第二話

 私が十歳の頃ーー。夏休みも終わりに近づいたある日のことだった。その頃子どもたちの間で、可愛らしい猫の妖怪が出てくるアニメ映画が流行っていた。その猫の妖怪は山に住んでいて、普段は普通の猫の身体のサイズなのだが、自在に二メートルくらいの巨体に膨らましたり、逆に十センチくらいまで縮んだりすることができる。子どもがやってくると謎々をしかけたり悪戯をしたり、かけっこをしたり時には個人的な相談に乗ってくれたりする。その猫の存在を信じていた私は、山に行けば会えるのだという妙な妄想めいた考えから一人家の裏の山へと向かったのだった。

 

 家族からは決して山に一人では行くなと言われていた。祖父母には特にきつく釘を刺されていた。二人曰く山には物の怪がいて、迷い込んだ子どもを攫うのだという。だがそんなものは迷信に違いないと、この時の私は信じていなかった。


 しばらく木に囲まれた傾斜のきつい山道を歩いた。一度だけ祖母に連れられて山菜取りに来たことはあったが、こんなに深い場所まで入ったのは初めてだった。だんだんと不安になってきた。当たり前だがあの猫妖怪がいる気配はない。


 不意に黒い雲に上空を覆われたように視界が薄暗くなった。やがて何者かが木の枝から枝に飛び移るようなガサガサという音が聞こえてきた。それは私の背後から聞こえていた。とても恐ろしい音だった。身の危険を感じた私は駆け出した。音はすぐ側まで近づいていた。


ーー攫われる。


 覚悟したその時だった。


「こっちだ!」


 すぐ目の前の茂みから、黒い作務衣のようなものを着た齢十五くらいの少年が飛び出してきた。黒く光る大きな目をしていた。この目をどこかで見たことがある。そんな気がした。


 彼は私の腕を取るなり茂みの中に連れ込んだ。


「走れ!! なるべく早く!!」


 少年に手を引かれて走るも途中木の根に躓いて転んでしまった。少年は腰を下ろし背中に捕まるようにと言った。私は言われた通り彼の肩につかまって、その逞しい背に身を預けた。


「絶対に手を放すな!!」


 その言葉とほとんど同時に、少年は目の前の木の太い幹の窪みに手をかけて瞬く間に上まで昇ると、一番太い木の枝の上に立ち枝から枝へと飛び移った。追手がやってくる音が聞こえ恐る恐る後ろを振り返った。振り向いた瞬間、ひっと声が口から漏れた。鼻が長く顔は真っ赤、目が血走り、世にも恐ろしい形相をした天狗だった。


 少年は私をおぶったまま軽やかに木から木へと飛び移った。途中彼は地面に飛び降りた。十メートルほど先、少し開けた場所に祠がある。彼がその祠の側まで辿り着いた時白いドーム型の光が私たちを包んみ込んだ。直後ギャッと声がして、追ってきた天狗が五メートルほど先に飛ばされ地面に仰向けに倒れた。


「すまない」


 黒服の少年は私を背中から下ろすと誰にともなく謝った。


「その可愛い女の子はだあれ?」


 顔を上げるといつのまにか目の前に白い着物を着た女性が立っていた。


ーー白蛇だ。


 何故それと分かったかというと、まず彼女の顔立ちだ。透き通るような色白の肌で目が鋭く、唇は紅を塗ったように赤く大きい。彼女の背後に建つ木の祠の扉は開かれ、中に白蛇の置物があるのが見えた。


「人間の子どもだ。迷い込んだらしい」


 少年は言って、私の顔を見た。その顔に確かに見覚えがあるのだが思い出せなかった。


「お前の名は何だ? どうしてここに入った?」


 彼は尋ねた。


「名前は桃花。猫の妖怪を探しに来た」


 テレビで観た猫の妖怪が山の中にいると思ったのだと説明すると少年は怪訝な顔をし、女はふふふと笑った。


「残念ながらここに化け猫はいない。はやく帰った方がいいわ、また天狗に襲われぬうちに」


「ちなみに俺も一応天狗だ」


 黒服の少年は言った。


「天狗にも、いい天狗と悪い天狗がいるの?」


 私が尋ねると、「人間と同じさ」と少年は答えた。


「人間にも、良い人間と悪い人間がいるだろう」


「あら、やけに人間のことに詳しいのね」


 女がくすくすと笑う。


「恩があるんだ」


 少年は短く答えた。

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