夢……じゃない!?

【……きてください、朝日奈殿。朝日奈殿!】


 この声は……磯貝?


「……うう」


 重たい瞼をこじ開ける。俺の視界に白色の天井が映る。寝起きの頭でも、ここが自分の部屋ではないことすぐに分かった。


 まだ俺はあの悪夢とも呼べない変な夢から覚めてないみたいだ。


【良かった、目を覚ましたんでござるね】


 俺はベッドから上体を起こした。自分の太ももの辺りの位置に誰かの手が置かれているのが見え、悲鳴を上げそうになってしまう。


「ひっ……」

【声はあげちゃ駄目でござる! キャラの目を覚まさせないで!】


 透明色のパネルが俺の前に姿を見せた。パネルは磯貝の声に合わせて、蛍光色の光をぴかぴかと放った。眩しさに目を細めながら、辺りを見回す。


 俺のすぐそばで、オベールが眠っていた。そうか、さっきの手はオベールだったんだな。

 それにしてもオベールって本当に綺麗な顔をしているな。まつ毛も長くて、鼻筋もスッと通っていて、まさに女の子が憧れる「王子様」みたいだ。


 オベールはまるで精巧な人形のように、寝息も立てずに眠っている。俺はしばらくの間息を吸うのも忘れ、オベールに見惚れていた。


 頭がズキっと痛み、我に返る。手を頭に伸ばすと、そこには包帯の感触があった。


 そうだ、俺……さっきまでたくさんの男に囲まれて……というか、ここはどこ?


「い、磯貝。その声は磯貝だよな。これは一体……」

【説明は後でするでござる。とにかく今はオベール殿を起こさないようにベッドから抜け出して、バルコニーの方へ来るでござる】

「バルコニー……?」


 パネルは何度か点滅を繰り返すと、画面に地図を表示させた。これはたぶん、今俺がいる部屋だろう。現在位置、つまりは俺のベッドから、矢印が点々と東の方へ続いている。


 俺は磯貝の言う通りにオベールを起こさないようにベッドから抜け出し、バルコニーへと続く部屋の窓を音を立てずに開いた。


【いやー、拙者の声が聞こえているようで一安心でござる。どうやらキャラが画面に映っている間は通信機能が使えないようなので、かなり焦りましたぞ】


 月の優しい光を吸い込んだ柔らかな風が、部屋に注ぎ込む。俺の眼前に広がるのは、満点の星空と、白銀の満月だった。


 すごく綺麗だな、ここ。


 夢には自分の願望が反映されると言われている一方で、脳が記憶の整理をしているのだとも言われている。


 でも、これほどまでに美しい星空を俺は見たことがない。覚えてないだけで、見たことがあるんだろうか。だとしたら、それはどこだろう。


 カーテンと窓を閉めると、バルコニーは完全に俺一人の世界になった。そばには誰もいない。俺だけが、この星空を独り占めできるんだ。


【あのー、感傷に浸ってるところ大変申し訳ないんでござるが、そろそろ話をさせてもらっても良いでござるか】


 磯貝の声に我に返る。そうか、ここには磯貝もいたんだった。


【朝日奈氏、頭の傷はどうでござるか?】

「え、あ、ええっと……痛むけど、アレクサンドルが言うには問題はないみたいだよ。馬から落ちちゃったんだってね」

【じゃあ、今の気温は? 寒いでござるか? 暑いでござるか?】

「どっちでもないかな。ちょうど良い。涼しい感じ」


 なるほど、と磯貝が頷く。


【どうやら少しずつ、朝日奈氏の五感がこの世界に適応し始めているようでござるね】


 この世界? 適応? 何を言っているのか分からない。


【朝日奈氏、落ち着いて聞いてほしいんでござるが……実は、朝日奈氏は拙者の貸したBLゲームの世界に取り込まれてしまったようなんでござる】

「……え?」

【拙者もいきなりのことで全く理解が追いついてないんですが、とにかく拙者の話を聞いてくれるでござるか?】


 磯貝が、にわかには信じられない「今の状況」を教えてくれる。


 現実の俺は今、病院で入院中らしい。突然眠ったように意識を失い、それから全く目覚めないみたいだ。磯貝は学校の帰りに俺の病室に見舞いに来てくれた。そこで、俺のスマートフォンを発見したみたいだった。

