第8話 吊るされた女③
フマーゾフ卿はマカラン騎兵少尉の退出を見届けた後、俺たちに座るよう勧めてくれた。そしてこう続ける。
「まずは君の気遣いに感謝しよう。あの無法な騎兵たちを下馬させてくれたこと、私は嬉しく思うよ」
「恐縮です。当然の礼節を守ったまでのこと」
やはりフマーゾフ卿は騎兵たちに不満だったようだ。俺を見る目が優しい。
「君たちのやり取りは給仕の者から聞いたが、君は『騎馬降ろし』の門のことを知っていた訳ではないのか?」
あの背の低い門のことか。
「なにぶん浅学なもので何も存じ上げません。『槍倒しの松』から類推しただけです」
「逆に感心したよ。知らずとも察することができるのは真の智者にのみできることだ。ちなみにその松の木はどこにあるのかね?」
山口県岩国市です。いいとこだったよ。景色もお酒も最高でした。
などと答える訳にもいかないので、俺は曖昧に答えておく。
「遠い異国の逸話だと聞き及んでおります」
「そうか。人というのはどこに住んでいても、考える事は同じようなものなのだろうな」
「そうかもしれませんね」
俺は笑みを浮かべ、早くも冷めてきた紅茶を飲む。早春とはいえ、帝都近郊の真冬より寒い。
「確かに人はどこでも同じようなものです。しかし住む土地が違えば暮らし方も異なるのではありませんか?」
ちょっと話を振ってみる。
するとフマーゾフ卿は小さくうなずいた。
「さよう。カヴァラフ地方では昔から、『嫁争議』という慣習がある」
なんか面白そうな単語が出てきたぞ。
「寒さの厳しいこの土地では、領主と領民がいがみ合っていては共倒れになってしまう。だが身分の上下はある。そこで女たちが出てくる訳だ」
女性であるクリミネ少尉が興味津々で傾聴している。俺も興味ある。
「ここでは領主に請願したいとき、領民の妻たちが領主の妻に直談判するのだ。そこで少々揉めたとしても、我々男連中は知らん顔をしておく」
この帝国は男尊女卑の社会なので、身分制度は主に男性たちを縛っている。女性は結婚で身分が変わることもあるので、半分ぐらいは身分制度の枠外に置かれていた。
男女で別の社会が営まれているため、女性同士で対立しても男たちは「すみませんねえ、うちの嫁さんが」みたいなことを言って苦笑いをしておけばいい。
ちょっとズルいぞ、男たち。
だが流血を避ける生活の知恵ではあるな。
フマーゾフ卿は苦笑する。
「こちらとしても、丸腰の女たちに手荒なことはできんからな。話を聞いた上で丁重にお帰りいただく。それがカヴァラフ騎士の誇りだ」
そういう形で双方の暴力に抑制がかかっているのなら、それはそれでアリなのかもしれないな。転生者としては思うこともあるけど。
ただ、それだと妙なことになるな。
「ではフマーゾフ様、農民の反乱が起きたというのは……」
「おそらくいつもの『嫁争議』、つまり集団強訴に過ぎんよ。もし本当に武装反乱が起きれば領主間ですぐに話題になる」
そう言ってフマーゾフ卿はあごひげを撫でる。
「どこかの領地で起きた『嫁争議』の話が中央に伝わって、それが問題視されたのだろう。次に起きたときは反乱として厳しく取り締まるようにとの下達が私にも来ている」
この「中央」というのは皇帝か重臣のことだろう。
フマーゾフ卿は白髪頭を撫でて溜息をつく。
「例えば当家の場合、直近の『嫁争議』では年貢の軽減を求められただけだ。その年は確かに不作だったので要求通りに軽減し、それでも足りぬ者には農閑期の労役で埋め合わせとした。五年ほど前かな」
まあ妥当な線だろうな。土地を捨てて逃げられても困るだろうし。
後で聞き込みでもして確認する必要があるが、フマーゾフ卿の言葉が本当なら、大隊長のあの態度も納得できる。この程度でいちいち誰かを処刑していたら、本物の反乱が起きてしまうだろう。
「それでフマーゾフ様、首謀者のユオ・ネヴィルネルは今どこにいるのですか?」
俺が尋ねると、フマーゾフ卿は困ったように答える。
「私の想像だが、そんな人間は最初からこの世のどこにもいない」
だよね。大隊長がくれたメモに書いてあった。どうやらこの人は本当のことを言う人のようだ。
フマーゾフ卿はすっかり冷めた紅茶を飲む。
「『嫁争議』で実際に動くのは女たちだが、それを頼むのは男だ。首謀者が来ないから誰なのかはわからんし、それが良いところでもある。英雄も罪人も作らないからね」
うーん、なんとなく前世の唐傘連判状を思い出す流れだ。
クリミネ少尉がビスケットのような茶菓子をおそるおそるつまみながら質問してくる。
「では、ユオ・ネヴィルネルという名前はどこから出てきたんですか?」
「首謀者を調べよと命じられた誰かが、処罰を恐れて架空の名前をでっち上げたのだろう。カヴァラフ地方にはネヴィルネルという姓はないし、『ユオ』も女性の名だ。この土地の者ならすぐにわかるよ」
「なるほど」
いない人を捜して処刑するのは、勅命でも無理だな。わかっていたことなので、特に気にせず仕事を済ませてしまおう。
「そうなると、我が儀礼大隊はこの世にいない人物を見つけてこの世から消さねばなりません。これは困りましたね」
「そういうことになるな。私もあの騎兵たちの軍馬に困っている。飼い葉や厩舎の手配だけでも当家の懐事情ではいささか苦しい。おまけに恩知らずの無礼者ときた」
フマーゾフ卿は弱り切った顔をして溜息をつく。
「既に陸軍第二師団のいくつかの中隊が展開して、いるはずのない首謀者を捜索している。彼らの前で『ユオ・ネヴィルネル』を処刑しないと終わらないだろう」
彼らにも確認と報告の義務はあるだろうし、そっちの方が後々面倒がなくていい。
「適当にその辺の誰かを処刑するという手もありますが、もちろんそれはしませんよね?」
一応確認しておく。というか、「それはするなよ?」という念押しだ。だいたいの貴族は平民の命を軽く見ている。
するとフマーゾフ卿はうなずいた。
「無論だ。農民たちのことは別にそれほど好きでもないが、さすがに無辜の誰かを処刑するのは人の道から外れる。架空の首謀者を報告したのは私ではないから、そこまでする義理もない」
本当だろうか? 報告した本人ではないにしても、そいつから泣きつかれたりしてない?
ちょっと怪しい気はするんだけど、どうせ答えてはくれないだろうな。そこを詮索するのはやめておこう。
でもこれで、この任務が俺に振られた理由がわかった。俺が一番得意なヤツだ。
「では我が大隊で適当にうまくやりましょう」
「やってくれるかね?」
「そのためにうちの大隊長に手紙を送られたのでしょう。お任せください」
ほっと安堵しているフマーゾフ卿に、俺はこう伝える。
「そこで少しばかり、御協力をお願いしたいのですが」
「おお、何なりと言いたまえ」
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