第28話 危険な女①
俺たちが港に向かうと、テルゼン提督らしい人物が闇に紛れて船に乗り込むところだった。
といっても艦隊の戦列艦ではない。小型の快速艇だ。帆はあるが、無風のときは漕いで進むこともできる。大砲は積んでおらず、ちょっとした連絡や移動に使われる。
提督までの距離は百メートルぐらいだろうか。前世の銃なら簡単に狙撃できる距離だが、マスケット銃だと射程外だ。まず当たらないし、当たっても致命傷を与えられるかどうか怪しい。
かといって、これ以上近づくと気づかれる。
「せめて話し声だけでも聞こえたらいいんですが、なんであいつらこういうときだけ小声なんだ」
「わきまえているからでしょう。テルゼン提督の身辺警護をする兵が、その程度のことができないようでは話になりませんし」
「ですよね」
あのおっさん、細かいところに気を配れない部下は殺しそうだよな。
快速艇は二艘。片方にトラブルがあっても移乗できる。夜間の航行だし、この用心深さはさすがに提督というべきか。たとえ自分の庭みたいな湾内でも、決して海を甘く見ない。
俺は上官にお伺いを立てる。
「近くに脱出用のボートを用意していますが、あれ使います?」
「そうしましょう。ですが、たった二人で漕いでも追いつけませんよ」
俺は懐からゼラーン湾の地図を取り出した。陸軍測量局のものだ。
「テルゼン提督の行き先は限られています。明日夜の商談には戻ってこなければならないので、一晩で往復できる距離。あの小型快速艇は外洋の航行には向いていませんから、ゼラーン湾の周辺でしょうね。となると……」
俺は地図の島を指し示し、ユギ大尉が地図を覗き込む。
「島が二つありますね。この印は?」
「実は海軍の地図では、ここに三つ目の島があります」
ユギ大尉は顔を上げて俺を見た。
「どういうことですか?」
「おそらく陸軍には秘密にしておきたい島なのでしょう。三つ目の島を陸から見ても、他の島影と重なるので気づかれません。そしてこれらの島はいずれも無人島で、航路からも外れています」
島があればそこに船や物資を隠すことができ、船の点検や修理もできる。建物を建てて砲兵隊を駐屯させることもできる。
島は沈まない巨大な軍艦であり、洋上の基地だ。
「三つ目の島はほぼ完全な円弧です。おそらく海底火山の火口部分だけが露出しているんでしょう。円弧の北側に欠けた部分が一カ所あり、島影で隠された入り江になっています。海賊の根城としては理想的ですね」
ユギ大尉は納得したようにうなずいた。
「なるほど。戦略的に価値があるので存在を秘匿している。ということは、テルゼン提督はここを隠れ家にしている可能性が高いのですね?」
「わざわざ隠匿しているぐらいですから、おそらくそうでしょう」
隠すという行為自体が、そこに何かあることを示している。もちろん「そのうち何かに使おうと思ってるけど今はまだ何にもない」という場合もあるので、賭けであることに変わりはない。
俺は地図を畳むと、真っ暗なゼラーン湾を見る。
「大きな賭けになりますが、行かなければクリミネ少尉を取り返せません。彼女が明日まで無事だという保証はありませんから」
ユギ大尉はじっと考え込み、それから中隊長としての発言をする。
「無用な危険を冒すことになるかもしれませんよ?」
だがそれでも、俺は考えを変えなかった。
「戦友のために冒す危険に『無用』はありません。どれだけ愚かしく見えても、戦友を見捨てない精神を行動で示すべきだと考えます」
「わかりました。ではやれるところまでやってみましょう。ただし任務の遂行が最優先です。そこは覚悟を決めておいてください」
「はい、中隊長殿」
俺がうなずくと、ユギ大尉は俺の手をぎゅっと握ってくれた。
「あなたが私の部下であることを誇りに思います」
「え? あ、ありがとうございます」
なんだか照れくさい。
さあ、クリミネ少尉を取り返そう。
* *
拝啓、故郷のお母様とお姉様と弟たち。あと仕方ないのでお父様も入れてあげましょう。
私は今、奴隷として船に乗せられています。
一族まるごと金の力で準貴族になっている家の子として、大変恥じております。
でもしょうがないんです。これも任務なので。
私は内心で溜息をつきつつ、ひんやりとした潮風の感触を楽しむ。
今夜は半月が出ているけれど、雲もあって朧月だ。それでも多少は海が見渡せる。インクのように真っ黒な海だ。ちょっと怖い。
前に船旅をしたときは、父方のお祖父様の所有する交易船だったっけ。あのときはみんな使用人だったから、親切にしてくれたなあ。
マストに登ろうとしたときは船の規定でお尻ぺんぺんされたけど……。七歳ぐらいだっけ?
