第6章:すぐそこに迫る影の正体
林巡査に先導されながら茜は自分のアパートへのゆっくり歩いた。いつもは少しでも早く帰りたい一心で速足(はやあし)で歩くのだが、今はそういうわけにもいかない。いつも通っている道にも関わらず、まるで始めてきた道かのようにあたりに警戒しながら、ゆっくりゆっくりと歩いた。『大丈夫ですか?』と背中越しに林巡査が声をかけてきたが、『ハイ』と返事をすることしかできなかった茜だが、『彼氏さんとも別れなきゃいけなかったなんて大変でしたね。さすがに犯人の行動がエスカレートしていますね』と林巡査は続けた。
林巡査の話はほとんど聞いてなかった茜だが、先ほどの男の影を思い出して妙な不安と違和感に駆られた。それでも、今は林巡査が自分の前を歩いてくれていることだけが心の頼りだった。
家に着くと林巡査は茜のアパートの部屋の玄関まで来たところで、『戸締りはしっかりしてくださいね。何かありましたら交番に電話をしてください。交番から連絡を受けて私が駆け付けますので』そう茜に告げた。『ありがとうございます』と深々と御礼をして茜はバタンッっと玄関の扉を閉めた。
やっとの思いで自宅に帰ってきた茜は交番に行くときに化粧をしていなかったことを思い出して、少し恥ずかしい気持ちに駆られた。ただ、夜だったこともありそんなことはどうでもいいかと、いつものカラッとした茜の性格が出ていた。それはそれで、ある程度気持ちが落ち着いた証拠だと茜自身も感じていた。その晩は特に何もなかったので、23時を回ったくらいに茜は布団で眠りに落ちた。
次の日も仕事から帰ると交番に立ち寄り、林巡査に同行を頼んだ。
昨日と同じように林巡査は自分の前を歩いてくれた。
『それでは、何かありましたら交番まで』
林巡査はそう告げると昨日と同じように近所をパトロールすると話した。
茜が鞄をテーブルに置き顔を上げた瞬間、『あ!!』と声を上げた。相当大きな声だったのか、まだアパートの敷地を出た位に居た林巡査が戻ってきて、玄関越しに『どうしました?立花さん?』と声をかけた。茜は玄関のカギを開け、チェーンロックを外して林巡査を迎え入れ、悲鳴を上げた理由を話した。
それは、朝は間違いなく閉めたはずのーーそもそも最近は開けてすらいないはずのカーテンが開いていた。それだけではなかった。自分の衣装箪笥が荒らされており、辺りには下着が散乱していたのだ。見る見るうちに茜の表情は強張りガタガタと震え始めた。
状況を理解した林巡査は『少し待ってください』と告げその場で無線で交番に連絡を取った。今目の前で起きている事を説明し、本部に了解を取ってほしい旨話していた。実害を現認したので、期限が来るまでの残り数日、茜の要望次第では自宅で一緒にいてくれるということ、茜の仕事中は見回りを強化することなどを連絡していた。本部の了承が取れたようで、『しばらくは安心できると思います。』と林巡査は茜に話した。『そ、そうですか・・・』と茜は返事をしながら、さすがに林巡査と言えども自分の下着が見られるのは憚られるので、手早く片付けた。
林巡査は無線を終えると、『どうなさいますか?少しの時間ご一緒しましょうか?』と茜に促した。しかしながら自分の下着を見られた男性が同じ空間にいるという恥ずかしさに耐えられなかった茜は『また何かありましたら交番までご連絡させていただきます。お気遣いいただきありがとうございます。』と丁寧に御礼を述べ、『良かったら』と冷蔵庫にあったシュークリームを林巡査にふるまった。
次の日も茜は仕事を終えると交番まで出向き、林巡査に自宅までの帰路を同行してもらうよう依頼した。自宅までたどり着くと、『今日はどうされますか?ご一緒しますか?』と林巡査は茜に尋ねた。茜は今日も丁寧に断ると玄関のドアを閉めた。
