石燈籠

増田朋美

石燈籠

2月だというのに、暖かくて春みたいな日であった。それではまたなにか大きな出来事が起こるのではないかと思われるが、そういうときに限って、なにか大事件が起きたりしてしまうものである。やはり人はいつも通りでないと、なにか困ってしまうらしい。それは、障害を持っているとか、障害が無いとか、そういうことでは片付く問題では無いような気がする。

その日。今井美子という女性が、製鉄所を訪ねてきた。何でも、インターネットに書かれていた女中さん募集の広告を見て来てくれたという。

「えーと、今井美子さんですね。住所は、富士市天間。比較的、こちらには近い方ですね。それではまず初めに、どこのサイトで、女中さん募集の記事を見たのでしょうか?」

と、製鉄所という施設を管理している理事長のジョチさんこと、曾我正輝さんは、彼女の顔を見て、そういった。

「はい。消去法といいますか、できそうな仕事を探したら、結局ここしかなかったのです。」

と、その女性、今井美子さんは言った。そんな顔を見て、ジョチさんは、本当にこの人は、女中さんをしてくれるのだろうかと思った。

「それでは、こちらの仕事内容とか、理解してくださいますか?」

ジョチさんは今一度確認する。

「はい、今需要がある仕事ですし、お年寄りの世話をすると言うのなら、少し介護施設で働かせて頂いたこともありましたから、それではある程度できると思います。」

今井美子さんは答えた。

「そうですか、介護というのは、確かに仕事内容としては近いですが、今回募集したのはお年寄りの世話をするという内容ではございません。介護して欲しい方は、現在45歳。全く年寄りではありません。」

ジョチさんがそう言うと、今井美子さんは、

「そんな事、聞いていません。それなら、そうなっていると、ちゃんと掲示板で書いたらどうですか。介護人女中さん募集と書くのであれば、普通はお年寄りの世話をするのだと思いますよ。」

とすぐ言った。

「そうですけど、それなら応募する前に問い合わせてみるべきではありませんか?」

とジョチさんは閉口した。

「いいえ、そちらの情報公開が足りていないんだと思いますわ。私達は知る権利がありますもの。求人で求めている人が困らないように、できるだけ詳しく書いておくことは、雇い主の義務だと思うんですけどね。」

今井美子さんは直ぐそういうのだった。今どきの女性だなとジョチさんは思った。もしかしたら、もう、今までの雇用形態では、通用しないのかもしれない。

「それでは、わかりました。そういうことなら、こちらで仕事するのは諦めますか?」

ジョチさんはそう言うと、

「まあ待て待て。」

と、杉ちゃんがやってきた。

「まあ、こういうことは、犯人探しはしない方がいいよ。それなら、一度雇ってみたらいいじゃないか。介護するターゲットの年齢が違うとか、そういう違いは、よくあることだと思って、それであまり議論しないようにしな。」

「そうですねえ。」

と、ジョチさんはいう。

「それでは、ちょっとこちらにいらしてください。とりあえず、あなたにしてほしい事を、お伝えしますので。それから決めてくれてもいいですよ。」

ジョチさんは肘掛け椅子から立ち上がって、美子さんに、こちらへ来るように言った。そして、長い廊下を歩いて、水穂さんのいる四畳半に向かった。四畳半では、ちょうど、パクパクさん事、鹿島一華さんが、水穂さんとピアノの練習をしていた。ジョチさんは今井美子さんに、

「あちらにいるのが、生徒の鹿島一華さんで、一緒にいるのが、磯野水穂さんです。その磯野水穂さんという男性が、今回あなたが世話をしていただく方です。」

と説明した。今井美子さんは、その水穂さんという男性の顔を見て、大いに驚いてしまった。その顔は、紙みたいに真っ白くて青白い顔だったけど、でも、美しい人であった。なんだか外国の俳優さんにも引けを取らないくらい、綺麗だった。

「あ、あの。」

と、今井美子さんは言った。すると、二人は、練習するのをやめて、ジョチさんと今井美子さんの方を見た。一緒にいた女性が吹いていたのは、竹製の笛で、フルートとはぜんぜん違う音色を持ち、なんだかビービーとなる、けたたましい音だった。それでは、上品な音とは偉い違いだから、今井美子さんはなんだかうるさくて、不快な気がした。

