信じてくれる人

「非常に強烈な強迫性障害ですね、暫くは人の多い場所に近つかせないでください」


部屋の向こう側に座ってる医者は、お母さんにそう宣告した。


昨晩、駅員は駅前で発狂している俺を見つけ、救急車を呼んでくれた。


急いで駆けつけてくれたお母さんの話によると、俺は一晩中叫びつづけた。


顔が憔悴しきったお母さんを見て、俺は「まだやらかした」と思うしかできなかった。


強迫性障害という病気は、簡単にまとめると何かに狂気レベルの確認行為を繰り返す精神病らしい。


そういう強迫性障害患者は、心配するものが取り返しがつかない何かに繋がることを杞憂し、そしてそうさせないように確認しようとする。


有名な例を言うと、家のガスは閉めているかを心配する人とか、体の汚れが気になる人とか。


ガスが閉めていないせいで爆発することを心配し、ガスコンロをずっと凝視する、ガスの匂いがないことを確認する、そういう行為を繰り返す。


でも何度確認しても心配が治らない、その結果何時間厨房の中に引きこもる、もっと正確に言うと出られない。


俺の場合は、人間そのものがトリガー。


人の顔を見た瞬間、その表情が気になって確認を取りたくなる。


そして、自分が定めたスペースに侵入すると怖さによるパニックが起こる。


どうやら医者は俺を見た瞬間俺が震えながら医者を見つめる行動から大体わかったらしい。


そのためわざわざお互いを部屋の隅っこに座ることにした。


その説明を聞いた俺は、思わず鼻で笑てしまった。


別にそういう人がおかしいと思っていない、むしろ今の俺だからこそ酷く共感できる。


ガスコンロだけでも生活不能レベルの障害に陥ちるのに、人に過敏反応を起こす俺はどうなるのか。


あれだけ家族を困らせたのに、これ以上障害を加えたら、家族はどうなるのか。


こんな情けなくて醜い自分に、俺は笑えざるを得なかった。


あれからのことは異常に早いペースで進んだ。


医者のアドバイス通りに人混みから離れるため、お母さんは車を用意し、俺を田舎にいるお婆ちゃんの家まで連れて行った。


3列シート車の一番後ろの席に座る俺は、お母さんの顔が見えないし、何も言わなかったが、時々涙を堪える声が聞こえる。


その度に、俺は小声で謝ることしかできなかった。


出来損ないな息子でごめんなさい、犯罪者で病気なクソ息子でごめんなさい。


届かない謝罪と、声に出ない悲しみが、車の走行音を塞いた。


何時間が過ぎた後、俺たちはお婆ちゃんの家まで到着した。


お婆ちゃんが用意してくれた部屋の中へ逃げ、部屋の隅っこで体育座りながら頭を抱える。


外からはお婆ちゃんの怒鳴り声が聞こえる、あの穏やかなお婆ちゃんがここまで怒るなんて、きっと俺みたいな犯罪者と一緒に居たくないよね。


孫が俺だからばっかりに、ごめんなさい、お婆ちゃん。


もう誰とも出会いたくない、もう誰も傷つきたくない。


もう……死にたい……


……


カタ…カタ…カタ…


冷たい何かが俺の足にぶつかった。


「うわ!?なに!?」


ドキドキしながら足元へ覗き込む。


そこには転んだブリキのカエルが、足を空へバタバタと蹴り上げつづけている。


「やっと返事してくれたねぇ」


頭を上げる、ドアの隣にいるお婆ちゃんが見えた。


「やばっ」と思った。


人の顔を見てしまった。


表情は、微笑んでいる。


嫌がっていないみたい。


『本当か?』


表情は、微笑んでいる。


嫌がっていないみたい。


『本当に本当か?』


表情は、微笑んでいる。


嫌がっていないみたい。


『もっと集中して見てみろ』


嫌な汗が止まらない。


呼吸が辛い。


俺は、何もしていない……


「コウちゃん」


「はい!?」


お婆ちゃんの掛け声と共に俺は我に戻る。


俺、何かしたのか……?怒られるのか……?


