【欺】第35話 火垂るの墓 場
さわやかな朝日がブラインドから差し込む。
出勤早々、仰天する馬場とおでんだ。
ピカピカに整えられた事務所のデスク。そして宮武の手にはぞうきんだ。いつもと違う様子に馬場は余計なことを言う。
「宮武さんが事務所をきれいにしているなんて、どういう風の吹き回しですか!
五月病にしては早いですし。もしかしてアルコールが頭にも回っちゃいました?」
頭にもって何なんだよ! 宮武はぞうきんをにぎりしめる。
続いておでんも暴言だ。
「この前、呪いのテレビを見た影響ですか? もしかして取り憑かれたんだったら、このままがいいんですけど」
あれは呪いじゃないぞ、おはらいだ! 歯をくいしばる宮武だった。
それにしてもこちらがひどく悩んでいるときに二人はのんきかよ! その上、やけに楽しそうじゃないか? 鬱々とした殺意が湧き上がるには充分だった。
いきどおる宮武。顔も見たくないと近くのクリニックへ出かける。もちろん、二人には怒りを隠しつつも体調が悪いと吐き捨てただけ。ただ、クリニックの前には張り紙だ。主治医は駅へと向かったという。
突然の休診日。ガラス越しに見えるのは昼間だというのに薄暗く、非常灯のみが光っていた。
宮武はついに感情を爆発させる。今度はこちらが暴言だ。
「どいつもこいつもふざけるなよ!
あの汚れた『駅の子』、『駅の捨彦』たちを診にいくとはよほど狂っている。絶対、なにか感染するぞ!」
入り口のトビラにツバ。さらには罵声がすり抜ける。
すると、ゴソゴソ……。 中から聞こえてくる小さな物音に気づく。もしかして助手でも残っていたのか? だとしたら、非常にバツが悪い。宮武は恐る恐るつま先を上げてのぞきこむ。ただ、すぐに呼吸が止まってしまった。
目の前。木でできた薄暗いクリニックの靴棚。そこに蠢く雑食獣。空をいいことに、ネズミの大群が湧き出していたのだ。そのギラついた目。やけにふくよかな体つき。そして、奇怪なことに人肌のようなかけらをくわえていた。
たじろぐ宮武。昨晩から見てはいけないものが見えるのか? 全身に鳥肌。その上、靴棚の奥から人語がかすかに聞こえてきた。
「えきにもどりたい………」
ゴクリッ、まさか………? 小さな子どもの声だった。宮武の顔面には一気に大量の汗。そして、おぞましい想像に取り憑かれる。
もしや、バラバラにされた子どもが食い散らかされているとでも。宮武は必死に目をこすった。次に目を開けたときには影もかたちもなく、足裏の臭いしか残っていなかった。
令和 1945年 終戦
地獄はすでに知っている。
戦前が地獄の一丁目。
戦中が地獄の二丁目。
負ければ、戦後に地獄の三丁目が待っている。
屋根が残る主要駅、特に原爆投下予定地だったK駅では空爆の被害がなく親をなくした子どもたちがどこからともなく群れ集まっていた。
晴天下、白い白衣と白いスーツ。松本は遠目で眺める。となりには松倉がいた。
「大きなゴキブリはバイキンのかたまりだ。どぎつい黒いハネ。やけに伸びた触覚。集団でウジャウジャと行動。ときにはすみに居座り、堂々とこちらを見ている」
駅構内では上半身裸の子どもたちが群れる、むさぼる、横たわる。そのほとんどが海水浴が終わった後のように真っ黒くなっていた。
「何を見て、そんなことをおっしゃっているのですか?」
わざと聞き返す松倉だった。
「別に悪い夢のことだよ。ああいうものは客観的に、遠い目で観察するのが一番さ。
ホラホラ、むき出しの眼。弱々しい手に、震える指先だ。でも、どうしてそこへ同情したら最期だよ。少しでも与えようと思ったら骨までむしり取られる。あの捨彦たちに二重三重と物乞いされたら、もう逃れなくなる。
だから、絶対に手渡さないこと。ちゃんと投げるんだ」
ゴキブリのように住みつく子どもたちの数々。それがどっと息を吹き返す瞬間が同情というご馳走だった。
駅から降りた乗客たちは当然、明日が来ると思っている。そういうのんきな
体格差も関係ない。集団で囲めば、それだけで外から見えなくなる。主犯が誰だか見えなくなる。手足をちぎり、衣服をむしり、押しつぶそうと押し殺そうと関係ない。自分たちが生きるため。厳しい環境下になればなるほど本能が『生きろ!』と訴えるのだ。
傷害、殺害、病死、壊死。恩を仇で返すとか、そもそも恩を知らない。泥水をすすり、砂に転がるアメをなめ、食べ残しをあさる。
ただ、取っ手付きのコップは大事にしている。それだけあれば熱いものでも冷たいものでも飲めるから。
裸の上半身には赤い斑点。ぞうきんのようなやぶれたズボン。足もとには足指が空いた靴。そこからむせあがるタマゴが腐ったような激臭だ。誰もが小便臭く、鼻をかむのも尻をふくのも紙はない。例え、笑顔も虫歯の悪化で鼻をもぐような口臭だった。
げっそりとほほがない表情。髪は白くボサボサで一度かきむしれば、ノミやシラミでご飯茶碗いっぱいになってしまった。
そんな目も当てられない彼らにもなにやら救いの手だよ。
松本はジープの音に振り返る。
「………餌づけの時間だ」
絶望の二丁目、戦争末期。
本土への空爆が近づき、都市部の子どもたちへ
農村では働き手が兵士にとられ、労働力不足が深刻化。それをおぎなうためにも都市部の子どもたちを強制移住。その上で次の兵士を育てる。一億玉砕計画の一部であった。そして、疎開先で親を失った子どもも『靖国の御霊』として面倒を見られることになっていた。