「ああ、新しい、女中さんが見えるってそう言っていましたね。もういらしてくれたんですか。随分速いおつきのようですね。」

と、水穂さんは、そう今井美子さんに言った。

「僕は、磯野水穂です。こちらにいらっしゃるのは、笛子奏者の、鹿島一華さん。あだ名をパクパクさんと呼んでやってください。ちょっと変なあだ名かもしれないですけど、それは、彼女への親しみを込めて言っているのであって、からかうとか、いじめているとかそんなことはありませんから。」

水穂さんはにこやかに言った。今井美子さんは、その姿を見て衝撃が走ってしまう。こんなに美しくて、上品な男性、全く見たこと無い。なんだかテレビで映っているつまらないタレントよりも、ずっときれい。隣りにいる、女性が、なんだか恨めしいというか、そんな気がしてしまった。美子さんに向かって、パクパクさんが静かに頭を下げた。なにか言おうとしているようであるが、口だけ動くだけで、声にはなっていない。ああ、そういうことか、と美子さんは思った。つまるところ、彼女は、失声症なのだ。なんだかそんな障害のある女性が、水穂さんと一緒にいるなんて、なんだかもったいないというか、自分のほうがずっと良いと美子さんは思った。

「そういうことなら、これから、水穂さんの世話をしてもらうということになりますけれども、やっていただけますか?」

ジョチさんがそう言うと、

「はい!もちろんです!こういう人のそばで働けるんだったら、私喜んでやらせて頂きます!」

と、今井美子さんはにこやかに言った。

「わかりました。それでは、一生懸命やっていただきましょう。水穂さんは認知症の老人などではありませんので、介護するのに少しむずかしいかもしれないけど、よろしくお願いします。」

ジョチさんがそういったため、とりあえず、彼女は、製鉄所の女中さんとして働くことになった。

実際に働いてみると、水穂さんの介護は、非常に難しい物があった。とりあえず、廊下を水拭きして、中庭を箒で掃くという業務をこなさなければならないが、この製鉄所という福祉施設は非常に広い施設だし、中庭だって、一度きれいにしても、一日立てば、中庭に生えているイタリアカサマツが毎日葉を落とすので、また掃除しなければならない。ちなみに製鉄所というのは、誤解されないように言っておくと、鉄を作るところではなく、居場所の無い女性たちに、勉強や仕事をするための部屋を貸し出す施設であった。いわば、公民館と福祉施設が合体したような場所である。それでは、毎日毎日、床を水拭きして、そして中庭を履くという行為を繰り返さなければならないのは、なんだか侮辱されているような気がしてしまうのであった。それをクリアしてから、やっと水穂さんのもとへ訪ねて行けるのである。しかしながら、水穂さんは、少しも良くなる気配がない。それどころか、ますます弱っていくような気がする。

今井美子さんは、できるだけ、水穂さんのそばにいたいと思っていたのであるが、それをするためには、まず中庭の掃除と、廊下の雑巾がけをしなければならず、その間に、水穂さんが何をしているか気になった。水穂さんは、動けるときにはピアノの練習をしたり、ときにはピアノのレッスンを、利用者やその他の人にさせたりするときもあるが、その相手になるのはほぼ女性であった。まあ、製鉄所の利用者が女性ばかりなので、それは仕方ないことかもしれないけれど、水穂さんは、他の女性に優しすぎる気がした。ときには、杉ちゃんという人が連れてきた、二匹の歩行が不能なフェレットに餌を食べさせたり、抱っこしてあやしたりすることもある。水穂さんは、フェレットにまで面倒見が良いという評判であった。全く、そこまで、女性たちやフェレットにまで面倒を見るんだろう。そんな事しなくても、もっと自然にしていればいいのになと今井美子さんは思うのであった。なんだか水穂さんは、他の女性やフェレットに、従わされているだけのような気がする。

「今日は私が、水穂さんの昼ごはんを作ります。何を食べたいのか、おっしゃってください。」

やっとその日も、中庭の掃除と廊下の雑巾がけを終えて、美子さんは、水穂さんの下へ行った。水穂さんは、えらく疲れてしまったみたいで、布団に横たわったままだった。一体この人、なんでこんなにつかれた顔をしているのかなと、彼女は、考え込んでしまった。

「水穂さん、何を食べたいか言ってくださいよ。あたし、何でも好きなものを作りますよ。こう見えても、料理の通信講座とか受けたんですから。」

そう美子さんは言うのであるが、水穂さんは、布団に寝たまま激しく咳き込んだ。美子さんが大丈夫ですかと声をかけようとすると、返事の代わりに朱肉に似た色の赤い液体が水穂さんの口元から溢れた。美子さんは思わずきゃあと言ってしまったのであるが、

