やっぱり日本人と言ったらアレでしょ!!

 屋敷の外に出るのを提案したのは磯貝だった。


 抑制剤を作り終えたアレクサンドルが、レオとジェイドに薬を渡しに屋敷へとやって来て、その足で今度は他の攻略キャラに会うために剣術学校へと向かう。そこに一緒についていこう、と磯貝は言った。


「朝日奈氏の目が届かないところでキャラ同士を合わせるのは不安でござる。勝手に喧嘩をして友情度が下がらないとも限らないでござるよ」

「でも、恋愛イベントはどうなるの? 出かけてる間に発生したら、その度にここに戻されることになるんじゃないの?」

「それに関しては安心するでござる。先日の食堂のシーンから次のイベント、つまり両親に婚約者を紹介するイベントまではおよそ1ヶ月の空きがあるでござる。これは全キャラ共通でござるよ」


 ゲームをクリア済みの磯貝が言うんだから間違いではないはずだ。

 アレクサンドルが屋敷にやって来るまであと3日。その3日間は、自由に行動できる。ただし磯貝に通信を繋げてもらう必要があるけれど。


「朝日奈氏、ここまで言えばやることは分かるでござるね」

「うん。アレクサンドルがやってくる前に、俺は屋敷内の探索を_____」

「お風呂でござる!」


 ……は?


「お風呂があるんだから、入らない手はないでござるよ!」


 ウキウキとしているのを隠しもせずに磯貝は言う。


「拙者、この時を今か今かと待ち望んでいたんでござる。せっかくお風呂があるのに、原作には一切入浴シーンが書かれていない……! 全年齢だからって言うのは分かってるけど、少しくらい、せめてスチルくらいはあっても良いじゃないでござるか! そのくらいは誰も怒らないでござるよ!」


 俺が喋る隙を与えず、磯貝はべらべらと捲し立てる。


「ふわふわと揺れる銀色の髪がしっとりと濡れて肌に張り付くそのなまめかしさ! 毛先からこぼれ落ちた水滴がジルベールたんのなめらかな肌の上を滑り落ち、壁にかけられたロウソクの明かりが華奢なその体をあでやかに光り輝かせるんでござる……たまらんでござるなぁ」


 ……磯貝。お前、着眼点が物凄く気持ち悪いよ。


「否! 推しキャラ、ひいては推しカプの裸が見たいと思うのは腐男子として当然でござる。むしろ妄想しない方がそのキャラに失礼でござろう」

「そんなことはないと思うけどなぁ……というかさ、外見がどうであれ中身は俺なんだよ。友達の裸を見るのに抵抗はないの?」

「ない」

 

 即答すんなよ。


 ……でも、俺も風呂には興味がある。

 ゲームでグラフィックの良し悪しを判断する基準のひとつとなるのは水だ。このゲームのグラフィックがどこまで緻密に設計されているのか見てみたい。

 それにゲームだから身なりを清潔に保つ必要はないとは言え、何週間も風呂に入らないのは気分がすっきりとしなかった。

 

「……あんまり見ないでよ」

「善処するでござる」


 断言しろよ。



 *


 翌朝、部屋を訪れたレオに入浴をしたいと伝えると、朝食後には既に支度が整えられていた。

 

 両手をお椀の形にして、浴槽に並々と注がれたお湯を掬ってみる。お湯は指の隙間からこぼれおち、水面の至るところに波紋を立てた。波打ってゆらゆらと揺れる俺の姿も、別段不自然に見えるということもない。


「……普通のお湯だ」


 五感がそれを水だと判断した。完璧な水だ。何も間違いはない。


 次に浴槽をくまなく観察してみる。壁、天井、床。それらに変わったところはないか。グラフィックの粗や、現実世界とこの世界を繋ぐ抜け道的なものはないか。

 お湯から沸き立つ蒸気が部屋中を白く曇らせる。雲の中を歩いているような気分になりながら、手探りで探索を続けた。結局進展はなかったけど、そんなに落胆はしていない。俺はひとつのゲームを新たな発見がなくなるまで何度も周回して楽しむタイプなので、進展がないことには慣れている。むしろ久々にゲームらしいことができて晴れやかな気持ちだった。


 一方その頃磯貝は、白い靄がかかりまくった浴室で何とかしてジルベールの裸を見ようと粘りながら、「おのれ自主規制め……」と悪態をついていたらしい。俺には関係のないことだ。



 お湯を体にかけタオルでこすり、全身をくまなく磨いてから浴槽にゆっくりと体を沈ませる。


「はあ……」


 思わずため息をこぼしてしまう。久々の感覚に安心感が体の底から湧き上がってきた。

 壁の高いところに掛けられたロウソクがゆらゆらと薄暗い室内を照らしている。窓がないのは、時間を忘れてくつろげるようにっていう設計者の親切なんだろうか。


 せっかくだから、存分に楽しませてもらおっと。


「風呂って最高だな……」


 足を伸ばしてのんびりと天井を眺めていると、脱衣所へ続く扉が外から叩かれる。


「義兄さん、お湯加減はどうですか?」


 レオだ。

 