「……っ」


「カエルちゃんをここに戻してくれないかい?」


「えっ」


「背中のゼンマイを回して、歩かせてみい」


「は……はい」


よくわからないが、俺はカエルのゼンマイを回し、お婆ちゃんへ狙い定める。


「よし……」


手から離して瞬間、カエルは飛び跳ね、お婆ちゃんのとこへ向かう。


……とはいかなかった。


途中でカエルの軌道は変にズレ、ドアの隣の壁にぶつかった。


「あっ……」


「上手だねぇコウちゃん」


お婆ちゃんは優しく微笑んながらカエルを持ち上げ、俺の方に向けてカエルを離した。


カエルのぶれることなく、俺の足にぶつかる。


「もう一回、してみい」


そこから暫く繰り返す、ブリキカエルでのキャッチボール。


「うん……」


「上手上手、すごいねぇコウちゃん」


簡単な遊びだけど、心のどこかが安らぎを感じた。


「懐かしいねぇ、コウちゃんがまだ小さい頃はよくこうして遊んでだねぇ」


「………そうだな」


お婆ちゃんの話と共に、記憶が蘇る。


昔の俺は、お婆ちゃんの家に来る度にこのカエルをイジってた。


まだ幼く、汚れなき頃の俺が。


お婆ちゃんは俺を慰めようとしてる、今の俺でもわかる。


なぜ、お婆ちゃんはそんな俺に構うんだ?


「お婆ちゃん」


「はい、どうしたんだい?」


「お婆ちゃんは俺に怒らないの?」


「どうして私がコウちゃんに?」


「えっ」


不思議そんな顔をするお婆ちゃん、まるで俺が何もしていないみたいな仕草。


「お母さんから聞いてないの? 俺、俺が……」


俺が、痴漢を……


そう言いたいけど、声がうまく出せない。


怖いんだ、これ以上誰かに拒絶されることが。


「そのことね、私はお母さんに怒ったから安心して」


「えっ、どういうこと」


お母さんに……怒った?


「俺にじゃなく、お母さんに、怒った?」


「そうよ、コウちゃんをここまで追い詰めて、娘だろと何だろと私は怒るさ」


「どうして犯罪者の俺を責めないんだよ!」


もう何もかも訳が分からなくなった。


ここに来る途中に、俺は何回も思った。


もしかして俺は本当に痴漢したと、俺は冤罪されたじゃないと。


実は知らないうちに本気であの女性を襲おうとした。


もう自分を信用できない、信じてはいけない。


じゃないとみんなはこんなに俺を責めるはずがない。


なのにお婆ちゃんは俺のために怒った、仲良かったお母さんに。


俺のせいで、まだ家庭の和睦が壊された。


そんなの耐えられない。


「俺は痴漢なんだよ!知らない女性を襲った犯罪者なんだよ!俺を責めてよ!みんなみたい俺を罵倒してよ!俺なんかのために……」


もう、大事な、掛け替えのない周りがバラバラになるのが嫌だ。


「もう、みんながバラバラになるの嫌だよ……」


「でもコウちゃんがそんなことするはずないでしょう?」


お婆ちゃんは、俺の思いを簡単に踏み越えた。


「私は当事者じゃないから分からないけど、優しいコウちゃんはあんなことするような子じゃない、きっと何かの間違い」


事件以来、初めて俺を信じてくれる言葉が聞こえた。


「なのにコウちゃんを信用しないお母さんのことにムカついたから、思わず怒ってしまった」


初めて、俺を信じてくれた人が居た。


「私はコウちゃんを信じたい、だからコウちゃんの口から教えてくれないかい? 事実を」


心のどこかが、救われた気がした。


今までたくさんの人に助けを求めてきた、でも答える人は一人もいなかった。


でもお婆ちゃんは、俺を信じてくれただけでなく、態度は信じられないくらいに真っ直ぐだ。


「俺は……俺は……」


お婆ちゃんの前なら、気を張らなくてもいいよね?


もう怒る人もいないし、ちょっとワガママを言ってもいいよね?


「痴漢なんてしてない……」


『ぐるる』


「「あっ」」


気が緩めたせいか、腹が大きく鳴った。


考えてみれば、俺はほぼ丸一日何も食べてないから、それもそうか。


「ごめん……」


「ははは、やはりコウちゃんは思った通りの良い子だねぇ。そんなコウちゃんのためにご飯を用意したから、一緒に食べよう」


優しく微笑むお婆ちゃんを見て、心が今までにないほど軽くなった。


「……ありがとう、お婆ちゃん」


「孫のために当たり前のことをしただけさ」

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