4.知ルニ至リテ咲クハ御標

 スイゼンサマが来るぞ。

 スイゼンサマが来るぞ。

 聞こえてくる声は、老人か若者か、男か、女か。はたと目を開けた瞬間には消えるそれを、一体何と言えばいいのだろう。幻聴というには明白すぎて、現実と思うには遠すぎる。

 大学の研究室へと向かう道すがら、蝉の音の中に木々のざわめきが混じり始める。さわさわとざわめく木々の方を見れば、三十段はあろう石段が続いていた。

 あの日も、茅はこの石段をのぼった。どうしてのぼろうと思ったのかは分からないが、木々のざわめきに誘われるようにして、自転車を止めてふらふらと石段をのぼったのだ。

 今日もまた、自転車を止める。石段の向こう、白い鳥居。その隣に、神社の名前が刻まれた石の柱が立っている。

せいくん、誠くん、あきにいはお腹がすきました。誠くんはどうですか、クレープ食べに行きませんか」

「それ、あきにいが食べたいだけじゃないの。俺べつにどっちでもいいよ」

 見上げた石段の上から、声が降ってきた。ひとつは穏やかな青年のもの、もうひとつは子供特有の少し甲高いもの。

 神社の石段の途中で、青年が子供に視線を合わせるようにして話しかけていた。子供は話しかけてきた青年の顔を一度見て、ふいっとそっぽを向いて石段を駆け下りていく。

 まだ新しそうな、黒いランドセルが跳ねていた。

「どうせあきにいは、まだサツジンジケン調べるんだろ」

「それはそうですし気になっているから仕方ないんですが、お腹がすいたんです。誠くんが食べたがっていたという大義名分があれば、母も文句は言いません」

「なんだっけそれ、俺知ってるぞ。そうだ、お姉ちゃんが言ってた。俺をだしにするって言うんだって」

 石段を駆け下りた子供が振り返り、石段の上に向かって達者なことを言っている。子供の告げた言葉の中にあったものを拾い上げて、茅は石段をのぼろうと進めていた足を止めてしまった。二段目に足をかけた中途半端な状態で、隣をすり抜けた子供を見る。

 サツジンジケンと、彼は言った。つい最近あった殺人事件といえば、間違いなく藤江菜摘のものだろう。

「こら、誠一郎せいいちろう。そうやって覚えたことばを得意げに使って、意味も分かっていないのなら止めなさいっていつも言っているではないですか」

 ゆったりと青年は石段を降りてきて、待っていた子供の前に立つ。またしゃがみこんで視線を合わせて、口調もばかに丁寧だ。

「あの」

 石段をのぼるのを止めて、茅は彼らに歩み寄る。声をかけたことで茅を見た彼らの目は、子供は警戒心をあらわにしていて、青年は何もなくて、少なくとも歓迎はされていない。

 それでも、茅も困っているのだ。多分今でも警察は茅を疑っているし、きっと犯人に繋がるものが見付からない限り、もっと疑わしい人物が現れない限り、茅の疑惑は晴れない。

「すみません、殺人事件と聞こえたもので。藤江菜摘さんの、事件でしょうか」

「いいえ? そんな新しい事件には、僕は興味がないので」

 青年は困ったように首を傾げていた。子供はその後ろに隠れて、それでも顔だけ出して茅の方を観察している。

 なんだか、そういう動物のようだった。警戒しているのに、完全に無視はできない。

「僕、今生きてる人間が起こした殺人事件には、興味がないんですよ」

「では、何を……? 時効になった事件、とか?」

 新しい事件には興味がない。今生きている人間が起こした殺人事件には興味がない。青年のことばを茅なりに解釈して出した問いに、青年は嬉しそうに笑ってくるりと回った。

「あ、聞きます? 聞いてくれるんです? ねえねえ誠くん、暁にいはこの人と少しお喋りをしようと思うのですが、いかがですか」

「好きにしろよ、もう。あのさあ、俺知らないからな!」

 びしりと子供が茅を指差し、それから彼は石段の方へ行ってしまう。何をするのかと思えば彼は石段の一番下に腰かけ、ランドセルをその隣に降ろしていた。

 ぱかりと開かれたランドセルから出てきたのは、大きな国語の教科書。表紙には、『こくご二』と書かれている。

「僕、こういう者です」

 目の前に差し出された名刺を、反射的に受け取る。どうやって受け取るのだったかと一瞬考えてしまったが、青年は自分の名刺を片手で出してきたのだし、受け取り方を気にするようなこともないだろう。

 真っ白な長方形の紙の真ん中に、角ばった書体で名前がある。

一色いっしき栄永さかえ?」

「あー! あきにい、またうそつきしてるんだろ! ほんとの名前じゃないのに!」

 茅の声に気付いた子供が、教科書から顔を上げて叫んでいた。

 もう一度名刺を見てみても、やはりそこには『一色栄永』という文字しか並んでいない。けれど確かに子供は「あきにい」と彼を呼んでいて、ここには「あき」という文字もない。