「ちょうど良いよ。それにしても、急に言ったのにすぐに用意してくれるなんて凄いね。流石レオだ」

「他ならない義兄さんの頼みですから。タオルと服、外に用意しておきますね」


 ありがとう、と言い掛けて、ふとあることを思いつく。その言葉が客観的にどう思われるか考えることもせず、思いついた時には既に声に出していた。


「ねぇ、良ければレオもお風呂に入らない?」

「……え?」


 ばさばさ、と何かが盛大に落ち、レオが慌てる声がする。


「お、お風呂ですか? 義兄さんと一緒に?」

「一緒が嫌なら後でも良いよ。あ、でも僕が使ったお湯には入りたくない?」

「え、いや、そういうことではなくって……」


 あたふたと言葉を詰まらせながら、レオは凄く戸惑いがちに言った。


「あ、あの……一応僕も、義兄さんの婚約者候補のはずなのですが……」


 今度は俺が慌てる番だった。


 俺は、一度沸かしたお湯を俺ひとりで占領するのがもったいないと思っただけだ。でも良く考えたら、いや良く考えなくたって、俺は不用心過ぎた。好きだって言ってくる相手を一緒に風呂に入るように誘うなんて……。


「え!? あ、そっか、ごめん……!」

「い、いえ……」


 奇妙な沈黙が流れる。俺もレオも口を開くのをためらっていた。開いたとして、何を言えば良いか分からない。一度放った言葉を撤回することもできない。


「……それは、命令ですか?」


 しばらく経って、落ち着いた口調でレオが言う。


「僕は婚約者ではありますが、義兄さんのしもべでもあります。命令でしたら、僕は従います」


 俺は自分の髪の毛に触れる。ジルベールだったら、ここでどう答えるだろう。

 

「……命令じゃないよ」

「そう、ですか」


 少し残念そうな声が扉の向こうから聞こえてくる。正直さに笑いつつ、俺は言葉を継いだ。


「レオは僕とお風呂に入りたい?」

「え?」

「僕はレオの意思を尊重したい。……君を食堂に連れて行けなかったこと、後悔してるんだ」


 せめて「僕」の前では素直なレオでいてほしい。そう思うのは俺の我儘かもしれない。

 行動の意思をレオに委ねれば委ねるほど、レオは苦しむことになる。そう分かっているのだから。

 でも、だとしたら、どうして。


 俺は柔らかな自分の髪を強く握りしめる。頭が少し痛み、数本の髪が手の中に残った。


 ……ジルベール、お前の考えてることが分からないよ。

 

「……兄と弟だったら」


 レオが言う。


「家族だったら、お風呂に一緒に入るのはおかしなことじゃないですよね」


 脳裏によぎったのは、


『レオ……大好きだよ』


 俺がそう言った時の、レオの泣きそうな顔だった。


 *


 この数週間、色々なことがあった。BLゲームの世界に入ってしまったり、それどころか多種多様な男達から求愛されたり。喧嘩を仲裁したり、ギスギスした家族仲を見せつけられたり。

 俺は人と喋るのがそんなに好きじゃなかったはずだ。だけど、ここ数週間の間に強制的に喋る機会を増やされたせいか、少しだけ耐性がついてきた。


 とは言え、俺はひとりの方が好きなはずで。ましてや誰かを入浴に誘うなんてあり得なかったはずで。


 悲しいかな。俺はこの世界に、BLというものに順応しつつあるらしい。


 レオは俺から少し離れたところにいる。お風呂に浸かっているからか、それとも別の理由からか、ほっぺたが赤くなっている。チラチラと俺を見ていたと思えば考え込むように目を閉じ、やがて口が浸かるくらい深く体を沈み込ませた。

 ぶくぶくと水面に泡が浮かんでは消えていく。


「……義兄さんは、不用心すぎます」


 おっしゃる通りで。


「ごめんね、レオ」

「……決めたのは僕ですから義兄さんを責めるつもりはありませんけど、でも……他の人でも同じことをするんですか? ここにいたのがベルトラン様だったとしても、義兄さんはあの人とふたりきりでお風呂に入るんですか」

「そんなことは起きないよ」

「どうして分かるんですか」

「君が真っ先に僕を止めるはずだから」


 レオが困ったように笑った。その時だった。突然レオは身を固くして表情を強張らせ、黙り込んだ。どうしたのかと尋ねようとすると、手で制される。レオは脱衣所の方をじっと見つめた。すると、微かに物音が聞こえた。誰かがいるみたいだ。


