十八、覚醒〈一〉

 宵珉シャオミンが湖に落ちた数秒後。


「は……?」


 目を開くと、視界に広がるのは水中ではなく、見知らぬ鍾乳洞のような場所だった。宵珉シャオミンはゴツゴツとした地面に尻もちをついている状態だ。


「俺、湖の中に落ちたのに……」


 宵珉シャオミンは足を滑らせて思い切り湖の中に落ちたはずだ。その証拠に髪も深衣も濡れていて肌寒い。


「ええ〜、こんなところあったっけ?」


 宵珉シャオミンは立ち上がり、辺りを観察する。

 天井や壁からは独特な形をした鍾乳石が垂れ下がり、地面には至る所に水溜まりがある。そして、灯りが無いため全体的に薄暗い。まるで、夕焼けの世界に飲み込まれたようだ。


 自分のプロットを思い返してみても、秘境の中にこんな空間を作った覚えはない。湖の中に入ると鍾乳洞に繋がっているという設定もない。つまり、ここは世界特有の代物だ。


「どうやって脱出しよう」


 宵珉シャオミンはまだ転送術を身に付けていないため、瞬間移動などで抜け出すことは叶わない。


「誰かに助けに来て……あ! 苓舜レイシュン!」


 そこで、宵珉シャオミンは先程まで通信していた苓舜レイシュンのことを思い出し、こめかみに指を添えて目を瞑る。


「師兄!! 聞こえますか!?」


 しかし、何度試してみても返事は返ってこない。宵珉シャオミンの声が届いていないのだ。

 

「出口を探すかぁ……」


 秘境において、別の空間同士が連結している特殊なエリアはたまにある。ここも脱出不可能な密空間ではなく、どこかに元の場所へ戻る出口があるはずだ。


「なんてツイてない……!」


 今は交流会の真っ最中だ。まだ十点しか取れていないのは悲しすぎる。

 宵珉シャオミンは自分を鼓舞して、出口を探して歩き回ることにした。


「……果てしないな」


 宵珉シャオミンは水のない足場を探しながら奥へと進んでいくが、いくら歩けどもキリがない。この鍾乳洞はどこまで続いてるんだ。


 宵珉シャオミンは迷わないように壁に手を付きながら、歩いていく。時折風が吹いてくるので、身体がどんどん冷えていく。


「……っ!?」


 そして、ある一点に足を踏み入れた瞬間、宵珉シャオミンは固まってしまう。


(とてつもない霊気だ……殺気さえ感じる)


 突然こちらに向かってきた殺気に、宵珉シャオミンは息を詰まらせる。首筋に詰めたいナイフを当てられたような、そんな感覚だ。


 宵珉シャオミンは唇を噛み締めながら、恐る恐る奥に視線を向ける。

 すると、暗い闇の中から、大きな影がこちらに向かってくるのが見えた。カツン、カツンと足音が響いてくる。


(やばいやばいやばい! 宵珉シャオミンよ、これはまずいぞ! なんでこんなやつがここにいるんだ!?)


 宵珉シャオミンの脳内には警報が鳴り響き、今すぐ逃げろと訴えてくる。絶体絶命の状況に焦りまくりだ。

 しかし、この場を支配する威圧感に、宵珉シャオミンは一歩も足を動かすことができない。

 

 影は着実に、宵珉シャオミンの方へと近づいてきていた。姿はよく見えないが、明らかにヤバそうなオーラを醸し出しているのが分かる。


(間違いなく高ランクの妖魔だ! なんでここにいるんだよ! またバグですか!?)


 一方的に放たれる霊気は、小物とは一線どころか十線を画していた。


(今の俺じゃあ、倒せない……!)


 宵珉シャオミンは死を悟る。

 転生してから今日までの間で、かなり強くなったと自負していた。事実、イェン派の新入りの中ではトップクラスの実力はある。しかし、それでもまだ築基期だ。


 推測するに、苓舜レイシュンのレベルになってようやく、この影と互角にやり合えるほどだ。生き延びる確率は極わずか。餐喰散サンハンザンの前に、こんな難関が待ち受けていたなんて。


「貴様、我の許可なく領域に侵入するとは何者か」


 低い地ならしのような声が耳を突く。妖魔がすぐ側まで来ていた。


(言語能力がある上にこの様相は……やっぱり高ランクの妖魔だ……!)


 その妖魔は人型をしていた。額に二本の角が生え、腕が四本ある。さらに長く太い尾が伸びており、ぐるりと足元に巻きついている。宵珉シャオミンの知らない妖魔だ。


 蛇のような鋭い琥珀の瞳が宵珉シャオミンを捉え、「ひゅっ」と喉が鳴る。妖魔は背丈が高く、見下げられるために、より一層高圧的に感じられて背筋が凍る。


「まぁよい。人間を喰らうのは久々じゃ。我の養分にしてやろう」

「っ……」


 妖魔は腕をひとつ伸ばし、宵珉シャオミンの顎下を指先で掬う。尖った爪が皮膚に当たって、ちくりと痛む。


「いい面をしておる。勿体ないが、ちゃんと骨まで吸収してやるからのう」


 妖魔は「ははは」と妖しげに笑い、宵珉シャオミンを舐めるように観察する。


(逃げないと……!)


 宵珉シャオミンは体内の霊力を足に集中させる。

 そして、意を決して後ずさったその時。


「逃がさぬぞ」

「かは、っ……!!」


 宵珉シャオミンは目を見開いて、口から血を吐き出す。妖魔の腕に胸を貫かれたのだ。


「フフ、痛いか?」


 激痛が全身を伝い、視界が暗くなる。胸を貫く腕を引き抜こうと両手で掴むが、力が入らずビクともしない。妖魔はけたけたと不気味な笑い声をあげて、藻掻く宵珉シャオミンの様子を楽しんでいる。


(死ぬ……!)


 そう思った瞬間、宵珉の身体の中で何かがドクリと蠢いた。痛みとは違う妙な苦しみが宵珉シャオミンを襲う。


「な、んだ……?」


 胸が、心臓が痛い。失血が進んでいるはずなのに、ドクドクと血が全身に駆け巡る感覚がする。


「はぁっ……はぁ……」 


 身体が燃えるように熱い。視界も暗く、息も荒い。今にも破裂してしまいそうなこの切迫感。


「ぐぁぁああああっ!!!」


 突然、全身が張り裂けるような痛みに襲われて、宵珉シャオミンは首をのけぞらせて叫ぶ。


「なっ!?」


 豹変した宵珉シャオミンに、妖魔は驚いて腕をズルっと引き抜く。同時に、血が地面に飛び散り、赤く染る。


「なぜ回復しておる……!?」


 妖魔は退き、宵珉シャオミンの胸を見て叫んだ。つられて、宵珉シャオミンも自分の胸元を見ると、信じられないことに穴が塞がっていっていた。


『殺せ』


 どこからか、声が聞こえる。魔力を解放しろと囁くあの声と同じだ。


(俺が死ぬ前にコイツを殺さなければ……)


 宵珉シャオミンはよろよろと妖魔に向かっていく。

 視界が赤く染まって、過激な防衛本能が脳を支配していく。まるで何者かに操られているかのように制御が効かない。


「その姿は……まさかそんなはずは……!」


 宵珉シャオミンを見つめる妖魔の顔に恐怖の色が浮かぶ。黒く鋭い瞳は驚愕に見開かれ、大きな鬼の足がジリ、と後退る。


「お、お許しを……っ!!」


 妖魔は慌てふためきながら懇願するが、宵珉シャオミンの耳には入ってこない。聞こえるのは『殺せ』と囁く声だけだ。

 宵珉シャオミンは腰に提げた長剣を引き抜く。そして、次の瞬間には妖魔を真っ二つに切り裂いていた。


◇◇◇


 宵珉シャオミンが湖に落ちた時、秘境の外側にて。


宵珉シャオミン、何かあったのか? 宵珉シャオミン?」


 苓舜レイシュンはこめかみを押さえて声をかける。その表情はいつにも増して険しい。


苓舜レイシュン、どうかしたのか?」

「私の弟弟子から信号があったのだが、途切れてしまった……」

「それはおかしいな。秘境内で途切れるはずがないのに」


 苓舜レイシュンが困ったように話すと、緋揺フェイヤオは腕を組んで考え込む。


「……緋揺フェイヤオ、すまないが監督を任せてもいいだろうか」

「構わないよ。ここは俺に任せて」

「頼んだ。できるだけ早く戻ってくる」


 緋揺フェイヤオが快く頷いてくれたことに感謝し、苓舜レイシュンは門を通って秘境の中へと入っていく。

 途切れるはずのない信号が止まったということは、なにか異常事態が起こったということだ。緊張感が走り、手が汗ばんでいく。


宵珉シャオミンの信号は……」


 脳内に残された信号を頼りに、宵珉シャオミンが居た場所を探っていく。どうやら、入口からかなり離れたところまで進んでいるようだ。


「無事でいてくれ……」


 自分で思っていたよりも、宵珉シャオミンのことを大切に思っていたらしい。

 秘境にいる妖魔は人間を殺してしまえるほどの力はない。そう分かっていても、あの少年に対する心配がどんどん募っていく。


 やがて、秘境の中を走り抜けていくと、小さな湖に辿り着いた。そこは切り開かれており、濁った湖があるだけで他には何もない。


 しかし、宵珉シャオミンの信号はここで途切れていた。微かに戦闘の痕跡も感じられる。


「妙だな」


 周囲を探っても、宵珉シャオミンの気配はない。怪我をして倒れているのかもしれないと思い、木の裏や岩陰を確認するが、宵珉シャオミンの姿はどこにもなかった。


 付近を探し回り、もう一度湖の正面に戻ってきたその時。


「なっ……!?」


 沼の中からとてつもない霊力が放たれ、同時に苓舜レイシュンの身体へと痺れが伝わってくる。

 その息苦しさに苓舜レイシュンは手で胸を押さえて、荒い息を零す。


(この霊力は、まさか……!)


 苓舜レイシュンはハッとして、沼に視線を向ける。濁りきっていて、底の深さも中の様子も全く分からない。

 しかし、苓舜レイシュンは湖の方へと一歩、また一歩と足を踏み出していた。


 やがて、苓舜レイシュンの片足が湖の中へと沈む。その瞬間、感じたのは水圧ではなく浮遊感であった。

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