結婚して20年後。


 次の日は次女の運動会だ。なのでいつもより早めに就寝した……、そのせいか深夜に目が覚めてしまった。

 隣で眠っている妻を起こさないように、ベッドから下りる。


 ぎしぎしと軋むマイホームの廊下を進んで、まずはトイレ。その後、喉が渇いたので冷蔵庫の中にある麦茶を飲む。


 台所キッチンには運動会に持っていくための空のお弁当箱が用意されてあった。年の離れた長女は普通に学校なので、お弁当は三個しかなかった。

 長女は学食を利用しているようだけど、母親が作るお弁当でなくていいのだろうか……。


「運動会か……。毎年あるけど、いつも懐かしいって思うんだよな……」


 娘の応援のために毎年参加している。長女から続いている毎年恒例のイベントなので、なんだかんだと二十年近くは運動会というものに触れているわけだ。

 自分が学生の頃の運動会も含めれば、逆に運動会に触れていない年の方が少ないだろう――……記憶を振り返れば、小学生の時は…………、

「――ん?」


 と、不意に思い出す。

 これまで知らなかった記憶が頭の中を駆け抜けていく。

 走馬灯とはこういうことを言うのだろうか? だが、別に死を覚悟したわけではない。トイレにいって、喉が渇いたのでお茶を飲んだだけだ……だけなのに。


 彼を襲ったのは『なぜ今まで知らなかったのか』と信じられない衝撃だ。これは自分の記憶だ。失われていた、自分にとっては当たり前の思い出――【記憶】が、戻ってくる。


 ――自分は記憶喪失だった。


 記憶喪失のまま歩んできた二十年間。……それ以前の記憶が、なぜか今、膨大な情報量と共に頭の中に流れ込んできていた。

 ……呼吸も忘れて記憶を読み込む。

 口を開けたまま数分、呆然としていたようで、足の甲に水滴が落ちた。自分の口から垂れた唾液だったと気づいた時、同時に、背後に気配があった。


 振り向くと――妻がいた。


「こそこそとなにをしているのかと思えば……喉が渇いただけ?」

「…………」


「なによぉ、じっと見て……あ、もしかして久しぶりにシタいの? ダメだよ? 明日……じゃなくてもう今日か。八時間もすれば運動会でお父さんリレーに参加するんでしょ? 体力がないとあの子に嫌われちゃうわ、」



「――思い出したんだ」



 妻は怪訝な顔をしたものの、思い当たる節がないわけではないようだ。

 眉をひそめたのは一瞬……、その後は察したのか、目を細めて――

「で?」


山下やましたさん……」

「あら、懐かしい。私の旧姓ね」


 今は石川いしかわだ。


 石川 春嬉はるきを夫とし、山下 法子のりこが妻となる。

 ……かつては同じ高校に通っていたクラスメイトであり、その関係性は…………、


「ただのクラスメイトだったはず……恋人じゃあ、なかった」


「そうね。元々はクラスメイトで……でも、誰だってそうじゃない? みんな恋人以前はクラスメイトだった……恋人にならず、一気に夫婦になる例だってあるわけだし」


「俺の恋人は君じゃなかった……。――恋人は別にいたんだ……」


 思い出したのだから知っている。顔も覚えている。

 どうして今まで忘れていたのか。さらには、関係性なんてまったくなかった山下法子と夫婦となり、なぜ子供をふたりも作っているのか、信じられない……。


 気持ち悪い……嫌悪感がこびりついている。


「……山下さんは……」

「今は石川だけど……まあいいわ。でも、せめて法子って呼んでくれない?」

「…………法子、さんは……」

「うんうん」


「――記憶喪失になった俺に、自分が恋人だって嘘をついたんだよな!?」



 記憶を失った石川春嬉の元に、彼の本当の恋人よりも先に顔を出して、認識を上書きした。

 石川春嬉と山下法子は付き合っている、と――。

 恋人であり、将来、結婚することも約束している、とも――。


 本当の恋人とは隠れて付き合っていたために、証拠が一切なかった。証言者はおらず、写真も一切撮っていなかったのが、山下からすれば幸いだったのだ。

 証明する術がなければ恋人をすり替えたところでばれないはずだ――。


 彼の記憶さえ戻らなければ。


 本当の恋人だって名乗り上げにくいだろう……、だって彼女には表向き、付き合っている先輩がいたのだから。

 つまり石川春嬉は浮気相手だった。

 彼女からすれば先輩よりも石川の方が本気だったようだが……。記憶喪失になった彼の認識が山下にすり替えられていたとしても、表立っては動けない。

 それをすれば、浮気を認めることにもなる……。

 彼女の現状が、石川春嬉と付き合っている事実を冗談にしてしまうのだから……。


 ……計画的に奪ったのか?