 病室に、それも俺の枕元に置いてあったらしいそれを不審に思った磯貝は、スマホに触ってみた。するとロックもかかっていなかったらしく、すんなりとスマホは起動した。


【画面に、拙者の貸したBLゲームの画面が映っていたんでござる。朝日奈氏ったら、スマホアプリをダウンロードしてくれるくらいゲームを気に入っていたのかなって一瞬思ったんでござるけど、そういえばスマホ版なんてあったっけ? って疑問に思ったんでござる】


 そのゲームはスマホアプリなんて存在しなかった。ますます不審に思った磯貝はスマホを操作して、あることに気がついたらしい。

 メニュー画面を開くと、従来のゲームに存在してなかったはずの要素がいくつか存在している、と。


 1、セーブ画面。そこには「データが存在しません」と書かれていた。このゲームにはオートセーブ機能が付いているので、データがないのはあり得ないことらしい。

 2、ステータス画面。本来プレイヤーには見えないはずの様々なパラメーターがそこには表示されていて、俺には見えないが磯貝には見えるようになっている。

 3、「心の声」と書かれたタブには、俺、朝日奈想来が思ったことが文字になって表示される。地味に、というか普通に嫌な機能だ。

 4、通信機能という、プレイヤーと主人公が会話をする機能がある。


【「心の声」の欄を見た時にもしやと思い、設定の「プレイヤー名変更」を表示してみたのですが……やはり予想は的中して、朝日奈氏が自分の名前を入れたと、そういうことでござる】

「えっと……話をまとめると、俺はお前から借りたゲームの主人公に憑依してて、磯貝は俺の様子をスマホを介して見ることができるって、そういうこと?」

【話が早いようで助かるでござる】

「つまり……ここは、俺の夢じゃないってこと?」

【その証拠に、夢とは思えないほどに意識がはっきりしていたり、五感が鮮明になってるんじゃないでござるか?】


 包帯の巻かれた頭に手をやる。傷口が鈍い痛みを訴えた。


 夢じゃないって……現実の俺は意識不明の状態で入院してるって……はは、何だよそれ、信じられるわけないだろ。


 でも、信じなかったところで俺にはどうしようもない。

 

 さっき意識を失った時点で目が覚めなかったのは、きっとここが夢ではない証拠のひとつなんだろう。それに、夢にしてはあまりにも整合性があり過ぎる世界だ。


 俺は息を吸って、オベールを起こさないように、小さく声を出した。


 おかしいな、俺、こんなに高い声だったっけ。それに手もこんなに白い。


 窓辺に寄って、ガラスに映り込む自分の姿を確認した。月明かりに照らされた俺の姿は薄暗くてぼんやりしているけど、16年見てきた「朝日奈想来」の姿でないのは確かだった。


 白銀の髪、金色の目、中性的な顔立ち。これは、ゲームの主人公の顔だ。


「……」


 ズボンの中を覗いてみる。


……


【何してるんでござるか……】


 俺にも分からない。


 とにかく、この体は俺のものじゃないのは確かだ。

 体付きも身長も「朝日奈想来」とは全く違うのに、目には見えない意識だけが、俺が俺であることを証明している。その違和感は、頭を混乱させるには十分だった。


 あれ?……これって、大丈夫なのかな。もしかしてかなりヤバい状況?

 

「……俺、もしかして二度とここから戻れないの?」


 俺の声は震えていた。不安からか、じんわりと目に涙が浮かんでくる。


 ああ、まだやってないゲームが残っているのに。お年玉や親戚の手伝いで貯めたお金で買った俺の宝物が、部屋の中でパッケージから取り出される日を今か今かと待ち続けているのに。こんなことになるなら、既プレイゲームの周回なんてせずに新しいやつに手を出していれば良かった!


