第9話
ある日、そうめんを食べている時に、不意に院長先生に、
「猫は大人人なれば遊べるようになりますよ。」
と、言われた。
返事ができなかった。
大人の猫と、子供の猫の違いを説明できなかった。
私が、どんなに子猫を抱きたいか、院長先生に説明できなかった。
院長先生には、返事できないまま、私は、そうめんを食べ終わるといつものようにミケ子さんと遊んだ。
院長先生に約束できなかった。子猫をあきらめることもできなかったし、院長先生も大好きだった。院長先生の家で食べるそうめんも大好きだったし、そうめんを食べた後のミケ子さんと遊ぶ時間も、楽しかった。全部欲しかった。私は手放せなかった。
私は、何事もなかったかのように、ミケ子さんと遊んだ。遊びの時間、ミケ子さんは、院長先生の遊び道具を、上手に追いかけた。全力で遊んでくれた。
時々、手を止めると、ミケ子さんが狙っているのが、分かる。じっとして、突然、早く動かす。その繰り返しがとても面白かった。ミケ子さんと私の、知恵比べのようだった。私は、負けていたのかもしれない。
私は、子猫をあきらめる約束をしないまま、ミケ子さんとも遊び、院長先生の家で新品のそうめんを食べた。
約束をしない私を院長先生は、毎日、新品のそうめんの昼食を誘ってくれた。私は家の前で、院長先生が帰って来るのを待った。そして、一緒に、院長先生の家に行った。そして、新品のそうめんを食べて、ミケ子さんと遊んで、院長先生と一緒に帰った。
私は、院長先生に約束できないまま、毎日新品のそうめんを食べていた。新品のそうめんを食べて、新品のめんつゆで食べていた。そして、院長先生の作った猫の遊び道具で、遊んでいた。
そして心のどこかで、
「院長先生は、私が赤ちゃん猫を狙っているのを知っていて、それでも、優しくしてくれている。」
と思いながら、新品のそうめんを食べていた。
私は、少し後ろめたい気持ちを持っていた。
それでも、院長先生に約束も謝ることもできないままであった。
子猫が好きなことはやめられない。新品のそうめんが好きなことも、やめられない。全部手放せない。私はその話をできなかった
そんな私に対して、院長先生は丁寧に話して下さっていた。院長先生は、いつも「です。ます。」調で丁寧に話してくれていた。
時々、違ったお話もされていたのだろう。私に幼稚園のことを聞くこともあったかもしれない。あまりにも、静かで、あまりにも穏やかで、言葉を発することは少なかった。
でも、一緒にいることを否定されている気持ちには、ならなかった。幼稚園のような疎外感は、全くなかった。ここにいていいのだと、いつも思わせてくれていた。私の居場所のようだった。ミケ子さんがやって来る掃き出し窓は、陽だまりのようだった。
実際。院長先生の家の中で、一番、陽のあたる部屋だったと思う。穏やかな時間だ。
昼食で頂く新品のそうめんを、私は、当然のように、いつも最後の一本まで、食べていた。それも、穏やかな時間であった。院長先生のとの時間は、いつでもおだやかな時間であった。
昼の太陽を浴びたり、夕日に照らされていたり、砂利道を歩く時間でさえ、穏やかであった。
私は院長先生からの質問に、上手に答えていたかどうか覚えていない。上手く聞かれたことに、返事できていたかも、自信がない。それでも、院長先生は、変わらずに優しく接してくださっていた。私も言葉を発していたかどうか、覚えていない。むしろ、話しなど、していなかったのであろう。けれど、院長先生との世界では許されると感じていた。無言でも、穏やかに過ごせた。
私が謝りあい気持ちも、院長先生が大好きな気持ちも、新品のそうめんが大好きな気持ちも、言葉を発っしなくても、全部伝わっていて欲しかった。
私は、新品のそうめんにずっと惹かれていた。院長先生が大好きであった。
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