それにしても、罰されるのってなんであんなに楽しいんだろう?
「おい、女。あまり船縁に近寄るな。船室に入れ」
テルゼン提督に命じられ、私は静かに頭を下げる。
「はい、閣下」
その気になれば、いくらでも淑女になれる。楽しくはないけど。
小さな船なので、船室といっても物置みたいなものだ。ベッドはおろか椅子すらないので、ロープの束の上に腰掛ける。
テルゼン提督はフォンクト中尉殿が渡した扇子を開きながら、カンテラの明かりを頼りに図面を見ている。
それにしてもあんな砲弾の図面、どこから調達したんだろう? フォンクト中尉殿は不思議なことばかりで、とても謎めいた先輩だ。
でも凄く優しいし、たまに厳しくて、そこがまたキュンってなるっていうか……ああ、お尻ぺんぺんされたい。こないだ吊されたときは最高だった。絶対にまたやりたい。
「ずいぶん落ち着いているな」
テルゼン提督が声をかけてきたので、何にも聞いていなかった私は静かに頭を下げる。
「はい」
ああ、早く帰りたい。中隊長殿が船底をぶち抜きながら「ホアァーッ!」とか叫んで登場しないだろうか。中隊長殿ならこいつら全員ぶちのめしてくれると思う。
テルゼン提督はまだ私を見ている。
「この砲弾の図面がインチキなら、試射の的になるのはお前だ。明日の夜、お前の死体をあの若造の前に放り出してやる」
それは……すごく興奮しますね! 自分で見られないのが残念だ。
提督はフンと鼻を鳴らす。
「全く動じんな。となると図面は本物か」
「はい」
本物かどうかはわからないけれど、フォンクト中尉殿のやることだから大丈夫だろう。少なくとも、ここで私がガタガタ震えてたら話にならない。
そのとき外から声が聞こえてきた。
「提督ぅ! そろそろ入り江の暗礁です! 砲台への合図はどうしますか?」
「『我に追跡者無し、されど海を見張れ』だ」
「わかりやした! おい、『我に追跡者無し、されど海を見張れ』で送れ!」
目的地に近づいたらしい。でも船室に閉じ込められているので見えない。じたばたしても始まらないので、死体になった自分を妄想しながらフォンクト中尉殿の反応を考えてみる。
私が死んだら悲しんでくれるかな? フォンクト中尉殿の心に小さなひっかき傷になって残れるのなら、死ぬのも悪くないなあ。
フォンクト中尉殿のことだからこの程度の窮地は軽く切り抜けちゃうんだろうけど、その後もずっと「あのときクリミネ少尉を救出できていれば」って悩み続けてくれるとしたら?
ああ、なんかキュンキュンする。とてもいい……。
「お前、もしかして落ち着いているのではなく、単にぼんやりしているだけか?」
テルゼン提督が疑わしそうな目で見てきたので、私はフフッと微笑む。
「はい」
「そこは肯定するな。変な女だ」
テルゼン提督は渋い顔をする。
「お前はあのウォンとかいう若造の愛人だな?」
えっ?
「はい」
うわ、反射的に即答しちゃった。私の口は正直だな。
すると、テルゼン提督は満足そうにうなずいた。
「やはりな。お前をよこせと言ったとき、あいつは一瞬うろたえた。銃を突きつけられてもうろたえなかった男がだ」
でへへ、そうでしょう、そうでしょう。なんせ私はフォンクト中尉殿に愛されていますから。たぶん。
テルゼン提督は扇子をぐしぐし押して閉じる。
「部下たちの報告では、酒場で豪遊しているときから妙に親しげだったそうだな。やはりお前があの男の急所か」
「はい」
「お前、さっきから『はい』しか言わんな……」
テルゼン提督がなんだかやりづらそうな顔をしているけど、初対面の人はみんなこうなので別に驚くことでもない。フォンクト中尉殿が例外なだけだ。
テルゼン提督は軽く溜息をつき、こう言う。
「あの男が俺に利益をもたらす限り、お前は殺さん。もっとも返すつもりもないがな。人質として飼ってやる」
ここは「はい」だとダメだよね? 私は無言で目を伏せ、悲しそうな顔をしてみせる。
この人は暗殺されて、私はまたフォンクト中尉殿の部下に戻れる。
大丈夫、大丈夫なはず……。
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