バレンタインデイの起源について〜宝蔵院流と歴史に埋もれた槍術流派〜

北 流亡

バレンタインデイの起源について

※この作品には史料の引用が多数ございますが、作者判断で一部表記の変更や句読点の追加等を行なっております。ご了承下さい。




 バレンタインデイは、ヴァレンティノ司祭の殉教の逸話が由来とされているが、それは誤りである。

 今日の研究によれば、バレンタインデイの起源は、室町時代の宝蔵院胤栄を取り巻いた一つの騒動にあるとされる。

 宝蔵院流とは大和国(現在の奈良県周辺)を発祥の地とする槍術の名門である。当時「槍」と言えば穂(刺突に用いる箇所)が棒状の、素槍が中心であったが、宝蔵院流は十字型の穂を用いた「十文字槍」を用いた。その特異な形状は、従来の槍の「突く」という動作だけでなく「切る」「払う」「打ち落とす」といった、変幻自在の攻防を可能にした。その画期的な槍術は「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」という歌が残るほど、当時の人々に衝撃を与えた。

 しかしながら、宝蔵院流が興った当時、大和国にもう一つ、変則的な槍を用いた流派が隆盛していたことはほとんど知られていない。

 その流派は「伴蓮院流槍術ばんれんいんりゅうそうじゅつ」といった。

 伴蓮院流槍術は、歌舞伎や浄瑠璃の演目にはしばしば登場するものの、史料に乏しく実在が疑問視されていた。しかし近年発見された、柳生宗厳が記した「柳生草紀大和之編」に伴蓮院流槍術の記述が見られ、実在に関する議論に終止符が打たれた。

「柳生草紀大和之編」には『大和に二天を戴く流派有り。鎌槍の宝蔵院流と斧槍の伴蓮院流也』と記述があり、当時の大和国で二つの流派が隆盛を極めていたことが伺える。

 因みに、伴蓮院流が用いたとされる『斧槍』という呼称は日本史内において例を見ない。武芸十八般に通ずる柳生宗厳が、あえて鎌槍とも片鎌槍とも表記しないということは、そのどちらにも形容できない形状をしていたと思われる。これに関しては、後述の描写も鑑みて、おそらく西洋でいうところのハルバードのような形状をしていたと推測される。

 しかしながら、伴蓮院流は今日にはほとんどその名を知られていない。それは一体何故なのだろうか。

「柳生草紀大和之編」に『伴蓮院流の当主隠泥は其の武胤栄(宝蔵院流創始者)に勝るとも劣らず。然しその心、まことに苛烈なり』という記述がある。また筒井順慶の記した「筒井日記」にも、『彼の槍術。流派か賊か疑わし』という記述があり、これを照らし合わせると、伴蓮院流は非常に横暴な振る舞いをしていたのではと推測される。また、当時の農民が残した民話の中にも奇妙な形の槍を持って村を荒らしまわる集団の存在が示唆されている。これに関しても、はっきりと流派の名が残されているわけではないが、年代を鑑みるに伴蓮院流を指している可能性は高いと思われる。その隆盛とは裏腹に、伴蓮院流の悪名が徐々に大和国に広まっていったのであろう。

「柳生草紀大和之編」には、永禄十一年(西暦1568年)、宝蔵院胤栄と伴蓮院隠泥は果し合いを行うことと相成ったと続く。『長、胤栄に討伐を懇願す』とあり、伴蓮院流の横暴に耐えかねた農民が、宝蔵院胤栄に討伐を依頼と推測される。

 果し合いは、柳生宗厳立合のもと行われた。このときの経過は詳細に記載されている。『両人槍を構え潮合を待つこと凡そ二刻(約30分)』とあり、果たし合いが始まってから、長い膠着があったことが窺える。

 しかし、ここで宗厳が意外なことを行う。天下を二分すると言われた槍流同士の闘い。その実力を測りたくなったのか、はたまた均衡を破りたくなったのか、宗厳は向かい合って機を伺っている二人に、猪口を投擲した。そのときの反応は『伴蓮院流は猪口を目にも止まらぬ疾さの薙ぎ払いで粉砕した。然しながら宝蔵院流は猪口を穂先に乗せた。猪口には一切の傷無し。』と記されている。咄嗟の出来事への対応。そこで両者の実力差が垣間見えた。この後『決着を焦った隠泥が幾度も薙ぐがその刃届かず。一方胤栄の刺突は直ぐに頸を捉えた。』というあっさりとした描写で締められ、果たし合いに関する記述は終わる。「柳生草紀大和之編」には、これ以降伴蓮院流に関する記述は一切無い。

 立ち合いの際に宗厳が投げた猪口を、胤栄は生涯大切にしたと言う。なお、その猪口は現在大和高田市立美術館に展示されている。

 柳生宗厳が猪口を投げて宝蔵院胤栄が実力を示した出来事は、武芸者の間に忽ち広まり、「実力を認めた武芸者に猪口を投げる」という行為が大和国周辺に流行した。

 この流行は江戸時代に入る頃には廃れるのだが、一部の集落には慣習として根付いた。毎年二月になると「伴蓮院隠泥覚悟」と叫び、干菓子を投げつける催しを行った。何故猪口ではなく干菓子に替わったのか、明確な史料は残されていないが、一種の祭りのような催しになる過程で、ぶつかっても危険が無いものとして代替されたと思われる。また、この慣習が節分の豆撒きの原型になったという説もある。

 そして話は第二次世界大戦後にまで進む。

 プリーストチョコレートカムパニーの社長である三原が、この慣習に着目し、「尊敬している相手にチョコレートを贈呈する日」として、「伴蓮院の日」を独自に制定し販促に用いた。何故「宝蔵院の日」にしなかったかについては、後に三原が取材に対し「宝蔵院より語呂が良かったから」と回答している。

 この販促はなかなか定着しなかった。しかし、始めてから10年ほど経ってから、ハイカラなイメージを取り入れるため「バンレンインデイ」に改名し、さらに「女性から男性にチョコを渡して愛を伝える日」として大々的に広告を打ったところ、一気に販促に火がつき、チョコレートの売り上げが前年対比300%にまで増加した。

 この販促に競合大手他社が追随し、全国に広まっていったのが、今日私たちが知る「バレンタインデイ」である。「バンレンインデイ」が「バレンタインデイ」に名前が変わった理由に関しては諸説あり、他社が丸々真似をすることを避けたという説や、誤植によるという説、外国人の名前を冠してお洒落なイメージにしようとした説などがある。

 こうして、室町時代を水源とするバレンタインデイの奔流は、今日に至るのである。

 余談ではあるが、ホワイトデーの起源は、宝蔵院胤栄と伴蓮院隠泥による果たし合いの一月後、胤栄が意趣返しとして、柳生宗厳に朽木を投げた逸話から来ている。このときに宗厳は、柳生新陰流の奥義「無刀取り」の着想を得るのだが、詳しくは別の機会に述べたいと思う。

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