第3話

 教室に戻ると鵜飼くんは一人でロッカーの中身を整理しているようだった。


「鵜飼くん」


 話しかけた声は震えていた。鍵を握りしめる力が強くなる。


「うん? 何?」

「もう帰る?」

「そうだね」

「ちょっとだけ待っててほしいんだけど、大丈夫?」

「いいけど、どうしたの?」


 鵜飼くんに返事をする前に私は階段を駆け下りていた。大村は職員室だし、鵜飼くんは待ってくれるし、もうこんなチャンス二度とない。


 友達同士や男女で帰る人たちを何組も追い抜く。バクバクと鼓動が激しくて脚が重くなってくる。それでも走ることができている。誰かが私を操作しているみたいな気分だった。


 エスカレーターを一段飛ばしで上り、コインロッカーの前で口から内臓が飛び出そうなほど息を切らしながら鍵を刺しこんだ。口の中は血の味がする。今日は寒いはずなのに服の中に真夏の湿気のある暑さが閉じ込められている。


 当たり前だけど、今朝コインロッカーに入れたチョコレートは無事に保管されていた。


 すっかり使い切ってしまった体力ではもう早歩きもできなかった。髪も乱れただろうか。せめて渡すときは少しでもきれいでいたいと手櫛で梳きながら歩いて学校まで戻った。


 重い足を手で支えながら四階まで階段を上り切ったとき、鵜飼くんが自分の席に座っているのが見えた。やっと渡せる。ドアに指を引っかけたとき、背後から肩を叩かれた。


「身体検査だ」


 振り返ると大村が歪んだ表情を浮かべて笑っていた。薄汚い加齢臭が鼻に入ってくる。


「腹が四角く膨らんでいるな。中にあるものを出せ」


 大村を中央に据えた視界はゆらゆらと揺れている。正常に戻ると涙は頬に線をつくったあと、あごの先に少しだけとどまって、手のひらに落ちた。もうちょっとだったのに。またゆらゆら揺れ始めると教室にいる鵜飼くんが窓越しに顔を向けているのがわかった。こんな恥ずかしいところなんて見ないでほしかった。


「これは何だ。チョコレートだな。学校内に持ち込んではいかんと去年も言ったはずだ。来い。反省文だ」


 鵜飼くんの視線が痛くて、せっかく待ってもらったのに何も渡せなかったのが悔しくて鵜飼くんを見ることができず、シャツの上にカーキのジャンパーを着る大村の背中を追って階段を下りた。

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