【欺】第29話 スパイ誕生

 李が館長室から退いて数分後。後ろへ声をかける甘粕だった。

「………もう、出てきていいぞ」

 クローゼットの奥。かくれていたのは同じくスパイの岡本だった。


 映画やアニメで慣れ親しんだスパイという職業。だが、その能力はやはり常人離れしていた。

 大胆かつ繊細に。

 主な言語は聞いただけでしゃべれるほどであれ。ただし、理解はさとられるな。常に無能な印象を与え続けろ。油断をさそい、雑談や集会で何気なく同調するのだ。

 また、涙もろく友愛的であれ。怒りっぽく感情的であれ。しかし必要とあれば、敵のくつをなめるほど従属的に、味方の目玉をつぶすほど非人道的に。


 そして、並以下の身体能力も必要だ。

 熱さも寒さも感じない。えもかわきも感じない。一晩中、心音を数えていられる鈍感力。その上で、自らの心も体もいたわるな。それぞれの欠損けっそんはときとして同情と尊敬の対象になりえる。そこに情報と信頼が集まるものだ。 

 有名な忍者はスパイではない。無名こそ最強だ。


 当時の日本の諜報機関はすさまじかった。東洋の島国が帝政ロシアを崩壊させる破壊力。一騎当千以上、一人でも何万人もの活躍をみた。が、そのためにお互いが足を引っ張り合い自滅した。

 第二次世界大戦。なぜ、日本が悲惨な焼け野原になったのか? 小野寺はロシアの裏切りを再三再四、本国へ伝え、同じ王室のスウェーデンに仲介を頼もうとしていた。つまり知っていて、なお歴史は動かなかった。



 この世に、超人や天才がいるのだろうか?

 少なくとも本人に自覚はない。ただ、黙々と生き抜いてきただけ。岡本はつぎはぎの頭皮、半分飛ばされた脳みそを軍帽で隠していた。

「あの女。完全に俺の存在を気づいていたぞ。処分した方がいい」

 岡本の助言だ。甘粕は顔をしかめる。

「よく言うな。おまえがわざと彼女に気づかせたんじゃないのか?」

 お互いが疑心暗鬼。ただし、同じ目的で動いている。それは松倉の監視だ。もっとも甘粕は先輩の宮武より、岡本は教頭の鈴木より、それぞれ依頼主が異なっていた。


 まだまだ40℃を超える館長室だ。それでも、岡本は気さくに話しかける。

「このクローゼットまで開けていたら即、殺していたな。

 さあ、情報交換といこう。おまえの返事次第で、あの女の命が決まる」

 なるほど。初歩的なおどしだな。

 しばらく甘粕は背中でイスをゆらしていた。


「いいだろう。確かに今回はきそい合いではないからな。

 まずはターゲットの松倉だが、冬場であっても目の前の山へ何度も何度も足を運んでいる。そしてかなりの人も運んでいるが、その後に誰か降りていくところを見たことがない。

 山への重機や資材の持ち込みはないな。

 降りていくのは松倉だけという気味の悪さだ。おかげでにわかに禁足地だの、山の祟りだの、よからぬウワサが広まっているよ」


 目を細める岡本だ。

「ハッ、畑でも作っているのかね。最近、麻薬中毒者が市中で急増しているらしいがな。他に、スラム街の貧困者たちが姿を消しつつある。

 おまえも知っているだろ。見せしめに、少女の焼死体が発見された」


 館長室は50℃を超える。

 逆に李が持ってきてくれたお茶は落ち込むほど冷めてしまった。

「ああ、そうだったな。かわいそうに。

 燃えるとは、永遠に復活できないことを意味する。キリスト教もしかり、むしろ歴史は土葬がポピュラーなんだがな」

 岡本がいぶかしむ。

「? ………なぜ、埋葬の話をする?」

 ここで一気に立ち上がり、満面の笑みを浮かべる甘粕だった。

「どうやら時間だよ! 

 おまえが姿を隠したクローゼットには気温が上昇すると、発火する液体をしみこませておいた。

 俺たちがなれ合うことは決してない! 最後に、別れの水をかけてやろう」

 クッ、グソッ、ワナだったか!

 軍帽が落ちる。ところどころで発火にいたる。

 岡本の目には冷めたお茶。おかげで蒸発。前が見えない!

 イスつかみながら倒れていく岡本だった。。。



 あああ、深い夢なのか? それとも不快な夢だったのか?

