第7話

ある何でもない晴れた日だった。私は家の前で砂をいじっていた。うつむいていた。

 そしたら、いつの間にか院長先生が、職員通用口から降りてから来られた。通用口には5段くらいの階段がある。

 私には院長先生の横顔を見えていない。私は下を向いていた。院長先生は、真っ白な髪にきれいな鷲鼻をしていらした。院長先生は階段を下りてきていたと思う。私は、下を向いて砂をいじっていたので、気が付かなかった。

 院長先生は階段を下りて、坂道を下りてこられた。そして、そこにいる私に向かって、唐突に、

 「こんにちは、よし子ちゃん、そうめんは好きですか?」

 と尋ねてきた。

 唐突の質問であった。

 私は、そうめんを知っていた。

 おそらく私は、

 「好きです。」

 と答えたと思う。

 院長先生は、

 「一緒にそうめんを食べますか?」

 と、おっしゃった。

 そして、そのまま、私は院長先生と一緒に、院長先生の家に向かった。砂利道を、手をつなぐわけでもなく、先生の少し後ろをついて歩いた。

 私の家から3軒先に、院長先生の家があった。民子さんの住んでいた家があり、玄関先に桃の木がある私が最初に住んでいた家があり、院長先生の家がった。道のりは、あっという間だった。

 桃の木の、最初に住んでいた家の向かいにも、小さな平屋の家があった。その家は、ずっと空き家だった。

 院長先生の家に着くと、私は靴を脱いで、院長先生の家に上がった。

 その時、私は脱いだ靴を座りなおして、揃えて戻した。

 それを見ると、院長先生は凄くほめて下った。

 「よし子ちゃんは、賢いね。」

 とおっしゃった。

 院長先生の奥様は、院長先生が私を連れてくると、少し驚いておられた。それでも、何もおっしゃらずに、お昼ご飯の準備を始められた。

 院長先生の奥様は、そうめんを作り始めた。大きな鍋にお湯を沸かすと、そうめんを。さっとゆでた。そうめんは、あっという間に、出来上がった。

 奥様はガラスの冷たい水を入れた器の中に、そうめんをいれてテーブルの真ん中に出された。テーブルは、台所にある、ダイイングテーブルだった。

 椅子に座り、ご飯を家で食べるのは、その日が初めての経験だった。

 大きな器から、私と院長先生は、そうめんを食べた。院長先生の家のそうめんは、とてもおいしかった。新品の味がした。

 そうめんのつゆは、市販のものだったように思う。それが、私にとって、とても嬉しく感じられた。

 家で食べている残飯とは、比べ物にならないくらいの、新しいものの美味しさだった。

 新品のそうめんに、新品のそうめんのつゆは、この上のないおもてなしを受けた気分であった。

 院長先生と私は同じ器から、最後の1本まで、そうめんを食べた。

 そうめんを食べている時も、院長先生はニコニコしていらしたと。

 そうめんを食べた後は、院長先生は、床の間のある、広い座敷いいどうされて、ミケ子さんと遊んだ。

 ちょうど、テレビが、ニュースから地方の旅番組に移る時間帯であった。様々な地方の漁港などを紹介する番組に移行する時間であった。

 院長先生は、ミケ子さんと遊ぶ時は、自分の手作りの遊び道具で遊んでいた。

 院長先生の遊び道具は、新聞紙をくるくる巻いた先に、すずらんテープを付けて、その先に、小さな獲物を付けたものだった。獲物は、広告を小さく丸めたような、紙の塊だった。

 その遊び道具で、ミケ子さんは、とても上手に遊んでいた。くるくる・くるくるミケ子さんは動き回っていた。あの、のしのしと歩いているミケ子さんからは、想像できないくらい、動き回った。

 私は、ミケ子さんは、赤ちゃんをお世話したり、寝そべったり、のんびりしている姿しか、見たことがなかったので、動き回るミケ子さんは、新鮮であった。爪を立てて、獲物を追いかけているミケ子さんは、まさに野生の猫だった。

 院長先生は、私にも遊び道具を貸してくださった。

 ミケ子さんは、私相手でも、手を抜くことなく遊んでくれた。私が動かす獲物にも、真剣に取りに行ってくれた。ゆっくりと動かしたり、素早く動かしたり、院長先生の手作りのおもちゃに合わせて動き回るミケ子さんは、とても面白かった。