またその次の日も交番に行こうとすると、林巡査が掲示板で待っていたので、家までの数分を同行してもらったが、明日で警察の警備も一旦期限を迎えることに茜は大きな不安を感じていた。『皆さんに警備をしてもらってから、茶封筒も届かなくなったんですが、またいつもの生活に戻ったら、それも同じようにまた続くんじゃないかって不安で・・・』茜はうつむきながら林巡査に相談した。
『大丈夫ですよ』
林巡査はいつもと同じような足取りで、茜の歩幅に合わせながらそう言った。
『今日は一応明日が最終ということもあり、窓の外を確認させていただきたいのですが大丈夫でしょうか?』林巡査は薄い青色をしたバインダーにまとめた書類を手に持ちながらそう言った。『はい、お願いします。』茜がそう答えると、林巡査は無言のまま、いつものようにアパートの階段を上がっていった。茜が玄関のドアを開けると、『それじゃあ、窓と玄関、それから念のためお手洗いの窓、これらが外部からの侵入経路になると思うので、戸締りの具合や鍵の形状を記録させてもらいますね。』と林巡査は仕事を始め、茜にはトイレの点検が終わったら声をかけてほしいと告げ、着替えを促した。
茜が着替え終わり林巡査に声をかけると『では、次は玄関ですね』と言って、玄関の調査を始めた。茜は警備の期限が終わってしまうことを考えると不安になり母親に電話したが、どうやら母は出かけているらしく電話は繋がらなかった。
『では最後に窓を確認させてください。』
手際よく林巡査が仕事を終えるので、全てのチェックまで、そう長い時間はかからなかった。茜はさすがにまたシュークリームではバツが悪いと感じたのか、お茶菓子とコーヒーを淹れ、『全部終わったら召し上がってください』と林巡査に声をかけた。『ありがとうございます。』林巡査は小さく敬礼しながら言った。
と、その時、茜の家の電話が鳴った。
少しビクビクしながら出てみると、茜が住むアパートの大家さんからの電話だった。
『あぁー・・・立花さんですか?警察からお話窺ってますよ。色々と大変みたいですね。大丈夫ですか?』警備を始めてからもう数日が経つが、遠方に住んでいる大家さんがようやく話を聞きつけて心配して電話を寄こしたのだ。
『はい。警察の方に色々とお世話になりまして、大事には至ってないです。』茜は答えた。
『そうですか。それは良かった。合鍵も警察の方に送ってあるので、何かあればすぐに駆け付けてくれると思うんですがねぇ。』大家は言った。
『合鍵・・・?それはいつのことですか?』茜は少し声を落として聞いた。
『えぇーっと、4・5日前ですよ。ほら、窓から人が覗いてたとかで、立花さん、夜に交番に行ったでしょ?その次の日に警察から電話をもらってね。捜査協力して欲しいってことでお電話もらったんですぐに車で届けたんです。・・・名前は、林・・さんだったかな。』
茜は受話器を落とした。気にしないようにしていた違和感と大きな不安が茜の中で全て繋がったからだ。それと同時に、背後にかすかな息遣いが聞こえ、恐る恐る振り返った。
そこには、林巡査が仁王立ちしていた。
『まさか、あなたが・・・』茜は今にも途切れそうな弱弱しい声で呟いた。目には涙を浮かべ、歯をガタガタと震わせながら、小刻みに揺れる右手で林巡査を指さした。
『アハハ。やっと気づきましたか。いやー、時間が掛かりましたね。一目見た時からね、綺麗な方だなって思ったんです。僕はあなたがお仕事でここに住むことになったくらいから、ずぅーっとあなたの事を見ていたんですよ。』林巡査は、ニタニタしながらゆっくりとした口調でそれでいて紳士的なふるまいはそのままに、茜と距離を取って薄い青色のバインダーを持ちながら言った。