「あ、またやったな。もうこうなるから困るんだよな。ちょっとまってて。」

杉ちゃんが、直ぐそれに気がついてくれたので美子さんは、救急車を呼ぶべきなのではないかと言ったのであるが、杉ちゃんは、そいつは無理だといった。せめて医者に見せるべきだと、美子さんが言うと、ここへ電話してくれと言われた。美子さんは見せられた番号に電話をすると、はいはいと声が聞こえてきて、直ぐに切れてしまった。美子さんが何がなんだかわからないという顔をしていると、

「こんにちは。」

と、一人の老人の声がした。誰だろうと思ったら、柳沢裕美先生だった。茶色の着物を着て、白い被布を身に着けた先生は、医者というよりなんだか茶人のような感じがして、とても医療従事者には見えなかった。

「ああ、来てくれた。よろしく頼みまっせ。今日も、大量で困ったものだ。」

杉ちゃんに言われて、柳沢先生は、水穂さんの近くにやってきて、風呂敷包みを開けて、重箱を出した。そして、持ってきた粉薬を、水穂さんの枕元においてある水のみにいれて、水で溶かした。そして、まだ、咳き込んでいる水穂さんに、どうぞといった。何でも、鎮血の薬だと言うことである。水穂さんはそれを受け取って、静かに薬を飲んだ。飲んでしばらくは咳き込んだままだったが、そのうちだんだん静かになっていき、咳き込むのは止まってくれた。と同時に、薬には眠気を催す成分があるのか、水穂さんは静かに眠り始めてしまった。それを柳沢先生は、静かに掛ふとんをかけてくれた。

「どうもありがとうございました。まあ今日も派手にやりましたが、いつものことですから気にしないで行かなくちゃね。直ぐに薬を頂けて嬉しいです。」

と、杉ちゃんがいうと、

「だいぶ、発作の数が増えてきましたな。大変だと思うけど、頑張ってくださいよ。」

と、柳沢先生が言った。なんだかその言い方が、あまりに客観的すぎるというか、傍観者のような感じであった。美子さんは驚いてしまって、何も言えなかった。

「まあねえ。今の時代だから、色々選択肢はあるんだろうけどさ。でも、それが選べないというのは、ちょっと難しいね。ショパンが生きていた頃とは違うといっても、人種差別はなくならないからね。」

「まあどこの国でも人種差別されている民族はいますからな。水穂さんが、今の医療を受けられないのは仕方ないことにして、できるだけ楽にしてもらえるように、僕らも頑張らなければ。」

杉ちゃんと柳沢先生はそう言っているが、美子さんは、なんだか納得行かなかった。

「一体どういうことなんでしょう。なんだか、水穂さん、放置されているみたい。なんか、しっかりと医療を受けていないというか、そんな気がしてしまうわね。だって、水穂さんだって、直ぐになんとかなるものでしょう。今の医療だったら。こんな、変な医者に頼るよりも、抗生物質とか、そういうものがちゃんとあるでしょう?」

「そうなんだけどね。」

美子さんに、杉ちゃんは直ぐに言った。

「まあ、それは、同和地区の出身者の事を知らない奴らが言う言葉だよな。」

「そうですね。若い方は、すぐそういうのですけど、それができない方もいらっしゃいますよ。日本の法律では、かばいきれないところもありますよ。ただ同じ日本人同士であるということが、ミャンマーとは違うところかな。日本人は、みんな同じと思いがちですが、意外にそうでは無いことは、どこでも教えてもらえませんからね。そういうリアクションされても仕方ないでしょう。それは、実際に体験してみないと身につかないですね。」

柳沢先生と杉ちゃんは、そういう事を言っている。ということは、放置していて当たり前なのかと、美子さんは思ってしまった。それと同時に、なんだか怒りも湧いてしまった。

「そんな事、どうして放置できるんです!今の世の中なら誰でも見てもらうことができると思うけど、それをしないあなた達のほうが、水穂さんの事を、虐待しているしか見えない。」

「まあそうだけど、そこら辺は同和問題の事をもうちょっと勉強したほうが良いな。変に正義感振り回していると、返って大損をすることもあるんだよ。」

杉ちゃんがそう言ってくれるけれど、美子さんは不満が爆発してしまった。

「それに、この事業所は、何なんです。なんだか、表向きは良いことなのかもしれないけど、それは返って、働けない人を甘やかしてるだけなんじゃないですか。あの、笛吹の喋れない子だって、本当は、外へ出られるように訓練して上げるべきでは無いのでしょうか?」

「そうだねえ。でも、彼女のことは、多分かえられないと思うよ。それはしょうがないじゃないか。僕も、立とうと思ったって、どうしてもできないもん。そういうふうにねえ、どんな力があったって、できないことは、いっぱいあるんだよ。」

「若い人は、いいですね。そういう正義感があって。我々も年をとってくると、無常観に浸ることが多くなってしまって、困りますよ。まあ、誰でもそうなりますけど、世代と世代で考えを話していくことは、日本人は苦手なようですな。」

杉ちゃんと柳沢先生がそう言ってくれたのであるが、美子さんは、どうして、と思ってしまうだけであった、全くこの事業所はよくわからないところが多い。というか、ただ場所だけ貸してるだけだし、水穂さんのような人を、治療もしないで放置させているとしか思えなかった。

「じゃあ、僕は帰りますが、また水穂さんに何かあったら、いつでも連絡よこしてくださいね。お願いしますよ。」

柳沢先生は、重箱を風呂敷で包んだ。そして、では御免遊ばせと言って、製鉄所を出ていった。美子さんは、廊下を歩いていく柳沢先生を眺めながら、なんておかしなところに来てしまったのかと、自分でがっかりした。

その次の日。美子さんは、気合を入れて製鉄所にやってきた。あの人達のしていることは絶対間違っている。だから、なんとかしなくては。そう思って、今日は、栄養のある食材、例えばほうれん草とか、ちりめんじゃこなどを大量に買って製鉄所に行った。杉ちゃんが、冷蔵庫に食材はあると言ってくれたが、美子さんは持ってきた食材があるから良いと言った。そして、直ぐに食材を洗って、包丁で切り、炊いたご飯と、ブイヨンの汁をあわせて煮込み、雑炊を作った。そして、それをお皿に乗せて、水穂さんの部屋まで持っていった。

「さあお食事ができましたよ。今日は、ほうれん草とちりめんじゃこの雑炊ですよ。体に良いものばっかりよ。たくさん食べてください。」

いきなり食事を持ってこられた水穂さんは、少し驚いた様子であったが、ちょっとふらふらした感じで、布団の上に座った。そして、サイドテーブルに乗ったお皿を見て、すみません頂きますとご挨拶をして、お皿の中身を口にしてくれたのであるが、同時に偉く咳き込んでしまい、どうしても食べることができなかった。ただ、お茶を飲んだり薬を飲んだりしているから、飲み込めないという問題でもなさそうだった。何回もご飯を口へ持っていこうとはしているのであるが、口に入れると同時に偉く咳き込んで吐き出してしまう。その繰り返しだった。そんな事を10回くらい繰り返した。

美子さんの目にボワンと涙が浮かんだ。その理由はよくわからないけれど涙が浮かんだ。どうしよう。そんな気持ちばかりが、浮かんでくるのだった。

すると、いきなり、ふすまがガラッと開いた。誰だろうと思ったら、美子さんが喋れない女性としてバカにしていたあのパクパクさんこと、鹿島一華さんだ。パクパクさんは、強引に美子さんの手を引っ張って、彼女を中庭に連れて行った。もちろん、彼女は喋れないから、なにか説明があるわけでも無いけれど、それでも中庭に連れて行った。そして、中庭にある石燈籠を指さした。美子さんは、何を意味するのかよくわからなかったけど、ちょうど、石燈籠の真上に黒雲が覆っていたが、それと同時に、そこから光がさしこんできて、石燈籠は、太陽の光で黄色っぽくなった。そして、澄み切った青空と一緒に美しく雪を被った富士山が顔を出した。美子さんは、それを眺めて、パクパクさんこと、鹿島一華さんが、何を伝えたかったのか、分かったような気がした。

「ごめんなさい。あたし、あなたのこと、バカにしていたというか、そんなに優しい方だったというのは、気が付きませんでした。ありがとう。」

美子さんがそう言うと、パクパクさんは、にこやかな笑顔で首を降った。

「本当にありがとうね。」

美子さんは、彼女の手を握って、丁寧にお礼をした。美子さんはまた勇気を出して、水穂さんのところに戻り、

「さあ水穂さん。」

と、今度はにっこりして、水穂さんに雑炊の器を差し出した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

石燈籠 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る