エッセイのようなもの

春爛漫あやせ

亡霊と妄想。

 先日、ピアノのコンクールのためにホールを借りた。そのコンクールは二次審査が映像を撮って送るというもので、そのために借りた幾つかのホールの、最後に借りていたのがそこだった。

 ピアノのメーカーがいいという理由でわざわざ借りた大ホールだったので、ピアノの音はとてもよく、母が途中で帰ったので広いホールに一人きりなのを少し寂しく思いながらも、気持ちよく弾いていた。ピアノをやっている方はご存知かもしれないが、ベーゼンドルファーというメーカーの、低音がよく響く豊かな音のピアノだった。高音も柔らかく澄んだ美しい音色で、それが大ホールの高い天井に反響するのをやや陶然として聴きながら、そろそろ録音しよう、マイクをオンにしようと思い、立ち上がってふと上を見上げた。

 人がいたのである。

 お分かりだろうか、席が向こうの方まで続いているその終わりに、ガラス張りの窓があって、恐らくそこにまた席があり、そこに座ってこちらを見ていたのである。女の人のようだった。何しろ遠かったし、目が悪いのでぼんやりとしか見えなかったが、三十代から四十代の女性に見えた。私はびっくりして、「え?え?」と言いながら何回も見直したが、やっぱりその人はそこにいた。

 さあ困ったな、出演者と関係者以外立ち入り禁止の札が楽屋前に立っていたから、何かコンサートでもあるのかと勘違いしたんだろうか…。いやいやコンサートなんてそんなすごいものではない、ただのアマチュアピアノ弾きの自撮りである。その証拠に、お客さんはあなた一人ですよ。

 どうしよう、あそこまで行って説明してこようかなと迷ったが、結局やめにした。一人だし、すぐ出ていくだろうし、まあいいかと思った。もしかしたらコンサートを最期に聴きたくて聴けなかった、どこかの亡霊かもしれないしね。

 そうして録音しながら弾いていると、あの存在も悪くないなと思えてきた。誰にも聞かれていないと、だんだん飽きてきて演奏が投げやりになってしまう。といって、聴いている人が多すぎても、緊張して上手く弾けない。その点あの人は一人だし、遠くだし、ちょうどいい緊張具合だ。もちろん、何度も弾き直したりして練習するのに遠慮はしないが。

 その人は多分全然知らない人だったが、その人だけに向けて演奏していると、妙な親近感が湧いてきた。遠くだからかもしれない。近くで聞かれると、ある程度親しい人でも、緊張や照れで「その人に向けて弾こう」という意識は薄れてしまう。喋ることもなければ相手の顔も見えないから、生まれる親近感。こういうことって、他にもあるのかしら。

 もう一度見上げると今度は小さな女の子のように見えた。あれ?と思いつつも、見つめると気まずいので、練習を再開。

 その人を見つけてから大分時間が経ち、すっかりその人の専属ピアニストのつもりで弾いていると、いつのまにかその席は空になっていた。それに気づいた時の、胸を突かれて、あ、と声が漏れるような感じがたまらなかった。驚きと、拍子抜けしたのと、寂しさ、悲しさも少し、入り混じったもので作られた小さな棒が、胸をとん、と突いたような感じがして、少ししか同じ空間(?)にいなかったし、話してもいないのに、おかしな話ではあるが。

 そうか、帰ったか…と一人頷いて、ほんとに一体どこの誰だったのかしら、本当に亡霊だったのかもね、と冗談めかして考えた。そう言えば、最初とさっきで全然違うふうに見えたけど、もしかしたら、生前にコンサートを聴きたかった亡霊たちがくっついてできた集合体だったかもしれない、あれは。

 私は気を取り直してまた弾き始めた。ああやっぱり素晴らしい音色、でもやっぱり何かが足りない…。今は誰も聴いていないと思うと、退屈してきた。どうしてだろう、いつも聴いている人がいると緊張するから一人が好きだったのに…。これも、承認欲求の一種?

 あー飽きてきちゃった、と思いながら一通りだらだら練習して、そろそろ録音するかと思って、ふと見上げると、

 人がいたのである。

 さっきとは違う、三十代くらいの眉毛のくっきりした女の人に見える…。本当に亡霊だったの!?という考えが頭をよぎって、「またなのか!」と言いながらも、少し嬉しい。また、弾いてやるか、くらいの気持ちで録音した。二回くらい弾いて、また見上げると、いなくなっている。一体何者なのか。

 なんて、好き勝手に書いているけど、あちらだって私のことを妄想で小説なんかに書いているかもしれない。例えば、コンサートを開くぞと意気込んで大ホールを借りたはいいけど、一人もお客が来なかった学生ピアニスト。理由は、練習していたら宣伝する時間がなくなってしまったから。どうせ誰も聴いてないんでしょ、と好き放題にピアノを弾き散らす。それをひっそりと見ている視点人物…。この人も、私も、勝手なものだ。まあ、ちょっと書いてみましょうか。


 彼女は何者の目も気にしていなかった。それ故に無邪気な獣のように奔放だった。バロック時代の和音がホールの空気を余すところなく振るわせ、I度の和音が鳴り響くとまもなく、付点音符のダンスが始まって、突然静寂を切り裂くスフォルツァンド、上に下に転がり回るトリル、次の瞬間もやの向こうで瞬く高音の長2度和音、あちらこちらで閃くきらめきはグリッサンドのような音の連なりで消え去る…すると堅実な和音が


 もう、やめよう。自分の演奏を他の人が見たものを自分で妄想するなんて、正気の沙汰じゃない。特にそれが脚色されてる場合は。ほら、よくわからなくなってきたでしょう。

 やがて時間がなくなって、「後一回だけ!」と粘ろうとして、スタッフの人が来たのでできなかった。それから、忘れ物をしたりしてバタバタガタガタ、やっとのことでスーツケースを引き引きロビーに出て行くと、妙にこちらを見ている高校生くらいの女の子が居た。私はピーンと来てしまって、「この子がずっと聴いていたんだ、それが遠くから見ていたから違うふうに見えたんだ!」と思い込んでしまった。瞬時に、なんであんなのをずっと聴いていたんだろう、暇なのかな、なんで暇なのかなとその子に関する妄想が脳内を駆け巡り、ほんとに、勝手なものである。

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