第25話
院長先生が亡くなったと聞いた頃、その頃、私は箱庭の世界を感じていなかった。もう、箱庭はなかった。
私は時々、院長先生は、戦争の責任を感じていたのだろうか、と思うことがある。
夏になり、そうめんを食べると、特にそう思う。
院長先生は、何も言わずにそうめんを食べていた。私の記憶の院長先生は、にこやかに、静かにそうめんを食べていた。きっと、最後の一本は私に残してくれていたのだろう。私が満足するまで、食べさせてくれていたのだろう。子供の私は、院長先生の優しさを気にもしないで、食べていたのだろう。
毎日毎日、私を、新品のそうめんと新品のめんつゆでもてなしてくださった。
私にとって院長先生と奥様は、残り物の夏休みから、救ってくれた恩人だった。
子どもの私は、その恩人の院長先生を悲しませ。謝ることもできずに、お別れをした。
院長先生がお亡くなりになったと聞いて、私の世界は、一つ終わった。大人になれずに終わってしまった気がする。
院長先生に、お手紙も書かなかった。年賀状も出していない。
いったい私は、あんなに優しくしてくださった院法先生に、何ができたのだろうか。
院長先生の楽しそうなお顔は、思い出せる。
そうめんを食べている時は、そうめんばかり見ていたので、一緒に食べている院長先生のお顔を見ることはなかった。でも、楽しそうに食べていらしたと思う。
院長先生が、笑っていたのは、ミケ子さんと遊んでいる時だったと思う。きっと、お魚のあだ名のお姉さんとお話ししている時も、笑っていたのだろうが、ミケ子さんやミケ子さんの子供の猫と遊んでいるとき、笑っていらした。そして、学校から帰ってくると、病院の2階の窓から見ている時も、遠くで笑っていらした。院長先生は穏やかに笑っていらした。
院長先生は、猫がお好きだった。優しい先生だった。
私の指も、治してくださった。優しい先生だった。
院長先生は、坂道をどんな気持ちで下りて来たのだろうか。幸せな気持ちで下りてきて来られたのだろうか。
どうか、幸せな気持ちで、坂道を下りてきていて欲しかった。そうであって欲しい。
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