十九、覚醒〈二〉

 苓舜レイシュンは鍾乳洞の中を走っていた。湖が媒介となり、異空間へと繋がっていたのだと推測する

 奥の方から漂ってくる身の毛もよだつほどの霊気……これは魔力だ。


(そして……)


 苓舜レイシュンはギリッと奥歯を噛み締める。


 しばらく走っていると、遠くに人影が見えた。この魔力はあの人影から感じるものだ。

 苓舜レイシュンは歩みを弛めて、静かに近づいていく。人影が鮮明になるにつれて、苓舜レイシュンの鼓動が速まっていく。


 人影は男だった。リン派の深衣に背に流れる艶やかな黒髪。記憶に残る忘れられない後ろ姿と酷似している。

 男は血に塗れた長剣を手に握り、足元を見つめている。苓舜レイシュンがその足元に視線を向けると、無惨な妖魔の亡骸が倒れていた。


 グチャ。

 苓舜レイシュンは水溜まりを踏んでしまい、、小さな足音が響き渡った。

 その音を聞いた男は、苓舜レイシュンの方へゆっくりと顔を向ける。


 男の赤い瞳が苓舜レイシュンを突き刺す。その瞬間、苓舜レイシュンの血が滾るのを感じる。


「仙人様……」


 苓舜レイシュンはその場で小さく呟いた。それは酷く幼い声色だった。

 苓舜レイシュンに呼ばれた男は僅かに瞠目し、そして苓舜レイシュンを見つめて呟いた。


「師兄」


 男に名を呼ばれた瞬間、苓舜レイシュンはハッとする。

 そして、止まっていた時が動き出したように、男の元まで駆け寄り、今にも倒れてしまいそうなその身体を抱きとめた。


宵珉シャオミン!」


 苓舜レイシュンがその名を呼ぶと、男の全身から力が抜け意識を失ってしまう。だらんと腕が垂れて、握りしめていた長剣がカランと地面に落ちた。

 苓舜レイシュンはギョッとして、男の首に指を添える。


「よかった……」


 脈は乱れているが、命に別状はない。気絶しているだけだ。


(……間違いない。姿は変わってるが、この青年は宵珉シャオミンだ。やはり、宵珉シャオミンは仙人様だったのだ)


 苓舜レイシュンは腕の中の男を観察する。艶やかな黒髪と端正な顔立ち。宵珉シャオミンと比べると背は高く、成熟した容姿をしている。

 その美しく妖艶な男は苓舜レイシュンの記憶の中にいる仙人様とそっくりだった。


 一方で、宵珉シャオミンの面影もある。数年経てば、彼はこの男になるだろう。

 肌で感じる魔力にも僅かに宵珉シャオミンの気が混じっている上に、先程の「師兄」という言葉……。それらが、この男は宵珉シャオミンであるだと訴えていた。


「仙人様、貴方は魔族だったのですね……」


 苓舜レイシュンは悲しげに呟く。

 魔力を持つのは妖魔か魔道を収めた修仙者のみ。どちらにしろ、修仙者とは相反する存在であり、特に後者は禁忌とされている。本来であれば、追放か死罪だ。

 しかし、苓舜レイシュンにはこの男をどうすることもできない。命の恩人であり、今は大事な弟子なのだ。


「まずはここから出なければ」


 話はそれからだ。男──宵珉シャオミンが目覚めてから詳しく問い詰めよう。


 苓舜レイシュンは気を取り直して、支えていた宵珉シャオミンの身体を優しく地面に横たえる。

 そして、指先に霊力を込めて宵珉シャオミンの周りに陣を描いていく。


 出口を探すよりも転送術で脱出した方が手っ取り早い。かなりの霊力を要するが、幸いなことに満ち足りている。


「よし」


 転送の陣を描き終えると、自身も陣の中へ入る。そして、手印を結んで「仙影移」と唱える。

 瞬間、眩しい光が苓舜レイシュン宵珉シャオミンを包み込んだ。


◇◇◇


 闇の中に立っている。ここには何もない。ただぽつぽつと赤い鬼火が浮かんで灯り、闇を照らしていた。


(ここはどこだろう)


 そんなことを考えていると、自分の手が湿っていることに気がつく。赤黒い血。あの妖魔の血で手のひらが濡れていた。


(そうだ! 俺はあの妖魔に胸を突かれて、それで……)


 思い出そうとすると、頭がズキリと痛み、宵珉シャオミンは額を押さえてギュッと目を瞑る。『殺せ』と囁く男の声が耳から離れない。


 ふと、下を向いたまま瞼を持ち上げると、宵珉シャオミンの立つ地面が揺れていた。いや、地面が揺れているのではなく、水面が凪いでいた。宵珉シャオミンは水溜まりの中に立っていたのだ。


 水溜まりの存在に気がつくと、宙を漂っていた鬼火が宵珉シャオミンを囲むようにして集まってくる。


「えっ……!?!?」


 そうして、水溜まりが明るく照らされた時、宵珉シャオミンはそこに反射した自分の姿を見て驚く。


「だ、誰!? 俺……!?」


 記憶の中にある自分の容姿と異なる人物が写っていたのだ。

 宵珉シャオミンはぺたぺたと輪郭を確かめるように、顔や腕を触っていく。


「なんか、声も若干低くなっている気がするんだけど……」


 宵珉シャオミンはもう一度水溜まりに視線を落とす。

 肩に流れる黒髪、鋭く強い紅の眼差し、真っ直ぐ通った高い鼻、薄い唇。細いながらに硬い筋肉、極めつけはこの世の全てを手にしたとでもいいたげな自信満々のオーラ……。


「妖魔王じゃん!?!?」


 そう、宵珉シャオミンの想像の中にいる妖魔王の姿によく似ているのだ。考えてみれば、器なだけあり宵珉シャオミンの今世での容姿も、まだ幼いが妖魔王の面影がある。


「まさか」


 宵珉シャオミンは焦燥に駆られて胸に手を当てる。そして、手に気を宿して、自身の中の封印された魔力を確かめる。


「……大丈夫だ。まだ封印されている」


 ほっと息を吐くと氷のように強ばっていた身体が緩む。魔力は依然として秘魔の紗に覆われており、封印が解けた様子はなかった。


「じゃあ、この姿は一体どういうことなんだ?」


 妖魔王が復活しかけているのか。あの妖魔に胸を突かれて殺されそうになり、その時に魔力が漏れ出てしまったのだろうか。

 たしか、傷口も全て塞がっていたし……。


「そうだ……あの後、俺が妖魔を殺したんだ」


 宵珉シャオミンがあの妖魔を殺したのだ。まるで何者かに操られているかのように、剣を引き抜いて、妖魔を真っ二つに切り裂いた。その光景が記憶として蘇ってくる。


 あの時、宵珉シャオミンの意思で動いているのか判別できないくらいに、脳がぼやけていた。

 きっと胸を突かれた時に、器が死なないようにと妖魔王の魔力が染み出てしまったのだ。そのために、宵珉シャオミンは妖魔王の姿に変身してしまったに違いない。


「ははあ、なるほどな」


 おかしな状況だが、小説ではよく見る展開だ。事実、宵珉シャオミンも『桔梗仙郷伝』の中で妖魔王の器には変身機能を搭載しようと思っていたのだから。


「待って、俺死んでないよな? ここは夢なのが……?」


 ひとつ解決したと思えば、またひとつ疑問が浮かんでくる。一体どうしたものか。


 宵珉シャオミンが頭を抱えていると、どこからか「宵珉シャオミン」と呼ぶ声が聞こえてくる。


宵珉シャオミン

「師兄の声だ……!!!」


 宵珉シャオミンは自分を呼ぶ声は苓舜レイシュンの声だと気づき、ぱあっと顔を明るくさせる。そして、暗闇の中、声が聞こえる方へと手を伸ばした──。

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