「リアム様の仕業でしょうね」

「……どういうこと?」

「脱衣所や食堂などの鍵は、旦那様のご家族と信頼のおける限られた使用人しか持っていません。この屋敷に長年仕える使用人が、主人の入浴中に鍵を使って中に入るなんて無礼なことをするとは思えない。リアム様が、使用人に命じたんです」

「どうしてそんなことを……」

「義兄さんに対する嫌がらせでしょうね。以前もこのようなことがあったのを覚えています。その時は証拠がないからと不問になりましたが……」


 レオは苦々しい顔で舌打ちをして、湯船から立ち上がる。


「……義兄さん、ここで少し待っていてください」


 すたすたと脱衣所へ向かったレオは、後ろ手に扉を閉めた。


『お前、ここで何をしている』

『れ、レオさん、どうしてここに!?』

『私はここで何をしていると聞いているんだ。答えろ、誰に命令されてここに来た。お前は浴室の鍵を持っていないはずだろう』

『そ、それは……お答えするわけにはいけません』


 不穏な会話が聞こえてくる。レオが帰ってくるのを、ひたすら待つしかなかった。自分の家だというのに、居心地が悪い。


 ドン、と強く壁を叩くような音と共に微かに視界が揺れた。

 

『もう一度だけ聞く。何しに来たかを、誰の命令で来たかを吐け。お前の単独行動だと判断して、今すぐに屋敷を出ていってもらっても良いんだぞ』

『それだけはご勘弁を! ここを追い出されてしまっては、行くあてがないんです!』


 そのような会話を何度か繰り返した後、にっこりと笑みを浮かべたレオが浴室に戻ってきた。レオは片手で抱えていた使用人を、俺の前に乱暴に投げ捨てる。使用人の顔は恐怖に歪んでいた。


「想来様。この男はリアム様の命により、想来様の衣服を盗ろうとしていたようです。どうぞ、然るべき処罰をお与えください」

 

 使用人が両手を床について頭を深く下げる。


「申し訳ありません、想来様……っ! 私はリアム様には逆らえないんです! たとえ理由が分からなくとも、命じられれば従うしかないんです!」


 リアムは使用人には理由も告げずに、ただ服を持ってこいと言ったってことか。卑怯な奴だな。


 リアムとの会話を思い出せば、理由にもそれなりに検討がつく。あいつは「僕」に外に出てほしくないんだろう。


「想来様、どうかお許しを……っ」


 可哀想に、使用人の声は震え、顔は真っ青になっていた。


 許さなければ、間違いなくこの使用人の首が飛ぶ。だがここで許したとしても、リアムの命令に背いたとなれば、今度はリアムから罰を受けるかもしれない。


「善良」なジルベールなら、ここでどう行動するだろう。「僕」はどうするべきだろう。


「……レオ」

「はい」

「脱衣所にある服を、この人に渡してあげて」

「……はい?」

「それから、代わりの服を持ってきてほしい」


 レオの顔が一瞬気色ばんだ。


「レオ、これは命令だよ」


 俺が一言言い添えると、何か言いたげな顔をしつつ、レオは従う。


 使用人に先程まで着ていた服が手渡される。使用人は目から大粒の涙を流した。


「早くリアム兄さんの元に持っていってあげて」

「ああ……ありがとうございますっ、想来様……っ!」


 使用人は服の袖で涙を拭い、慌ただしく浴室から出ていく。


「……義兄さん、本当にあの者を許して良かったのですか?」


 当然、レオは不服そうだ。


「さっき僕がレオに命令した時、レオはあまり乗り気じゃなかったでしょ? きっとあの人も同じだったはずだよ。リアム兄さんには逆らえない。仕方ないことだったんだ」

「……」

「僕も『今回は』リアム兄さんを許した。だからレオも、あの人を許してあげてくれない?」


 お願い、と僕が頭を下げると、レオはすかさず「謝らないでください」と僕の頭を上げさせる。レオは微苦笑を浮かべていた。


「義兄さんの優しいところは美徳ですが、いつか、痛い目を見るかもしれませんよ」

「あはは。痛い目だったら既に、馬から落ちた時に遭ってるよ。目が覚めても痛かったんだから」

「そういうことじゃありません!」


 うん、まあ、そうだろうね。


 前髪から滲んだ雫が頬を伝い落ちる。レオは指先で雫を掬い取り、何か言いたげに、目を柔らかく細めた。指はすぐに離れ、俺の頭に乾いたタオルが被せられる。

 使用人とは思えないくらい髪の毛を乱暴にかき混ぜられ、視界がグラグラと揺れた。


「レオ?」

「……義兄さんは本当に不用心だ」


 レオが立ち去る足音が聞こえる。目の上に被さったタオルを取り払った時、浴室には既に俺以外の誰もいなかった。

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