妻と夫 それぞれの5分前
仲瀬 充
妻と夫 それぞれの5分前
「ねえ、部屋のゴミは集めたけど他に捨てるものない?」
「僕のことより自分は?」
「今履いてるスリッパと歯ブラシだけ。後で私のが何か出てきたら適当に処分して」
絵里子はゴミ袋を玄関に置いてリビングに戻った。
「市役所って何時からだっけ?」
「9時」
「じゃ明日9時に届けを出してから実家に行くわ」
「ゴミ出しは僕がやろうか?」
「いいわよ、ゆっくり寝てて。明日は午後出勤でしょ?」
「じゃ頼む」
俊樹はテーブルの新聞を手に取った。
絵里子は掛け時計を見上げた。
午後11時55分。
他人どうしになる5分前だ。
離婚届の届出日が離婚成立日になる。
すっと小さく息を吸った。
「先に寝るわ。おやすみなさい、あなた」
「おやすみ」
夫の返事は新聞に目を落としたままだった。
ベッドで横になって目をつぶる。
新婚1日目は確か月曜日だった。
新聞を読んでいる夫に運んだのはトーストとサラダとコーヒー。
「はい出来たわよ、あなた」
初めて口にした「あなた」だった。
あの日も今夜も夫は新聞から目を上げなかった。
それを不満に思うのなら私は何を期待したのだろうか。
結婚生活の始まりと終わりの日に。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
俊樹は絵里子がリビングで身支度している気配で目が覚めた。
そのままベッドで耳を澄ましていると足音が玄関に向かった。
カサリ カチリ
ゴミ袋を持ち上げる音に続いてオートロックのドアが閉まる音。
それきり物音のしない静けさが眠気を誘う。
暫くまどろんだ後洗面所で顔を洗った。
ピンクの歯ブラシは見当たらなかった。
新聞を取りに玄関に行った。
「 あ 」
思わず声が漏れた。
赤いギンガムチェック
ゴミ袋に入れ忘れたのだろう。
行儀よく脱ぎ揃えられてドアの方を向いている。
帰らぬ主人を待ち続けるかのように。
寝室に戻って再び横になった。
昨夜の妻の最後の言葉は「あなた」
初めてそう呼ばれたのは結婚初日だった。
あの日も昨夜もかすかに声が震えていた。
二つの「あなた」に挟まれた時間は何だったのだろう。
一緒になった二人が3年もかけて他人どうしであることを再確認しただけなのか。
上体を起こしてスマホの電源を入れた。
スタート画面に時刻表示が浮き上がる。
「AM 8:55」
市役所の開庁まであと5分。
妻と夫 それぞれの5分前 仲瀬 充 @imutake73
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