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。その言葉が頭を埋め尽くし、何も考えられなくなる。


【朝日奈氏!】


 磯貝が俺の名前を呼んだ。その声で俺は少しだけ冷静を取り戻せた。

 そうだ。俺が「俺」であることを知っているのは俺だけじゃない。磯貝もいる。

 

【安心するでござる。拙者が必ず朝日奈氏をその世界から救い出してみせるでござる】

「どうやって?」

【……恐らく、このゲームをクリアすることで朝日奈氏は元の場所に戻れると思うでござる】

「どうして、そんなことが分かるの?」

【どうして、と言われると困るんでござるが……直感でござる。拙者はこういう設定のエンタメ作品をいくつも見てきたでござるからな。これもその一種でござろう。とにかく朝日奈氏。今は拙者を信じて、ゲームをクリアするように動いてはくださらないか。困ったことがあったら拙者を呼んでもらえれば、アドバイスをするでござる】


 どうすれば良いか分からない。でも、今は磯貝を信用するしかない。


 こんなにも磯貝を頼りに思ったことなんて、生まれて初めてだ。


 磯貝が友達で良かった……いや、やっぱり駄目だ。磯貝がゲームを渡してこなければ、そもそもこんなことにはならなかったんだ。


 くそ、磯貝の奴。何でお前じゃなくて俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ。


【朝日奈氏の思い、拙者にしっかりと通じてるでござるよ~】


 この野郎、心を勝手に読むな!


 俺は目を閉じ、何も考えないように心がけてみる。でも、こうやって何も考えないって考えること自体が思考をすることで、俺はこうしている時点で磯貝に思考がダダ漏れなわけで……笑うなよ、磯貝。


 もう良い。変なことを考えなければ問題ない話だ。この際磯貝に思考を読まれるのは諦めよう。


 取り敢えず俺に今できるのは、磯貝に協力してもらってこの世界から脱出するだけだ。


「それで、どうやってクリアすれば良いの? このゲームって確か、恋愛シミュレーションゲームだよね。選択肢を選んで、キャラの好感度をとにかく上げていけば良いの?」

【その通りでござる】


 選択肢を選ぶだけなら俺にもできるかもしれない。

 

【このゲームに登場するキャラクターは隠しキャラを含めて全員で10人でござる】


 パネルにキャラが表示される。オベールと、アレクサンドルと、オベールの従者と……あれ、見たことないキャラがいるな。


【それは隠しキャラでござるよ。ゲームを周回しないとそもそも登場しなかったり、特別なイベントで発生するキャラなんでござる】


 なるほど。色々試してみてそういうキャラを発見するのも、恋愛ゲームの楽しみ方なのかもしれない。今はそんな悠長なことを言ってる場合じゃないけど。


「この中から1人、攻略するキャラを選べば良いんだね?」


 この際、男と恋愛するということには目を瞑ろう。ゲームをクリアするためなら、何だってしてやる。

 それに所詮はゲームのキャラクターだ。思考は単純だろうし、先程俺にプロポーズしてきたあの男達の中から1人選んで適当におだてておけば、簡単にクリアできるはずだ。だって、みんな主人公にベタ惚れしてるんだから。


……ん? 待てよ。恋愛ゲームって、キャラとの仲を深めていくのが醍醐味のゲームだよな。何で既にキャラクターが全員俺に惚れてるんだ?