そこからの三丁目だよ。終戦を告げる玉音放送。
暗雲が大嵐に。デッドゾーン、無秩序へと突入する。信用としてのお金は紙に成り下がり、あろうことか物々交換。
仕事は? 食事は? 誰も知らない。許されること、許されないことがまったくわからない。そんな中、布団だけ持ってきた疎開の子どもたちなど邪魔でしかなかった。
当然、与えるご飯もない。困った子どもたちは山で川で他人の庭先で畑で果実をあさるのだ。それが見つかり鉄拳制裁。顔が変形するほど殴られる。
戻っても治療? ありはしない。無視、もしくは追い出す口実だ。もう、靖国の代名詞はない。犬でも猫でもない。ただの間借りのゴキブリだ。教育、しつけすら忌々しい。
けれど、そこはご近所付き合いだ。意識が飛ぶほど往復ビンタ。昼でも夜でも24時間、どこかで野垂れ死ねと罵声はあれど再度謝ってこいと言い渡される。その帰り道。同じような年齢の子どもたちにののしられるのであった。
もう、渡された布団で寝たこともない。その上、疎開時の100円ちょっとの持参金も奪われる。
大きな声でのかげ口は当たり前。顔を合わせれば、虫唾が走るとひたいにシワを寄せている。こうして極限状態に置かれてた子どもたちは命からがら駅へ逃げるしかなかった。
そんな子どもたちへお菓子を配る大人の手。バレンタインか? いやいや、慈善だと思うなよ!
それは巧妙なプロパガンダ(広く触れ、知らせること)であった。
「昔からタダより怖いものはないっていうね。
進駐軍はそんな子どもたちに教育を施したんだ。お菓子をたくさん配ることによって、次世代に恨みを抱かせないためにもね。
そして、その喜び勇む写真をアメリカ本土へ送る。おかげで『この戦争は正義だった! 解放だった!』とアピールできた」
ざまあみろ・落ちぶれたな・見る影もない・イエローモンキー
北から南へ、東から西へと嘲笑が感染する。こうして戦争孤児・捨彦たちのひざまずき乞い焦がれる姿が全世界へ流れていった。
ただし、忘れてはいけない。手っ取り早くお金持ちになりないなら、いち早く流行にひざまずき笑顔で受け取ること。プライド、様子見、関係ない。底辺の砂利と冷たいコンクリートをはいながら、その姿こそが次のダッシュを可能にする。
もちろん待合室で冷めた体温。自然落下し、自分の心音を聞きながら死を待つこともある。しかしその冷めた心臓を自力で動かし、汚泥の中で産まれた怪物こそが次の日本を引っ張った。
進駐軍へかしづき、闇市で法外に売りさばき、薬物を打ちながら馬車馬のように働いた。罵倒、犯罪、感染。知ったことか! もともと名前はゴミ箱に捨てられたんだ。もう、重力の言いなりだけはならない。 死んでから充分に横になると誓った。
松本はゆっくりと歩き出す。
「進駐軍に言いなりの政府は何百人とふくれ上がった駅の捨彦たちの排除を決定したんでね。それは見栄えや感染症もあったかな。
そして僕は排除に協力するんだけれど、いつの時代も政府の決定には必ず結果を出さなければならないって。まったく面倒だよね」
身柄は松倉が無償で受け取るという。彼は多くの人足をかかえているので、その中には犯罪者も含まれるという。その上で全身整形をお願いされた。同じ顔の村をつくるという。実に興味がそそられるよね。
やおら、松本は大きな子どもにお菓子を渡した。
「明日には十人ぐらいそろえておいてくれるかな? 頭数がそろっていたら、次は駄賃をやるからね」
彼はうなずく。
「まかせておけ。小さいやつでも、死にそうなやつでもゴロゴロいる。
だけど、そのコジイン(孤児院)ってのはどんなとこだよ? どうせ飯もなく首輪をつけるところだろうよ」
大人が連れて行くところなど、信用できるか。しかし、抵抗むなしくあの手この手でその数を減らしていくことになる。多くの泣き声と悲鳴の影。または強制的に排除され、安全で快適なK駅へと戻っていった。
地獄の一丁目、戦前の過信。
あの玉音は何だったのだろう? 変わりにアニメの主題歌が流れる。
あのジブリ作品もTVを卒業。
いつしか赤い羽根も胸から消えた。
改札口を抜けると、メタバースの
どうやら売店も盛況だ。日本人形、日本刀、日本のコテコテお土産品。古都だの、情緒だの、日本の原文化だとはやし立てるが、どうしてどうしてキラキラしている。
そして、良い匂いもいらっしゃいだ。ほとほと困るのはどこにもゴミ箱がないことぐらいだよ。目線を上げれば新旧、目移りする看板が誘ってくる。
ただ、重力のないものばかりだった。ふと、遺柱に背を預けてみる。そして力なく、横になってみた。すると、そこにはネズミがいたんだよ。
やっぱり丸々、太っていた。なにやら子どもの指もしゃぶっている。小さな足の骨も。血色のない人肌も。そして、駅の捨彦たちの亡骸も。
夕暮れ間近。目線に気づいたネズミは縦横無尽に走り去る。楽しげな観光客の靴をぬって駅を後にしていた。
もうすぐ、夜のとばり。火垂るがLEDに変わっていく。
黒いバター R シバゼミ @shibazemi
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