 院長先生は、リラックスしながら、それを見ていた。床の間には、院長先生の手作りのおもちゃがたくさん並んでいた。

 院長先生は、

 「おもちゃは新聞紙で作っているから、壊れてしまうので、壊れても気にしなくてもいいよ。」

 と、言ってくれた。そして、本当に、手作りのおもちゃは、壊れやすかった。けれども、院長先生は、楽しそうに新しいおもちゃを出してくださった

 1時になる少し前に、先生は午後の仕事に向かわれた。そして、私は、一緒に院長先生の家を出た。

 院長先生は、帰り道の途中

 「明日も食べに来ますか?」

 とお尋ねになった。

 私は、

 「はい。」

 と返事をして、別れた。

 私は、次の日は、院長先生を待っていた。

 次の日は、院長先生と約束をしたから、家の前でちゃんと待っていた。

 院長先生が、階段を下り、坂の下で私に会う。私と院長先生は、一緒に院長先生の家に行った。

 私は玄関で、その日も靴をそろえた。院長先生は、それを嬉しそうに見つめていた。

 お食事は、昨日と同じ新品のそうめんだった。

 院長先生の奥様は、昨日と同じように、一言も発せることなく、そうめんの支度をしてくださった。

 昨日と違っていたのは、食べる場所が台所のダイイングテーブルでなく、その横の、床の間のある座敷につながった小さいお部屋になったことだ。こたつサイズのちゃぶ台で食べた。それ以外は、全て同じだった。

 院長先生と私は、昨日と同じ水のはった器から、そうめんを最後の1本まで食べた。昨日と同じ、新品のそうめんに新品のそうめんのつゆだった。

 私は満足だった。幸せだった。

 院長先生の奥様は、何もお話しすることなく、そうめんの用意をして、私達が食べ終わると、そうめんを片づけていた。そして、院長先生と私は同じように、広い座敷に行って、ミケ子さんと遊んだ。同じであった。ミケ子さんは、どこからともなく、やって来ると、掃き出し窓から、直接上って、座敷で遊んでいた。

 ミケ子さんは毎日のんびりしているのに、遊びの時間は、とてもすばしっこかった。ミケ子さは、信じられないくらい、よく遊んでくれた。院長先生は、初めこそ、遊び方を教えくださったが、私が遊べるようになると、見守ってくるようになった。ほとんどの時間、私とミケ子さんが遊んでいた。

 それ以来、新品の生活は、毎日毎日続いた。

 私の箱庭の生活は、キラキラしてきた。パステルカラーよりも鮮やかな色彩に彩られえいた。夏雄強い日差しに負けないような、キラキラした箱庭の世界に変わっていった。

 残りものを食べなくていい昼食。新品を食べられる昼食。そして、猫と遊べる時間。とてもとても嬉しかった。

 私は、母にお昼ご飯は食べ終わっていると、伝えていたつもりであった。でも、母は気に留める様子はなかった。

 夏休み、私は毎日外に出て、空の下にいた。

 空は青く高く、私はのびのびとした気持ちになれた。

 幼稚園に行っていないことは、私の気持ちはとても楽であった。分からない言葉もなく、疎外された人間関係もない。

 いつもよりも高く青いい空の下での、箱庭の世界の夏休みだった。

 院長先生は、毎日お声をかけてくださった。毎日、院長先生の家に行き、そうめんを食べた。

 猫は、ミケ子さんだけではなかった。ジョンが遊んでくれる日もあった。

 でも、そうめんを食べるのは、変わらなかった。私と院長先生だけであった。そこは変わることはない。お魚のあだ名のお姉さんが食べていた記憶はない。

 院長先生とは、毎日、新品のそうめんを食べた。

 ある日、私の前では、決してお話しをしない院長先生の奥様が、そっと院長先生に耳打ちをした日があった。

 どきどきした。

 なんとなく聞こえてきた。

 どうも、そうめんがなくなったようなのだ。

 私は一気に不安になった。私の新品の日々は、そうめんがあってこそ、成り立つのだ。

 院長先生のそうめんは、買ってきたそうめんではないようだった。もらいものの箱に入ったそうめんだった。

 院長先生は、どこかに電話をするように、奥様に話していた。奥様は、どこかへ電話をかけると、嬉しそうに、また戻っていらした。

 そして院長先生は、私に向かって

 「大丈夫ですよ。明日も食べに来てくださいね。」

 とおっしゃった。

 私は、不安から解放された。きっと、私はとっても不安な顔になったのだろう。子供だから、顔に出ていたのだろう。

 毎日の新品の生活から、また残り物の残飯の生活になることを、想像したのだ。

 私ががっかりしているのをご覧になり、院長先生も奥様も、そうめんを手配してくれたのだ。

 奥様は、私のためではないのかもしれない。院長先生が、楽しそうに、私とそうめんを食べているのを見るのが、面白かったのかもしれない。

 次の日は、床の間の上にそうめんの箱が何段にも積まれていた。

 そして私は、また毎日、新品のそうめんを食べる生活を続けることができた。

 夏休みは、快適に過ごせた。院長先生の家には、無限にそうめんがあった。ますます私は、そうめんが好きになっていった。

 夏休みは、空が高くて青く、白い濃い雲が浮かぶ、解放的な美しい箱庭の世界であった。

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