第57話 小夜啼鳥の声④

 俺とクリミネ少尉の間にちょっとした関係性の変化などを生じつつ、俺たちは反皇帝派の動向を探って南部の主要都市をいくつか巡った。

 たった二人、しかも専門の諜報員ではない俺たちに大したことはできないが、それでも多くの情報を得ることができた。



 そしてとうとう、南端にある商業都市ルミエノに到達する。

 ここは市内に水路が巡らされている水の都だ。行ったことはないが、ヴェネチアがこんな感じだと聞いている。行っときゃよかったな。



「ここが君の実家がある街か。ここは帝国屈指の豪商、ディネス家の……」

 するとクリミネ少尉はフフッと笑った。

「どっちかというと、実家の中に街があるんですけどね」

 どういう意味?



 水上を滑るゴンドラの上で、クリミネ少尉はこう答える。

「厳密にはもう実家の敷地に入っています。ここに見えている町並みは全て、当家の住み込み使用人の住宅ですから」

「なるほど」



 前世の貴族にもそういうスケールの連中がいたとは聞いている。共同体そのものを所有することは支配欲を満たしてくれるだろうし、その共同体で暮らせば自分は安全だ。

「ということは、このゴンドラの船頭も?」

「はは、バレちまいましたな。お嬢のゴンドラを担当しております、レッセと申しやす。どうか御贔屓に」



 軽やかに櫂を操る老船頭が帽子を脱いで一礼した。どうやら本当らしい。

 この街に入ってからは「絶対にスーエ・ヴァギルスとは呼ばないでくださいね」と念を押されていたが、これで納得できた。



 全員身内なら、確かに「表」の顔は伏せておいた方が有効そうだ。何かあったときの生命線、避難所となる名義だからな。

 逆に儀礼大隊で使っている偽名はそんなに重要ではなく、いつでも捨てられる脱け殻だ。



 だがそうなると、クリミネ少尉の本名を教えてもらわないと困る。船頭に聞かれないように彼女の耳元で聞く。

「君の本名をそろそろ教えてくれないか?」

「姓のディネスだけでいいでしょう?」



 よくないよ。なんで名前教えてくれないんだよ。

 その疑問はすぐに解決することになる。


   *   *


「ようこそ、我が妹ガバデリの婚約者よ!」

 はい?

 俺は隣のリーシャ・クリミネことスーエ・ヴァギルスこと、ガバデリ・ディネスさんを見る。

 聞いてないぞ? その、いろいろと。



(どうして俺がここでも婚約者ということになっているんだ!?)

(あっれぇ~、おっかしいですねえ……ナンデダロウ)

(白々しい態度を取るな、ガバデリ!)

(今度その名前で呼んだら、中尉殿の洗濯物全部盗みますからね)



 視線でバチバチにやりあっている俺たちを見て、正装の若い紳士が困惑している。

「あの、どうかしました?」

「いえ、なんでもありません」

 俺は変装用の眼鏡を指で押さえ、冷静さを取り戻す。



「お会いできて光栄です。軍医のロキソン・ボルターレンです。内科をやっております」

「こちらこそ。ディネス家嫡男、ポルハルトイ・ディネスです」

 クリミネ少尉の実兄だ。こっちも変な名前だな。



 するとガバデリ……じゃない、クリミネ少尉が兄を睨む。

「その恥ずかしい名前を大声で呼ばないでください、兄様」

「美の女神の名前の何が恥ずかしいんだ、妹よ」

「じゃあ兄様も武神ポルハルトイの名を冠してらっしゃるんですから、名乗るときに嫌そうな顔をしないでくださいまし」



 露骨に嫌そうな顔をしているポルハルトイさん。

「あのクソ親父め……」

「クソ親父ですよね……」



 なんとなくわかったけど、現当主が子供たちの命名でちょっと浮かれちゃったのは察しがついた。この地方の古い神様の名前なんだろう。

 俺も自分の名前がタヂカラオとかだったらちょっと困るので、気持ちはわかる。



 ポルハルトイは俺をじっと見て、「いいなあ……ロキソンって……」とつぶやいている。君も偽名を名乗ろう。

 クリミネ少尉が兄に問う。



「お父様はどちらに?」

「父上は仕事の予定が一年半先まで埋まっている。今はバージャ諸島の王たちを訪問して、港の使用許可を打診しているところだ。本来なら部下に任せる案件だが、交渉が難航して父上自身が出向くことになった」