「そろそろ起きてください。休憩の時間は終わりですよ」

 ふと、大量の水をかけられる岡本だった。驚いて目を覚ますと、まったくあのころの光景が広がっていた。

 どうやらこれは走馬灯そうまとうかもしれない。私がスパイになった日とあまりに似ていた。


 イスに座らせられたまま、手は後ろでしばられ、足はイスのあしと一緒にくくりつけられていた。

 日が差し込むほどの、ボロ小屋。朝、夕、決まった時間に大量の水をかけられる。つまり、水責めだ。


 舌切、抜歯。それに比べて、生やさしい拷問ごうもんか? いや、そうでもない。 

 まずはぬれた体で低体温症だ。全身はこごえ、アゴはホチキスのようにカタカタとふるえ出す。耳の奥では水が残り、鼻をかむことすらままならない。

 着衣は水分を吸収し、髪はずっと生乾き。くちびるは血液の止まった死化粧しにげしょう。そうだ。

 鼻もきつい。水は腐ると悪臭を放つ。しゃっくりは止まらず、横隔膜おうかくまくは緊張。筋肉はきしみ、極度に硬直こうちょくが続くのだ。

 おかげでコリや痛みで眠れない。手足がしばられているため、血流が届かず、冷えに冷えて、動かすことすらままならない。そのため逃げ出すことは初日で不可能と知ってしまった。


 そうだ、このなつかしい痛み。

 急に、髪を真後ろへ引っ張られる。おかげで首が90度も曲がってしまった。

「おまえか! 

 小隊を率いて天皇陛下に砲口ほうこうを向けるという、前代未聞のクーデター※を起こした張本人は!」

 そうだ、思い出してきた。

 世界では当たり前の徴兵制。

 国を守る意識が高まるという。だが、働き手がいなくなるという欠点だ。反比例して農村は干からびていった。


 拷問官は岡本の頭皮ごと引きはがす。

「何とか言ってみろ! そうか、英雄気取りか? そんなに目立ちたいのか?

 虫唾が走る!」

 ゴホッ! 汚いタンが岡本の口に投げ捨てられた。


 そうだ、この嫌な歩き方。

 前では早く、後ろではやけに遅いスピードで。拷問官は岡本を中心に回り始める。

「フンッ、まだ無言か。

 しかしな、この竹橋事件。裁判もなく、たった数日間で394人を処罰しょばつ、55人を銃殺じゅうさつで終わった。歴史にも残さんよ。

 この意味がわかるか? おまえは元から生まれてなかった!」

 

 そうだ、失敗だ。

 しかし、これは憲法をつくる前に起こった。だからこそ、これを元凶にした。

 あさはかな議会が軍を操ったら大変なことになる。軍を独立させて、天皇の直轄にしよう!

「望むところだ」

 にわかに、岡本の声が笑う。そこに拷問官が気づかないわけがない。

「なんだ、まだ元気じゃないか。

 だがな、今までかぶってきた水。あれはおまえの仲間たちがもらした小便だ。

 数日間、かかった。

 歯を全部、折ったからな。空腹のまま、死んだ後も食べさせないようにな」

「何をバカな!」

 思わず言葉が出る岡本。今度は拷問官が笑う番だ。

「んん? 大丈夫、心配するな。

 おまえは簡単に死なせないから。もちろん、歯も抜かんよ。なぜなら、死んだ仲間たちの心臓を持ってきた。さあ、腹も減ったろ!」


 岡本のひざの上には心臓の山が置かれる。

 やつれたヒキガエルのような有様だ。さすがの岡本もゾッとした。

「んん? 好き嫌いはいかんな。さっきまでの大言。もう一度、うたってみろよ」

 

 そうだ、この冷たい感覚。

 岡本の上くちびるにペンチがかかる。目と目の間。ゆっくりとめくっていく。ビリビリと痙攣けいれんが走り、脳内をかけめぐった。

 続いて下くちびるもペンチをかける。また、ゆっくりと。顔は十字を切るようにかれていった。


「整形も悪くないですね。これぞ、芸術作品です!」

 いつの間にか、拷問官の顔が松倉に変わっていた。


 そうだ、以前は農村の英雄。

 しかし顔を変えた岡本は朝鮮に渡り、軍事顧問として傾国を見つめた。

 誰も自分がどんな顔をするのか知らない。


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