろうか。その光景に違和感を感じるが、その違和感をうまく言葉に言い表せない。
「おーい、ソウマ。どうしたんだ? 早く行こうぜ、じゃないと昼休みが終わっちまうよ」
足を止めた俺を気にしてか、カオルが声を掛けてくれる。
「いや……何でもない。今行くよ」
俺はカオルを心配させない様に、カオルのもとへ向かい。一緒に教室まで戻った。
★
――時刻は十七時。授業はすべて終わり、部活動に勤しむ生徒達の時間。放課後になり、カオルには先に帰ると告げて、あの不良といざこざのあった教室へと一人で戻って来ていた。
そこには未だばらばらに割れた大きめな花瓶の破片が散乱して、水を吸わずに大分経過したのだろう小さな赤い花が萎れている。
昼休みの時に感じた違和感が何だかもやもやして気分が晴れず、カオルを心配させるのも悪いと思ってわざわざ一人で現場に戻って来たのだ。
カオルは自分が花瓶を割ったのが原因だと言っていたが、その割には何処か作為的なモノを感じさせる。特にあの不良の会話とか、わざわざ場所と時間を指定して一人で来させる必要は普通は無いし、スマホを取り上げた理由もよく分からない。
それにカオルもカオルで普段とは様子がおかしかった。アイツは俺みたいに軟弱で臆病じゃない、実際にあの不良を前に頭を下げてはいたが、あれはスマホを人質に取られていたからで、その態度は堂々としたものだった。それなのに柄の悪い不良なんかに下手に出るのは何かしら理由があるに違いない。
俺はしゃがんでその一輪の花を手に取り、じっくり観察してみた。
それは何処でも見る事のできる赤い花弁の、中央部分の黄色い雄しべが目立つ花で。茎の切り口もハサミなどの鋭利な感じはなく乱雑な感じに千切られた様な感じ。後は水を吸っていなかったのか、赤い花はその花弁を萎ませている。
そこでふと気付く、この破片の周りは一切濡れておらず、渇いた痕跡もない。それにこの萎れた小さな一輪の赤い花、明らかにこの大きめの花瓶のサイズに合っていなかった。
濡れた形跡のない床に萎れた小さな赤い花。不釣り合いな程に大きい大切な花瓶。そして不良の意味深な通話内容、『はずれの廃工場』、『十九時』、『タイガさん』、『予定通り』……――。
「まさか……カオルは嵌められたのか?」
それらの状況証拠が物語るのは、誰かが意図的に行ったカオルを誘導する罠だった可能性が高いと言う事だ。何故、カオルを狙ったのか。その理由までは分からない……。
しかし、カオルが何らかの事件に巻き込まれているのは間違いないだろう。
今の俺に何が出来る……? 俺にはあの不良を倒せるほどの武力はない、かと言ってカオルを彼らから守れるほどの知恵もなく。……俺の褒められる事と言えば、強いて挙げるなら対人ゲームだろうか。特にFPSのゲームは一応トップランカーに名を連ねてはいるけど……そんなものは現実には何も影響を与えない。
俺は手にした萎れた赤い花に視線を落とす。
赤か……。彩空なら……どうするだろうか? 俺は彼女の事はまだ全然知らない、だからどういった行動をするのか読めないが――今必要なのは彼女の考えを読み解く事ではない、もし俺に彩空みたいなアクティブな行動力と、どんな時も己を貫ける胆力が備わっていたら。どうしていただろうか……。
「……考えるまでも、ないな」
答えはすでに出ていた。この教室に足を向けた時から、カオルが俺を友達だと呼んでくれた時からきっと――。
「だが、まだ情報が足りない……。俺には『はずれの廃工場』の場所が分からないし、出来れば『タイガさん』という奴の事も知っておきたいんだが……」
俺は今まであんまり外に出ないのもあって、この辺りの地形には詳しくない。カオルは知っている様だったが、俺には見当も付かないし。それに『タイガさん』とかいう人物、恐らくあの不良生徒の上に属する相手なのだろう。あの柄の悪い生徒ですらかなり怖かったのに、彼が恐れる程の相手か……どれだけやばい奴なんだろうか。
「……あんまり心配は掛けたくないんだけどな。でも背に腹は代えられないか……」
俺は萎びた花を元に戻して立ち上がり、確かな足取りで教室を出ていく。
カオルを頼れない今、頼れる相手は一人しかいない――。
