正確な男

つき

短編

居間の壁に掛かっている、古ぼけた掛け時計の時刻合わせをするのが、この生真面目な男の、月に一度の楽しみだった。


踏み台を持って来て、古時計を取り外し、綺麗に水拭きをしてやる。


腕時計を見ながら、後ろのネジを回し、秒針をピッタリと合わせる。


微妙に位置を調節しながら、壁の元の位置に掛け直して、はい完了!


それだけで、部屋が見違える様にリフレッシュし、時が正確に刻まれてゆく。

小さく響く秒針の音も、心地よい。


男は、この古時計を気に入っていた。


手間はかかるが、この、不正確な刻が自分の手で一掃されるのが好きだった。


そろそろ買い換えたら、と妻に呆れられながらも、使い続けていた。


先日、もうそろそろ時刻合わせを、と男は腕時計と古時計とを比べたが、どうも狂いは無いようだった。


はて、と今度は隣の部屋の電波時計を持って来て、比べてみたが、やはり秒針も合っている。


男は時計ではなく、自分がとうとうボケたのかと疑ったが、時計が若返ったのかもな、などど可笑しなことを思い付き、気にはなったが、そのまま放っておくことにした。


ひと月経ち、また例の古時計に目を遣った。

男はびっくりした。

古時計が無いのだ。


男は慌てて妻を呼び、

古時計を何処にやったのかと問いただした。


妻は事も無げに、修理に出したと答えた。


男は激高し、妻を小突き、そのまま散歩に出掛けてしまった。


残された妻は、急いで修理屋のカードを探して電話を掛けたが、もう掛け時計は調整作業に入ってしまっていた。


男は、

(あの時計は古過ぎて、もう修理したって直らないのだ。あいつは、そんな事も理解しないのか。全く老いぼれている。けしからん…)

と腹を立てながら歩いていた。


(本当に無神経だ。人の気持ちも分からないで…)


と歩きながら、ふと、いつも妻が買って帰る和菓子屋の前を通りかかった。

そして、店先に自分の好物を発見した。


それを見て、怒りがおさまり、流石に少しばかりは自分が悪かったと反省した。


古女房に土産を買って、謝ることにした。


その頃、妻は、

(何で、こんなことをしてしまったのかしら。あの人を試すなんて…)

と悲しみに暮れていた。


(あの時計は、とうの昔に修理したのよ。でもあなたが毎日、時刻合わせを楽しみにしているから。

だから、私も毎日、取り外して秒針をズラしていたのよ。)


(でも、もう暫くはそれが出来ないの。主治医に言われたのよ、私の膝の手術は当分、入院が必要だって。)


妻は、最初は嘆いていたが、やがてそれが馬鹿らしくなった。


今まで自分を労うこともなく、家事一つしたことのない夫への、積年の怒りが込み上げてきたのだ。


(私が帰って来られる迄に、あの人、私を覚えていられるかしら。

それより、今ちゃんと帰宅出来るかしら。


まぁ、どの道もう私の知った事ではないわね。お別れしましょう。さようなら。)


妻は、夫婦生活に見切りをつけると、入院支度をして、足早に家を出て行った。


自分の好物をぶら下げて帰宅した夫に、テーブルに置かれた離婚届が待っていた。


古女房の、話し声もしない。

古時計の、秒を刻む音もしない。


あるのは、不気味な静寂だった。


生真面目な男は、やっと思い出した。

自分は、痴呆が始まっていたことを。

そして無音恐怖症だったことを。


そんな自分の為に、優しい妻がいつも騒がしくしてくれていたのだと。


老いぼれていたのは、おのれ自身だった。


fin


















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正確な男 つき @tsuki1207

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