第30話 危険な女③

 俺たちは岩場を縫うように進みながら、砲台を迂回して島の湾内を目指した。

 ユギ大尉はわずかな月明かりでも昼間のように見えるらしく、あっという間に尾根を越えて島の内側へと入り込む。



 湾内には海軍の戦列艦らしき帆船が一隻と、小型の快速艇が二隻。快速艇はテルゼン提督たちが乗ってきたものだろう。後は手漕ぎのボートがいくつか。

 船の数を見る限り、ここの兵力は小規模のようだ。湾内は狭く、戦列艦を何隻も繋留しておけるほど広くない。



 湾内には建物がいくつか建ち並んでいる。大半は木造だが、レンガ造りの一棟からは明るい光と金属を打つ音が漏れていた。おそらく工房だろう。

 ユギ大尉がつぶやく。



「島と海流に守られているせいか、島の外側以上に内側は無防備ですね」

「巡回どころか歩哨すらほとんどいませんからね」



 確かにここの警備を厳重にする意味はないだろうが、現にこうして暗殺者たちが侵入しているので油断は禁物だ。

 ユギ大尉はスリットから太ももを露出させたまま、あっちこっちをサササと歩き回って戻ってくる。



「あっちが工房、そこは兵舎、ここは倉庫です。士官用の宿舎は、おそらくあそこでしょう」

 ユギ大尉が指差したのは、海辺から少し離れたレンガ造りの二階建てだった。工房や兵舎からも離れており、木々に囲まれた庭園もある。



「確かに、提督の隠れ家としては申し分ありません」

 俺はうなずき、懐の短刀にそっと手を伸ばす。これで水兵たちのマスケット銃と渡り合うのは無茶だが、拳銃は発砲音を聞かれるとまずい。



「何かあったら中隊長殿の武勇が頼りです。よろしくお願いします」

「ええ、一対一に徹すれば何とかなると思います」

 慎重な口ぶりで答えると、ユギ大尉は続ける。



「標的を発見するまでは交戦は厳禁です。発見後は私の判断で交戦の有無を決めますので、中尉は私が挟み撃ちにされないように片側を防いでください」

「鋭意努力します」

 いざとなったら拳銃も使おう。一発しか撃てないけど。



 士官用の宿舎はちょっとした海辺の別荘という感じで、居住性を重視した造りだ。開口部が多く、侵入しやすい。バルコニーや大きな窓はユギ大尉にとって玄関と同じだ。

 だがさすがにここには複数の歩哨がいる。



「どうするんですか、あれ」

「迂回します。こちらへ」

 宿舎を囲む木々に隠れながら、迷いなく宿舎に接近していくユギ大尉。俺も士官学校で斥候の基礎は学んだが、ユギ大尉の隠密術は教本と全く違う。



 スルスルと窓の下までたどり着いたが、ユギ大尉は渋い顔をした。

「鉄格子です。一階の窓全部」

「二階から侵入しますか?」

「そうですね、あのバルコニーはおそらく提督の居室だと思います」



 ユギ大尉はそう言うと、レンガの継ぎ目に指先をかけてスイスイ登り始めた。本当に人間かこの人。

 とてもじゃないが俺は真似できない。置き去りにされてしまった。



 しかしバルコニーの物陰に潜んだユギ大尉が、すぐに飾り帯をほどいて垂らしてくれた。どうやらこういう用途で身につけていたらしい。

 それにしても、これを登るのか……ロープの登攀は士官学校でやったけど……。



 音を立てないように苦労して登ると、テルゼン提督の声が聞こえてきた。

「あの男が差し出してきた女か? 確かに売れば高値になるだろうが、人間は馬や宝石とは違う。送り主の命令を忠実に実行できるのは人間だけだ。何を命じられているかわからん」