 ……違う。山下法子に、彼を記憶喪失にさせる力はない。

 だから偶然だ。彼女にとっては好都合であり、渡りに船だった。

 このチャンスを逃すわけにはいかないと、全ての労力を割いて計画を実行した。


 継ぎ接ぎで穴だらけだっただろうけど、彼女の計画は今回に限っては全てが上手くはまったのだ。――結果、ふたりは結婚し、子供も生まれ、幸せな家庭を築き、今に至る――。

 記憶喪失だったことさえ忘れかけていた時……、なぜ今になって思い出したのかは分からないが……、全て、思い出したのだ。



 次女の運動会を控えた深夜のことだった。

 夫婦が向き合い、さて、どうするべきか、と頭を悩ませる。


 旦那は膨大な量の記憶を取り戻して目が回っていたが……、だから頭なんて回らない。


 これからどうするか、なんて……そんなの……――

「やっぱり離婚?」


「へ?」


「だって、私がしたことは酷いことでしょう? 記憶喪失に付け込んで、これまで関係性がなかったのに恋人ということにして、何段も飛ばして好意を勝ち取った。

 私は好きだったけど……あなたは私のこと、本当は好きじゃないんでしょ?」


「…………」


「だってあなたが好きだったのは、古水ふるみずさんなわけだし……」


 元恋人――確かに、記憶を辿れば好意だって思い出せる。

 二十年以上も前の初恋だけど……、忘れていない。忘れるわけがない……とは言えないが。


「今更、古水さんに会ってどうこうは考えられないと思うけど……、報告はしておくべきかなって思うの……。じゃないと、あなたも前へ進めないでしょう?」


「……思い出したよ、って、連絡するのか……?」


「そうね――向こうはきっと激怒するかもしれないけど……いや、でも二十年も前のことだからどうでもいいって言うかもしれないわね。あの人も家庭を作っているかもしれないし……」


「……付き合ってた先輩と、かな……?」


 浮気相手――は石川なので、当時の表向きの関係で言えば本命の方だ。


「それはないと思う。先輩が卒業するタイミングで別れたらしいわよ。噂だけど……、先輩の方も浮気してたんだって……結構多くて、六人ぐらいと」


 一昔前とは言え、六人と同時に付き合うことなんてできるのだろうか……?


「そっか」

「…………ごめんなさい」

「――そうだね、それは言わないといけないよね」


 冷蔵庫を開けた春嬉が取り出したのは……お酒だ。

 一本の缶ビールを開け、コップをふたつ並べる。


「……なに、やけ酒?」

「酔いたい気分だけど、酔わない程度にほろ酔いたいんだ……付き合ってくれ」


 台所で、夫婦が並んでコップ一杯分のビールを飲む。一瞬で終わってしまうが、飲むことで頭の中が弾けたような気がした。……嫌なことなんてこれで全て忘れてしまえ!


 ……記憶なんて戻らなくてよかった。

 戻ってしまえば、色々と考えてしまうから。


「――離婚はしない」


「え?」


「娘がふたりいるんだ……今更、記憶喪失以後の関係性を否定するつもりもないさ」

「でも……私のこと……」

「嫌いだなんて言ったか?」


 記憶喪失になる以前であれば、もちろん好きな相手は別にいる。

 だが、記憶喪失以後であれば、石川春嬉の頭の中を占めていたのは今の妻だ。

 ……やり方は汚いが……、色々な人に迷惑をかけた、褒められた行為ではないが、彼女でなければ記憶喪失になった春嬉を熱心に支えてはくれなかっただろう。


 恋人になってから結婚するまでの献身的な行動には救われたのだ。

 そして――きっと当時、記憶が戻ったのだとしても、春嬉は揺れ動いていただろう……。

 本物の恋人か今の妻か……当時の自分がどんな答えを出すかなど今の春嬉には分からない。


 だって、今の春嬉は、目の前の女性を選ぶから。



「記憶が戻ったけど、戻っただけだ――失ったものを取り戻しただけで、今日という日を迎えるまでの二十年が消えてなくなったわけじゃない。

 俺からすれば失った記憶よりも君と二人三脚で生活してきた記憶の方が長いんだ。記憶が戻ろうがどうだっていいよ――最初は驚いたし、混乱していたけど……落ち着けば答えなんてひとつしかない。これからもよろしく。――大好きだよ、法子」


「あなた……ッッ」


 一口で飲んでしまった酒のせいだろうか。

 普段は言えない「大好き」が、すっと口から出た。


 最近、距離を感じていた妻と再びこうして距離を詰められたのだから……、このタイミングで記憶を取り戻せたのは良かったのだろう……。

 老後に思い出しても困っていたところだ。


 ――これから始まるのだ。

 ぎゅっと抱きしめた妻との人生は、もう一度、ここから始まる――――



「……でも、興味本位なんだけど、古水さんと連絡を取ってみようかな……」


「ダメ。……昔の話で盛り上がって間違いがあったら私、傷つくわよ?」


 頬を膨らませた妻にそう言われてしまえば、隠れて連絡を取ることはできなかった。



 ……そして、人間関係というのは、意外と狭いところで繋がっているものなのだった。




 …了

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