「嫌ですね、誠くん。これも暁にいのれっきとしたお名前なんですよ? 壱岐いき彰浩あきひろの名前で小説書くのは、恥ずかしいじゃないですか」

「知らないよそんなの」

 どうやら彼は小説家で、本名は壱岐彰浩。ペンネームが一色栄永。そういうことだろうと茅は勝手に結論付けて、深く考えないことにした。

「とりあえず、一色さん? で、よろしいですか」

「よろしいですよ。まあ別に壱岐彰浩でも何でもいいんですけど、そんなのは」

「はあ、そういうものですか……ではどうにも落ち着きませんので、壱岐さんとお呼びしても?」

「どうぞどうぞ」

 彰浩は本当に気にした様子はなく、何と呼ばれてもいいのは本心なのだろう。ペンネームで呼ぶというのも落ち着かずの提案だったが、軽く了承を得られた。

 さて、と彰浩は石段の上、神社の方を振り仰ぐ。

「この神社、なんていう名前か知ってます?」

「え、いえ……」

 鳥居の隣に、神社の名前が刻まれた石の柱があったことは、記憶にある。けれどそれが何であったのか、茅はさして気にも留めていなくて覚えていない。

 あの日、ふらふらと石段を上がった。木々のざわめきと、ちょろちょろと流れる手水場の水の音だけが聞こえていた。

水際ミズギハシルベヨスガ手繰タグセ、ルニイタリテクハ御標ミシルシすなわちこの神社を、知至咲しるしさき神社とす」

「しるしさき、じんじゃ」

「そうです。そしてこの神社には、スイゼンサマが祀られています」

 スイゼンサマが来るぞ。ひたりと、冷たいものが首に押し当てられた気がした。

 民間伝承のたぐい、幽霊とか化け物とか、そういうもの。三砂は確かにそう言っていたが、祀られているということは、神ではないのか。神と幽霊と化け物が、茅の頭の中ではどうにも繋がらない。

「僕は、を調べているんですよ」

 じいじいとアブラゼミが鳴いている。じりじりと照りつける太陽の下、彰浩のことばはおかしくて、けれどお前はおかしいなどと茅は一笑に付すことはできなかった。

 スイゼンサマが来るぞ。

 もしもそれが神だというのならば、そのことばはもっと嬉しそうなものではないのか。それとも、スイゼンサマとは来てはならない神なのか。

 首に手を当てる。まだ繋がっている、落ちてはいない。

「スイゼンサマは何か……悪い、ものですか」

「さあ? そこはまだ僕も調べている最中ですので」

 あの日。

 吸い込まれるように神社の石段を上がり、それから茅はどうしたのだったか。最近は夢見が悪いせいもあって、どうにも思考がまとまらない。こんなことでは、研究もまともに進んでいかないというのに。

「スイゼンサマの、殺人事件」

「何かご存知ですか?」

 問われて、茅はゆるりと首を横に振る。何も知らない、本当に。

 民間伝承である。幽霊というか化け物というか、そういう判然としないものである。茅が三砂の言葉から判断したのは、本当にそれだけだ。

「いえ、自分は……何も。スイゼンサマというのがこの辺りの伝承だというのも、先ほど聞いたくらいで」

「それ、誰から聞きました?」

「警察の方です」

「そうですか」

 彰浩は少しばかり考え込むような顔をして、神社の方を見上げた。茅より背の高い彼が見えている景色は、茅とどれくらい違うのだろう。

 人によって、見えている景色が違う。景色が違うということはきっと、認識している世界が違う。茅が興味のないものに、誰かが興味を持つように。

「スイゼンサマは、首を落とすそうですよ」

 ひたりと、冷たい。

「どんな人間の、首を……?」

 スイゼンサマが来るぞ。スイゼンサマが来るぞ。

 藤江菜摘の遺体は首がなく、遺体はトランクケースに詰め込まれた。誰がどうしてそんなことをと思う反面で、スイゼンサマは果たして何も関係がないのかと考える。

「こうべをたれねば首落とす、だそうですが」

 夢の中、茅は頭を垂れなかった。走って逃げて転んで、振り返って、見上げてしまう。そうして首が、ごろりと落ちる。

「果たして本当に、そうでしょうかね」

 彰浩の声は、少しばかり遠い。それではこれでと一礼した彼に、どう返答をしたのかも分からないまま、茅はふらりと足を進めた。子供と共に彰浩はいなくなり、また蝉の声と木々のざわめきだけが聞こえてくる。

 ただ、惹かれるように。その石段の一段目に、茅は足をかけた。

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