 よくおわかりで。



 だがクリミネ少尉は返してもらうぞ。絶対にな。

 広々とした室内にいるのはテルゼン提督とクリミネ少尉だけだ。よかった、少尉は無事だ。脱がされてる様子もない。提督は彼女に手を出すつもりはないらしい。



「だがお前にも用心しておかんとな。脱げ」

 待てこら。殺すぞ。いや殺すんだけど。

 クリミネ少尉が慌てている。



「ぬっ、脱ぐんですか!? ここで!?」

「当たり前だろうが。お前は俺のものだ」

 お前のものじゃねえし。俺の……いや違う。いやいや違わない。俺の大事な戦友だ。お前のじゃない。



「見たところ胸も貧相でケツも小さそうだが、人妻だと思えば多少はそそられるな。あの男、今頃はお前を失った寂しさで泣きっ面だろうよ」

 殺そう。今すぐ殺そう。

 そう思ってユギ大尉を見ると、彼女はニヤニヤしていた。



「もう少し待ちますか?」

「なんでですか」

 早く助けてあげようよ。



 ユギ大尉はにっこり笑うと扇子を取り出した。

「冗談ですよ。では突入しますが、ドアから新手が来ないようにお願いしますね」

「了解しました」

 できれば俺があいつを殺したかったが、この際なんでもいい。



 バルコニーのドアは通風のために半開きになっており、ユギ大尉はその隙間から音もなく室内に侵入する。テルゼン提督は俺たちに背を向けたまま、クリミネ少尉を凝視していた。

「早く脱げ」

「わ、わかってます」



 クリミネ少尉はジャケットを脱ぎ、ボウタイをほどいてブラウスのボタンを外しかけている。これは俺も凝視してしまいそうだが、今は彼女の救出が先だ。

 ユギ大尉がスッと一歩踏み出したとき、気配を感じたのかテルゼン提督がバッと振り向く。



「き……」

 たぶん「貴様ぁっ!」と言おうとしたのだろうが、それを封じるようにユギ大尉が扇を投げる。

 だが軽い扇には何の殺傷力もなく、素手で簡単に弾かれてしまう。



 ユギ大尉は続けざまに次の扇を投げる。

 提督はまたしても扇を払い落とそうとしたが、今度の扇は鈍い音を立てて提督の指を痛打した。見た目は全く同じだが、今回は鉄扇だったらしい。

 最初の扇で油断させて、二つ目で指を砕きにいったか。



「ぐっ!?」

 予想外の打撃というのは、歴戦の戦士をも怯ませる。

 その一瞬の隙をユギ大尉は見逃さなかった。



 長い飾り紐を引いて鉄扇をヒュッと引き戻すと、軽やかな動作で再び放つ。飾り紐がテルゼン提督の首に巻き付いた。

「ぬうぅっ……」



 提督は折れた指で飾り紐をほどこうとするが、すかさずユギ大尉が肉薄。

 すらりと伸びた四肢で提督の手足を絡め取り、体重をかけて引き倒す。そのまま二人はベッドに倒れ込んだ。



「ぐぅうっ……がっ……」

 弱々しい呻き声をあげながらも、渾身の力で振りほどこうとする提督。

 だがユギ大尉は提督を背後から押さえ込み、手脚を絡めて肩と膝の関節をガッチリと極めている。

 提督の体幹は無防備に伸びきっていて、背筋や腹筋が完全に死んだ状態になっていた。伸びきった筋肉は力を出せない。



 提督はかなりの筋肉質だが、さすがに手足の筋肉だけではユギ大尉の全身の筋肉には勝てない。体格の不利を感じさせない、ユギ大尉の卓越した体術だ。怖い。

「かはっ……ぎっ……おご……」

 みるみるうちに提督の顔が紫色に染まり、目が充血してくる。そろそろだな。



 ユギ大尉は顔色ひとつ変えていない。蛾を捕食する蜘蛛みたいだ。不気味な美しさがある。

 飾り紐つきの鉄扇は、大尉に見せてもらった飾り紐の暗器に似ているな。あっちは陶器の球がついてたが、暗器使いは「本物」を誰にも見せないから、飾り紐は鉄扇と組み合わせて使う予定だったんだろう。



 俺は部屋の出口のドアが施錠されていることを確認しつつ、ナイフを構えていつでも加勢できるようにしておく。

 だが奇襲が完全に決まっている以上、テルゼン提督の命運は既に尽きている。



 やがてベッドの上でユギ大尉が体を起こす。髪が少し乱れ、なんだかとても色っぽい。

 テルゼン提督は手足を投げ出していて、もう起きてくる様子はない。チアノーゼで変色した首には、飾り紐がぎっちりと食い込んだままだ。たぶん死んでる。



 とりあえず任務は達成したか。成仏してくれ。お前のは完全に自業自得だ。

 心の中で一瞬だけ合掌すると、俺は次にやるべきことを考えた。

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