『いやー、長い黒髪に小さな顔、女性らしい体つきにタイトスカートはお似合いですよ。まるでショーケースに並べられた美少女フィギュアそのものじゃないですか。アハハッ!アハハッ!ハーハハハッ!!』林巡査が持っていた薄い青色のバインダーがガサっと床に落ちると、茜を隠し撮りした写真があたりに散らばった。通勤途中の写真、買い物をする写真、部屋で着替えをしている時の写真まで、そこには、まざまざとストーカーの仕業が散らばっていた。
『この辺じゃ珍しいあのキーホルダーをまさか律義にバッグに付けてるんですから。あなたが居るとすぐに分かりましたよ。我ながらあれは傑作でした!アハハハッ!』
『変態!アンタが犯人だったんだね!今すぐ交番に行ってやるから!』茜は泣きそうな金切り声で林巡査に言い放った。
『おかしいと思ったんだ!夜中に交番に駆け込んだ時、彼氏の話はしてなかったのにアンタはそのことを口にした。一番最初に交番に相談に行った時も、不審な男性としか言ってないのにバンダナの色を聞いて来たり、アンタは交番から私を見ていたからその場にいた男性の事も見ていたってことでしょ!!!?』
茜は近くにあった箒を持ちながらそう言った。箒を振り回して林巡査を牽制しながら、茜は玄関のドアへと近づいて行った。テーブルを挟んで向こう側にいる林巡査に箒を投げつけた瞬間、急いで玄関のドアから出ようとサンダルを履いた。
ガタッ、ガタガタ、ガタンガタン
なぜか鍵が開かない。『なんでよ!!?』茜は叫んだ。後ろには林巡査が迫っていた。振り向くと帽子を取った林巡査の姿があり、『もう逃がさないよ・・・』と呟きながら、茜の首筋に両手を回してきた。さすがにもうダメだと思った茜は抵抗することもできず、林巡査に引きずられながら、ガタガタと震え、涙で顔はグチャグチャになっていた。
『僕はね、フィギュアが大好きなんですよ。だから、傷つけたりはしたくないんです。でも、自分のショーケースに飾りたいという欲求はもちろんあるわけで』そう言いながら、林巡査は茜の髪の匂いを嗅いだ。『いやー、本当にアニメのヒロインみたいだ。こんな女性が世の中にいるとは・・・』林巡査はなおも震える茜の顔を自分のほうへ向けてそう言い放った。
『気持ち悪いな!離してよ!!』
茜は林巡査の腕を振り解こうとするが、さすがに警察官だけあって力が強く逃れられなかった。
『フィギュアが喋っちゃだめですよ。かわいいポーズでニコッと笑ってないと・・・ハハハッ。今日は何色の下着にしましょうか。赤がいいですか?白がいいですか?茜さん、ピンクは持ってなかったですもんね?フフフ、ハハハハハハッ!!!』そう言いながら林巡査は茜の服を脱がそうと、羽交い絞めにしていた腕を一瞬緩めた。最後の賭けに出た茜は、ふいの隙をついて力いっぱい林巡査の股間めがけて自分の足を蹴り上げた。
『ガッ!ウグ!ウウゥゥゥゥッ・・・』
林巡査はその場にうずくまった。何かブツブツ言っていたがそんな事はどうでもよかった。茜はカーテンを引きちぎり、上半身に被せてそのまま窓を突き破った。玄関が細工されているのなら窓も当然同じだと思ったからだ。ガラスが大きな音を立てて割れ、茜は裏通りへ飛び出した。裸足のまま交番へと走り当直の警察官に助けを求めた。警察の急行により林巡査は暴行と不法侵入等の現行犯で逮捕された。
警察の調べによると林は、茜が仕事を始めて1か月が経ったくらいからずっと茜をストーキングしていたとの事で、林の自宅には茜の写真はもちろん、ビデオテープや茜そっくりに自作されたフィギュアが所狭しと飾られていた。また、数点の茜のものと思われる下着や衣服も見つかったそうだ。どうやら奥さんとも別居していたようで、その異常性に誰も気付く事が出来ない状況だったという。
勤務態度は真面目だったものの、今回の一件で懲戒解雇となり、別居していた奥さんとも離婚。裁判を受けて、懲役に服したとのことだった。
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