 

【……朝日奈氏、悲報でござる】

「え?」

【本来好感度の数値の詳細はプレイヤーには見えない仕組みになっているんでござるが、何故か拙者には見えるので確認してみたんでござる。そしたら……何故か全キャラの好感度が90%超えしてたでござる】

「……それってヤバい?」

【激ヤバでござる。つまり、朝日奈氏が何をせずとも全キャラが朝日奈氏を溺愛している状態なんでござるよ。ここまでいくと、朝日奈氏がそばにいるだけで好感度が上がるレベルでござる】

「そ、そんなになの!?」


 なるほど。だから、あれだけの人数の男が俺を争っていたのか。そりゃそうだよな。じゃないとあんな男祭りで部屋がいっぱいになることはありえない。


【このゲームは三角関係エンドなど複数のキャラと結ばれるエンドも存在しているんでござるが、流石に全キャラと結ばれるのは製作者側も想定していないし、そもそもストーリー上不可能な展開でござる。つまりどういうことかと言うと、このまま何もせずにいると、シナリオ上存在しないルートに突入してしまい、ゲームが終わらなくなってしまうんでござる】


 ゲームが終わらなくなってしまうって、つまりは永遠にこのゲームの世界に取り残されちゃうってことだよな。


 そ、それは嫌だ。


【あともうひとつ悲報がありまして】


 まだあるのか!


【好感度の他にも、ルート分岐に関わる重要なパラメーターがありまして、それが「友情度」なんでござる。これはざっくり言うと、主人公以外のキャラクター同士の好感度でござるね。ゼロに近い値であるほどキャラ同士が険悪になるんでござる。なんとこれが……全キャラマイナスに振り切ってるんでござるよ】

「マイナス? ゼロならともかくマイナス?」

【つまり、キャラクター同士の仲が最悪でござる】


 マジかよ……。


 だからオベールの様子が変だったのか。「優しい」設定のオベールが、アレクサンドルに対してあんなに辛辣な態度を取るなんて、おかしいと思ったんだ。


【この友情度は、バッドエンドに関わってくるパラメーターのようでござる。複数のキャラの好感度を同時に上げるとこの数値が下がり、キャラが嫉妬したり、主人公を奪い合ったりするんでござる。

 それだけならまだ良いんでござるが、バッドエンドの中には主人公と心中を図るものもあって、このルートに辿りついてしまったら恐らく、たとえゲームクリアであっても、朝日奈氏はこっちの世界に戻ってこれないでござる】

「何でそんなこと分かるんだよ」

【ゲームの世界で死んだ者は生き返らない。こういう手の作品の定番であろう?】


 俺に聞かれても分かんないよ。そういう作品あんま見たことないから。


【話をまとめるでござる。このままキャラへの対応を変えずに接していたら、存在しないルートに突入して延々とこの世界をさまようことになるか、バッドエンドでキャラに殺されてお陀仏でござる。

 朝日奈氏はたくさんの男に溺愛されながら永遠の時を過ごすのと、元の世界には戻ってこれないけどこのゲームからは解放されるのと、どっちが良いでござるか。拙者は総受けが地雷でござるので、できれば後者を選んでほしいでござる】


 どっちも嫌だよ! というか総受けって何。

 

【だとしたら、手はひとつしかないでござる。本命キャラを1人決めて、そのキャラのみ好感度を100にする。そして他のキャラの好感度を下げることで友情度を上げ、ハッピーエンドを迎えられるようにする。これしかないでござる】

「誰とも恋愛関係を結ばないエンディングはないの?」

【あるにはあるんでござるが、全キャラの好感度が50パーセント以下という条件があるでござる。今から全キャラのパラメーターをここまで下げるのは、余程のことをしない限りは至難の業でござるね……ところで、ちょっとしたネタバレになる話を言っても良いでござるか】


 オタクあるある、ネタバレ要素を気にする。でも今はそんな気遣いいらないって!


【この物語、主人公が18歳で攻略キャラクターと結婚してハッピーエンドとなるんでござるが、今主人公は17歳なので、あと1年しか猶予が残されてないでござる】

「それって結構ヤバい?」

【ヤバヤバでござる。普通ならこの時期になればルートが確定してるので、やることが少なくてどちらかと言うとマンネリ状態になるんでござるが、しかし朝日奈氏は全キャラのパラメーターを変動させるために動かなくてはならないので、多忙でござる】


 そ、そうでござるか……。


【とにかく朝日奈氏!】


 磯貝は大声を上げる。


【朝日奈氏が今早急にするべきは、どのキャラを攻略するか決めることでござる!】

 

 

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