 ディネス家は水運から海外貿易へと事業拡大した一族で、今も元気に航路を開拓中らしい。帝国の外に使用可能な港をいくつも持っており、名義貸しによって帝室や貴族に利用させることで莫大な財産を築いている。



 ポルハルトイは俺に向き直る。

「せっかくお越し頂いたのに当主の出迎えもなく、申し訳ありません」

「いえいえ、私も急患があれば約束を放り出して診療しますから。仕事熱心な方は尊敬いたします」



 それっぽい受け答えでごまかしつつ、俺は心の中で警戒レベルを引き上げる。

 娘が婚約者を連れて帰省してきたのなら、庶民の父なら多少無理してでも面会するだろう。

 そしてディネス家のような国内屈指の資産家なら、なおさら面会の重要度は高まる。

 金目当ての不埒者が一族に入り込んでくれば致命傷になるからだ。



 嫡男ポルハルトイはまだ二十代で、人を見る目という点ではまだ父親に及ばないだろう。婚約者の面接官としては力不足だ。

 もちろん後日改めて会うつもりかもしれないが、偽装した身分で他人を欺いている者としては、相手が欺いている可能性も考慮しなくてはいけない。



「まずはお部屋に御案内しましょう。荷物を置いてからお茶でもいかがですか?」

「おお、大変結構ですな。喜んでお受けいたします」

 のんきな軍医を演じながら、俺はクリミネ少尉に目配せした。

 彼女に切り札を渡しておこう。


   *   *


 俺たちは荷物を置いて軽装になり、いくつもある建物のひとつに招かれた。

 薄手のドレスを着て、肩を露出させたクリミネ少尉が懐かしそうにしている。

「応接用の屋敷ですね」

「応接室じゃなくて?」



「はい。宿泊用の客室も何十室かあって、使用人たちが毎日お手入れしてます。ほとんど使ってませんけど」

 お金持ちって凄いな。それ、稼働率ゼロ%のホテルを維持してるのと同じだろ。



 だがそれを聞いて、俺は不安が確信へと近づいていくのを感じる。

「どうして最初からここの客室に通さなかったんだろうな?」

「そういえばそうですね。移動の手間が増えるだけなのに」



 首を傾げている相棒に、俺はなるべく冷静に声をかけた。

「リーシャ」

「はい?」

「これから何が起きても、君は自分自身の安全を最優先しろ」

「どういう意味ですか?」



 不安そうな顔をしているクリミネ少尉の肩を、俺はそっと抱く。

 そして笑いかける。

「俺はここでは部外者だ。トラブルが起きたときは、君の令嬢としての立場が俺たちの命綱になる。だから決して冷静さを失わずに、忍耐強く行動してくれ」



 綺麗におめかししたクリミネ少尉は、その華やかさとは正反対の緊張した面持ちでうなずく。

「……わかりました」

 よかった。俺の身に何が起きたとしても、この子だけは守りたい。

 そう思ってうなずいていると、クリミネ少尉がぼそりとつぶやく。



「では、キレて玉髄の壺を黒檀のテーブルに叩きつけたりするのはやめておきます」

「それは普段からやらない方がいい」

 被害総額とんでもないことになってないか? こんな大富豪の家じゃ、百均の茶碗を割ったぐらいの感覚なんだろうけど。



 さて、後は俺の心配が杞憂で終わることを祈るだけだ。

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