第29話 危険な女②
真っ黒な海の上で、俺はちゃぷちゃぷとボートを漕いでいた。
「ボート漕ぎなんて士官学校以来ですよ」
俺がぼやくと、操舵担当のユギ大尉が笑みを含んだ声で言う。
「あら、故郷は内陸?」
「経歴を聞くのは御法度じゃないんですか」
貴族や聖職者さえも処刑するという職業柄、俺たちは多くの秘密を抱えている。お互いの過去についても詮索無用だ。知ってしまえばどこかで漏らす危険性が出てくる。
するとユギ大尉はこんなことを言った。
「じゃあ私の過去を教えてあげますので、それでチャラということで」
「いや、聞くわけにはいきませんよ。小官のように軽率な者に情報を渡すと、中隊長殿を危険に晒します」
暗がりの向こうから、ちょっとすねた声。
「フォンクト中尉でダメなら、大隊長以外誰にも明かせないじゃないですか」
「明かさなければ良いのでは?」
しばしの沈黙の後、ユギ大尉がぽつりと言った。
「じゃあ、これは私の独り言です。聞きたくなければ耳を塞いでいてくださいね」
「いや、耳以前に両手が塞がってるんですが」
ボートを漕ぎながらどうやって耳を塞げばいいんだよ。
しかしユギ大尉はお構いなしにどんどんしゃべり始める。
「昔々、といっても百年前ではありません」
「その前置き必要ですか?」
「十年前でもなく……あ、いえやっぱり十年前ですね。うわ、もう十年も経ってる……」
やたらと具体的な上に割と最近だった。
あとその感想は何なんですか。
十年前というと、俺がまだ故郷で小作人をやっていた頃だな。退屈な上に不便な貧乏暮らしに嫌気がさして、軍隊に入ろうか迷っていた時期だ。
その後、うちの大隊長に拾われて事務方の兵卒として採用され、下士官に昇進して士官学校に進むことになる。
そうか、あれから十年か……うわ、もう十年も経ってる……。
話が脱線しすぎた。
ユギ大尉も十年分の追憶から戻ってきたところらしく、軽く咳払いをして続ける。
「正統帝国の辺境に、シャオ武術の一派を伝える一族がいました。始祖は宮廷の武術師範だったそうですが政変で祖国を追われ、子孫は異国で用心棒や傭兵に身を落としていたのです。その一族に、ひときわ武の才に長けた美少女がおりました」
……自分のことですよね?
ツッコミたいけど黙って聞いておく。
「美少女は多額の報酬を約束されて暗殺の依頼を受けたのですが、あと一歩というところで失敗しました。心優しい彼女には、赤子を殺すなどという非道はどうしてもできなかったのです」
……自分のことですよね!?
「結局彼女はその赤子の母親と親友になり、彼女の護衛として働くことにしました。ぶっちゃけ前金だけでも十分な額でしたし、依頼主はその後すぐに処刑されたからです」
その説明いらない気がします。若い頃はやんちゃだったんですね、中隊長殿。
「その赤子の母親は今でも、彼女の上官です」
「えっ!?」
思わず声が出てしまった。
ちょっと待てよ。
その自称美少女の暗殺者はユギ大尉で、彼女の上官といえばフィオナ大隊長だ。ユギ大尉は中隊長だから、上には大隊長しかいない。近衛連隊長も形の上では上官ではあるが、いけ好かない爺さんなので違う。
ということは、命を狙われたのは大隊長の娘!? あの子に刺客が差し向けられるって、どういう状況だ!?
「あの、中隊長殿」
「なんですか」
「その独り言のせいで、任務に集中できなくなりそうです」
するとユギ大尉はフフッと笑う。
「それは申し訳ありません。配慮が足りませんでした。ですが……」
表情は見えないが、口調が変わったのを感じる。
「知っておいてほしかったのです。なぜ私が銃ではなく隠し武器を使う軍人なのか。何のために儀礼大隊にいるのか。そして、何のために戦うのか」
この人も俺と同じで、大隊長個人に忠誠を誓っているタイプだ。それは知っていたが、そんな事情があったとは。
俺はボートを漕ぎながら明るく返す。
「中隊長殿の独り言、しっかり覚えておきますよ」
「ありがとうございます。では今夜は、我が奥義を尽くすとしましょう」
そう言って彼女は懐から扇をスッと取り出した。
ダジャレではないよね? 俺たち日本語では会話してないし。
* *
やがてボートはゼラーン湾の外に出る。波が少し荒くなったが、この程度なら問題ない。
雲の切れ目から月光が差し込み、二つの島に隠された三つ目の島を浮かび上がらせる。
ユギ大尉が真面目な声で警告を発する。
「地形のせいか海流が複雑なようです。気をつけないと転覆しますよ」
「そう思うんなら代わりに漕いでください」
「操舵を代わってくださるのなら」
うーん、俺が操舵したら転覆するな……。諦めて漕ぐか。
「中隊長殿、さっきも言ったようにあれは火山の火口だった島です。おそらく湾内に侵入しないと接岸できません」
「大丈夫ですよ。垂直な崖なら登れます。反り返っていたら少し手間取りますが」
「どちらにせよ小官が置き去りになるんですが」
リアルニンジャみたいな人が上官だと苦労する。俺はただの一般人だ。
次第に島が近づいてくるにつれて、俺たちの間に緊張感が漂う。
「要塞化されていますね、中隊長殿」
「ええ。偽装された砲台があちこちにあります。監視所も兼ねているはずですから、姿勢を低くしてください。波間に隠れるように」
「漕ぎづらいんですが。それに海流が逆で……」
島と島の間を海流が通っているせいか、流れが速いようだ。まるで島への接近を拒むかのように海流が逆らってくる。
しかしユギ大尉は嬉しそうに言った。
「この海流なら、島に漂着する人や舟はないでしょう。ということは監視の目も緩いはずです。たぶん大型船の接近しか見ていませんよ」
「それはそうかもしれませんけど」
漕いでる身としては大して慰めにもならない。
その後もだいぶ苦労したが、俺たちはどうにか島が描く円弧の外側に接岸することができた。
月明かりでかろうじて見えるが、どうやらここは岩場の浅瀬らしい。波が荒かったらボートは無事じゃ済まなかっただろう。
「中隊長殿、ほぼ何にも見えません」
「砲台からもほぼ何も見えませんから安心してください」
何を安心すればいいんだろうか。
真っ暗な岸壁に真っ黒な波の音が聞こえるだけで、深さもわからない。うっかり落水しようものなら溺れてしまいそうだ。
「怖がらなくても大丈夫ですよ」
気づいたらユギ大尉が大岩の上にいた。いつ跳んだんだ? ボートは揺れもしなかったぞ?
ユギ大尉はロープでボートをたぐり寄せると、大岩にボートを繋留した。言うだけなら簡単なんだが、俺がやるともっと手こずっただろう。うちの中隊長、やっぱり人間離れしている。
「それにしても、ずいぶん手頃な岩場があるものですね」
ユギ大尉が首を傾げているので、俺は岩の表面に触れて答える。
「どの岩にも海藻があまり生えていませんから、おそらく満潮で一時的に繋留可能になっているんでしょう。ぐずぐずしているとボートが岩の上に取り残されますよ」
「確かに。では急ぐとしましょう」
ユギ大尉はスッと立ち上がると、コートを脱ぐ。
なんでまだチャイナドレス着てるんだろう……。
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