3.藤江菜摘

 つうと伝ってきた汗が目に入りそうで、まばたきをする。ぎらぎらと照りつく太陽がアスファルトの道を焼いていく。

 藤江菜摘、やはり知らない名前だ。それなのにどうして、そこに茅の財布が落ちているなんてことになったのか。犯人が拾って、茅に罪をなすりつけようとでも思ったのか。それはそれで見ず知らずの人間からの仕打ちに腹を立てていいのか、呆れればいいのか、茅にはよく分からない。

 警察署から住んでいるアパートの部屋までは、徒歩で二十分くらいある。帰りも車に乗せてくれれば良いものをと考えて、三砂に言ってみれば良かったのかとため息をついた。

 山の中に捨てられていたという藤江菜摘の遺体。財布がどこにあったのか知らないのかという三砂のことば。

 巻き込まれた、というのが、一番正しいのだろうか。茅の落とした財布を、犯人が拾ったばかりに。そもそも茅は山には行っていないし、財布を落としたのは街中にあるスーパーからの帰り道だ。そこから財布が勝手に山へと向かうはずはなく、やはり誰かの手で運ばれたとしか考えられない。

 夏休みになって、教授の手伝いもなく、ようやく自分の研究に集中できるかと思っていたのにこの仕打ちだ。一体茅が何をしたというのだろう。

「あっ」

「え? あ、すみません!」

 そうしてぼんやりと歩いていたのが悪かったのか、すれ違う人と肩がぶつかってしまった。それほど強くぶつかったつもりはなかったが、相手がバランスを崩してアスファルトに尻餅をつく。

 ばらりと彼女の茶色いハンドバッグの中身が散らばった。財布に、化粧品に、ハンカチとティッシュ。ストッキングに包まれた足の先、ヒールの高い靴が片方脱げている。

 転がった拍子に蓋が落ちてしまったのか、赤い口紅が先を出したまま転がっていた。その近くにある丸い鏡は、幸いにして割れていない。

「大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫です。こちらこそ、ごめんなさい……」

 しゃがみこんで散らばった中身を拾い集める。付近に散らばっていたものをハンドバッグの中に入れて、ようよう立ち上がった彼女に「中身に不足がないか確認してください」と手渡した。

 なまぬるい風にのって茅の鼻に届いたのは、白粉のにおいか。

 なんとも細いヒールが体重を支えていて、折れやしないかなどと考えてしまう。何センチあるのか、それのせいか、おかげか、彼女と茅の背の高さが同じくらいになっていたらしい。

「あ! ああ、なんてことを!」

「何です?」

 茅を見て、彼女が悲鳴のような謝罪を口にする。そんな顔を見られただけで謝罪されたり怯えられたりするような造作はしていないと自負しているし、そんな反応をされたのも初めてだ。

「シャツが」

「シャツ?」

 いつも茅が着ている、白いリネンのシャツ。その肩口を示されて、茅もそちらへと視線を落とした。

「ああ」

 肩口に一本、引いたかのように赤い線がついている。

「ごめんなさい、私が歩きながら化粧を直そうだなんて、横着なことをしたから……」

「別に構いませんよ、これくらい。同じシャツは何枚か持っているので」

「駄目です! 弁償します!」

「いや本当に、安物なので……」

 そもそもぶつかったのは茅のせいでもある。考え事をしながら歩いているから、彼女を避けることができなかったのだ。彼女ばかりが悪いはずもなく、弁償をしてもらうほどのものでもない。

 ここで言い募ってもらちが明かないかと、そのまま背を向けて去ろうとする。けれど茅のシャツの後ろが強い力て引っ張られた。

「せめて! せめてお金を……」

「ですから、大丈夫です。本当にお気遣いなく」

「駄目です!」

 これはどれだけ茅が固辞したところで、彼女は納得しないだろう。この分だと逃げ出したとしても、探し回られる可能性がある。

 それならばここで変に茅が断り続けるよりも、折れてしまった方が早いし彼女も納得するか。

「……分かりましたよ」

 そんな打算的なものを含めて、茅は渋々同意した。その言葉で彼女の手が離れたようで、茅はため息をついて振り返る。

 シャツの裾は、きっと皺になっているだろう。どうせアパートに戻るのだ、研究室に行くにしても着替えはできる。

「あ」

「はい?」

 ごそごそとハンドバッグを探って財布を取り出した彼女が、財布を開いてから困ったような顔で固まっていた。

「ご、ごめんなさい、手持ちがなくて、その……」

「それなら本当に結構ですから」

 別にシャツの一枚、茅はどうこう言うつもりはない。お互いに不注意でしたねと、それで終わるだけの話だ。

 そもそも、彼女の方が転んでしまっている上に、荷物も散らけてしまったのだ。どちらかというと何かあった場合に弁償をしなければならないのは茅の方ではないのか。

「私、桐尾きりお菜那子ななこといいます。せめて連絡先だけでも!」

 財布をしまった菜那子はきっと、ここで茅が名乗らずに去ろうとすればまた引き留めることだろう。そんな想像が簡単にできてしまって、茅はもう本日何度目になるかのため息を再びついた。

 連絡先と言われても、アパートの部屋に電話はない。だから名前だけで良いかと、茅はそう自分の中で結論付けた。

「……志津利茅です」

「普段は、どちらに?」

「そこの大学の、汐崎しおざき研究室です。足を捻挫ねんざしていたとか、そういうことがあったらお知らせください」

 菜那子は普通に立ってはいるが、かといって夜になって痛むとか、そういうことがないとは限らない。汐崎教授には事情を説明しておく必要があるなと、やはり内心でまた何度目になるか分からないため息をついた。

 厄日と言うのならば、まさに今日のことだろう。財布を落としたところから続いているのかもしれないが、夢見だって悪いまま。あのスイゼンサマの夢が厄日の要因であるというのならば、スイゼンサマを恨みたくもなる。

「分かりました。絶対、お金を持ってお伺いしますから」

 かつこつとヒールの音を立てて、菜那子が去っていく。その背中を見送ってふと、まるで鳥が歩いているようだと、そんなことを思ってしまった。

 あのