第9章:上品な母親
浩一郎と約束した土曜日の朝、何となく茜は寝起きが良くなかった。予定していた時刻よりも30分ほど遅れて布団を出た。外は生憎の雨が降っており、傘をさす必要があると思うとげんなりした。台所の食パンをトースターに入れて3分のところまでタイマーを回して、冷蔵庫からマーマレードジャムを取り出した。
前日の仕事の帰り際に待ち合わせ場所と時間を浩一郎と話したときに、茜を家族にも紹介したいと言われていた。だから、今日は勝気な茜は少しの時間封印しなければいけないと思っていた。なるべくおしとやかに、なるべく浩一郎を立てて、そんなことを思うと少し窮屈に茜は感じていた。
浩一郎の実家は、浅草駅から歩いて10分ほどのところにあった。会社と家の往復くらいしかしたことがない茜にとっては、浅草の町並みは新鮮なものに映った。人の多さは仕事で慣れているが、古い文化と新しい文化が混ざり合うような独特の雰囲気に、雨降りの道でも少し頼もしく感じた。
大通りから少し外れた住宅街に、茜の家の近くのスーパーの系列店があった。待ち合わせはそこですることになっていた。一応手土産くらいは買ったほうがいいと思った茜は、贈答品のコーナーでカステラを1本購入して、紙袋をもらってそれに入れた。ツルツルした開けにくい袋は雨避けには最適だった。スーパーの建物の角にある公衆電話のところで雨宿りをしながら浩一郎を待っていると、後ろから『茜さん!』という聞きなれた声が聞こえた。
どうやら浩一郎の実家はスーパーの裏にあるらしく、買い出しが楽だとか、昔母親がパートで働いていたとかたわいもない話を浩一郎がしていた。しかしながら、浩一郎が差してくれた傘に二人で収まってはみたものの、微妙な距離感から右ひじが雨に濡れることのほうが茜は気になっていた。スーパーの駐車場を出て左に曲がるとすぐに浩一郎の実家が見えた。なんてことない普通の建売住宅だ。亡くなったお父さんが地主だったこともあり、近くにあるアパートはお母さんが大家をしているとのことだった。
『どうぞ』
全体的には黒いペンキが塗られているが、所々茶色く錆が目立つ門を開けて浩一郎と茜は庭に入った。近くで見ると、よく手入れがされており、ガーデニングは母親の趣味だろうと思われる可愛らしい植木鉢が並んでいた。
玄関のドアを開けると、上品なカーペットが目についた。家自体はどこにでもあるような日本の住宅に見えたが、内装は洋風の装飾や置物が目立っていた。おそらく母親の趣味なんだろうと茜は思った。
『あら、いらっしゃい。立花さんね。浩ちゃんがいつもお世話になってます。』
奥の台所らしきところから顔を覗かせたのは浩一郎の母親だった。自分の息子に『ちゃん付け』で呼ぶのはどうかと思ったが、チェーン付きの眼鏡をかけて、上品な茶色に染められた巻髪が胸のあたりまで伸びて、花柄のエプロンをつけた50代くらいの女だった。パタパタとスリッパの音をさせながら、浩一郎の母親は玄関まで迎えてくれた。
『つまらないものですが』
茜はできる限り上品な口調を心掛けながら、さっき買ったばかりのカステラを母親に差し出した。『あら、お気遣いのできる素敵なお嬢さんね』母親はまんざらでもない様子で、『あそこのスーパーのカステラ美味しいのよねぇ』と皮肉を言ってきた。茜は少しイラっとしたが、初対面なので顔に出ないように必死で奥歯をかみしめた。
『母さん、お茶と一緒にカステラ出してよ。』浩一郎は台所へ母親を退散させるためにうまく立ち回った。『ごめんなさい。うちの母さんちょっと嫌味なところがあるから。気を悪くしないでください。』浩一郎は小さな声で茜にそう囁いた。
『大丈夫よ。私も営業だからさ。』茜も小さな声で浩一郎に答えた。
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