俺は黙々と歩みを進め、一年生の教室棟まで戻って来ていた。そして一階の端にある『職員室』の扉を開けて中を見渡すと、退屈そうに椅子に座りながらパソコンと睨めっこしている目的の相手を見つけ、俺はその相手のもとに駆け寄り声を掛ける。
「……叔父さん」
年季の入った白衣に黒縁眼鏡の中年男性。この学園で俺達、一年A組を担当している教員――『灰崎 シゲル』である。
「ソウマが職員室に来るなんて珍しいな~! いや、学校に来るのがそもそも久々だったか!」
はははっ。と後頭部に手を当てて笑ういつもの癖。
「……ちょっと聞きたい事があってな。ここら辺に廃工場ってあるか?」
「廃工場? まああるっちゃあるが……あそこは良くない噂が多い場所だからな~。それで、そこがどうかしたのか?」
「その詳細な場所を知りたいんだ。頼む……!」
珍しく真面目な俺の雰囲気に、何かを感じ取ったらしい叔父さんは、俺の目を真っ直ぐと見据えて。
「何か、あったのか?」
「……まぁ、ちょっとな。でも俺じゃないんだ……。俺の……友達が嵌められたみたいでさ。アイツの力になりたいんだよ」
俺の言葉を聞いて、少しだけ考え込む素振りを見せると、叔父さんは嬉しそうに口の端を吊り上げて、意地悪く言葉を投げかけてくる。
「ソウマで力になれるのか~? お前ひとりが行ってその友達をどうにかできるって本気で思ってるのかよ~? やめておいた方が良いんじゃないか、ソウマが行っても足を引っ張るだけだと思うぜ~?」
揶揄う様な口調の叔父さんを、今度は俺がその目を真っ直ぐと見据え。
「俺でアイツの力になれるかは正直怪しいし、行ったところで何が出来るわけでもないのは俺が一番わかってる。でも……俺は俺を友達と呼んでくれた奴を見捨てたくないんだよ。アイツがいなければ入学式も嫌な思い出だけだっただろうし、今日だって俺は学校に来なかったはずだ。アイツはもう……俺の大事な友達なんだ。だから……! 俺に友達を助けさせてくれ!」
さっきの不良のいざこざだけであれば、俺はここまで踏み入った事は絶対にしなかっただろう。当事者同士で解決出来るならそれに越したことはないと信じ、さっさと帰って今頃は家でゲームに興じていたはずだ。
しかし、これが意図的に行われていて、その被害者が俺の友人であるカオルだったら話は変わる。俺はもう何度もカオルに助けられているし、何より――さっき助けるってアイツと約束したんだ。俺は逃げない。今だけは逃げたくないんだ。
「……頼む。廃工場の場所を教えてくれ! 叔父さん……!」
俺は叔父さんへと頭を下げる。俺にはもう、こうする事でしか覚悟を表せないから。
「ったく。しょうがねえな~! まあこれも青春任務の一環だしな、今回だけは教えてやるよ、ただし。危ない事は極力避けるんだぞ。分かったな?」
「……ああ、ありがとう。叔父さん」
叔父さんは嬉しそうに声を上げながらも、俺を心配した表情を見せる。
「スマホに送っておいた、そんじゃ精々頑張ってこいよ!」
「あ、あと。もう一つ聞きたいんだ」
「まだあるのかよ~、それで次はなんだ~?」
「『タイガさん』? って聞いた事あるか?」
「タイガさん? ……もしかして、三年生の『
「……上級生? どんな奴なんだ?」
「あー、なるほどな~。俺も大体読めて来たぜ。……鬼寅 タイガはこの彩空学園の三年生の生徒で、茶髪をオールバックにしてるから見ればすぐにわかると思うぜ! 二年生の辺りから悪い噂が出回り始めて、今までに数回警察の世話になってる問題児だ。アイツはあと一回問題を起こしたら罰則が上限に届くってのに、全く懲りない奴だな~。今教えた廃工場はな。鬼寅 タイガの目撃情報が最も多い場所なんだよ」
「……なるほど。助かったよ叔父さん」
『鬼寅 タイガ』か……。コイツがカオルを狙っている黒幕。悪い噂に警察、罰則の上限と。聞いている感じでは碌な奴ではなさそうだ。
俺は叔父さんに礼を零すと、身体を翻して職員室を出ていく。
「ソウマ。自分に負けるなよ!」
叔父さんはぐっ。と親指をあげて、俺に喝を入れてくれた。
……ああ。やれるだけやってみるつもりだ。誰かの為に勇気を出して踏み出すのは、これが初めてでまだ怖いけど、それでも……今だけは逃げ出したくないって思うから――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます