疲れた妻を労るのは夫の務め――2

 美風の部屋には、スポーツマンらしく、ダンベルやバランスボールがあった。しかし、ベッドシーツがパステルカラーだったり、カーペットが花柄だったり、可愛らしい小物があったりと、女の子らしさも同居している。


「じゃあ、お願いね」


 美風がベッドにうつ伏せになった。


 汗を流すためにシャワーを浴びたので、ゴールデンブロンドの艶髪つやがみはしっとりと濡れ、スノーホワイトの肌はほのかに色づいている。


 俺は生唾をのまずにはいられなかった。なにしろ、美風が身につけている水色のルームウェアは、下がショートパンツになっており、スラッとした生足が惜しげもなく披露されているのだから。


 俺にやましい気持ちはない。そのつもりだったのだが、悲しいかな、男の本能にあらがえず、自分のなかにむくむくと情欲が芽生えていくのを感じる。


 マズい……どうしても意識してしまう! さっき、やましい気持ちはないって宣言したのに!


 こんな状態でマッサージをして大丈夫なのだろうか? 美風の肌に触れても大丈夫なのだろうか? 俺は理性を保てるのだろうか?


 躊躇ちゅうちょしていると、美風が振り返り、俺の様子を目にして顔をリンゴ色にした。


「な、なに赤くなってるのよ」

「ちちち違うんだ! 悪気は一切ないんだ! ただ、その……男のさがと言いますか、やましい気持ちをゼロにはできないと言いますか……!」

「別にいいわよ」


 あせあせと言い訳を並べる俺に、いまだに頬を赤らめたまま、少しぶっきらぼうに美風が告げる。


「蓮弥になら、やましい気持ちを抱かれてもいい」

「っ!」

「ていうか……ちょっと嬉しいし」

「~~~~っ!」


 思いも寄らない告白に、悶絶するほかにない。


「は、反則だろ、そのセリフ」

「と、とにかく、あたしは気にしてないの! だから、早く!」

「わ、わかった」


 おそらくは照れ隠しのためにかす美風に従って、俺はマッサージを開始する。


「んぅっ!」


 はじめて早々、新たな問題に直面した。ふくらはぎを指圧した途端、美風の口からなまめかしい声が漏れたのだ。


「んっ! あ……い、いい……」

「ちょ……っ」

「はぅん! も、もっと強くぅ……」

「あの……言い方が……」

「気持ちいい……グリグリされるの、たまんない……っ」

「わざとやってません!?」


 叫ばずにはいられなかった。やってられなかった。こんな声を聞かされながら、平静を保てるはずがなかった。


 やかましいほどに心臓が音を立てるなか、美風が振り返る。


「わざとって、なにが?」


 美風はキョトンとした顔をしていた。俺の言葉の意味が、心の底からわからないような表情だ。


 無垢とも表現できるその顔を目にして、俺は口をつぐむ。


 い、言えない……美風の声がエロくて、理性がゴリゴリ削られているなんて、言えるはずがない……っ!


 葛藤する俺の姿を不思議に思ったのか、美風が小首を傾げた。


「蓮弥?」

「……いや、なんでもないんだ」

「そう? なら、いいんだけど」


 葛藤の末、俺は伝えないことを選んだ。自分の声がエロいなんて、自分の声が俺を欲情させているなんて、美風は知りたくないだろうから。


 俺の返答に目をパチパチさせて、美風が再び顔をうつむけた。そのリラックスした姿からは、微塵の警戒心も感じ取れない。


 美風は俺のことを絶対的に信頼してくれているのだ。己の身を委ねてくれているのだ。


 それなのに、これ以上欲情できるだろうか? いや、できるはずがない。していいはずがない。


 ここで手を出したら美風を裏切ることになる! 耐えろ、俺! 負けるな、俺! 集中だ! マッサージに集中しろ!


 言い聞かせて、俺はマッサージを再開した。


 相変わらず美風が艶めかしい声を上げるが、手指に意識を集中させることで、なんとかやり過ごす。


 ……ん?


 マッサージに集中したことで、俺はあることに気づき、同時に疑問を得た。


 美風の足、パンパンに張ってる。部活は長引いたけど、ここまでになるものか?


 眉をひそめ、美風に尋ねた。


「なあ、美風? 足がパンパンなんだけど、酷使してないか?」

「んんー……そのつもりはないんだけど、無意識にしてるかも」

「無意識に?」


 いぶかしむ俺に、「うん」と相槌を打ち、美風が打ち明ける。


「IH予選の一回戦であたるのが、条央じょうおうなのよ」

「……強豪だな」


 自分の声が重くなるのを感じた。


 無理もない。条央の女子バスケ部はIHの常連であり、何度も優勝したことがある、強豪中の強豪なのだから。


 一方の江信女子バスケ部は、IHに進んだことはあるものの、優勝したことは一度もない。条央は高い壁になるだろう。


「しかも、あたしのマッチアップ相手、エースなの」


 どこか固い声つきで、美風が続ける。


「悔しいけれど、いまのあたしじゃ勝てそうにない相手よ。だからこそ意識しちゃって、練習に熱が入ってるのかもしれないわ。自分でも気づかないうちにね」

「なるほどな」


 納得すると同時に不安を覚えた。なにしろ俺には、無茶な練習をした結果、膝を壊してしまった過去があるのだから。


 先ほどまで熱かった体が、急速に冷えていくのを感じる。


 もし、美風が俺みたいにケガをしてしまったら……。


 想像しただけで、鉛を流し込まれたみたいに胃が重くなった。


「美風の頑張りに水を差したくないけど、無茶だけはしないでくれよ?」

「大丈夫よ」


 たまらず心配する俺に、美風が振り返って微笑みかける。


「蓮弥を――蓮弥たちを悲しませることは、絶対にしないから」

「……頼むからな」

「うん」


 俺がケガをした経緯を知っているからだろう。美風の微笑みは、俺を安心させようとするかのように穏やかだった。





 それから二〇分ほどかけて、美風の足を入念に揉みほぐした。


「よし。こんなところかな」

「ありがと、蓮弥。だいぶ楽になったわ」


 俺がベッドから降りると、美風が起き上がり、「うーん」と伸びをする。


「また疲れたら言ってくれ。マッサージこれくらいならいくらでもするから」

「助かる」


 笑みとともに礼を言ってから、美風が顔つきを真剣なものにした。


「蓮弥」

「うん?」

「あたし、勝つから。絶対に勝つから」


 美風の瞳には静かな熱が宿っていた。さながら、青い炎のような。

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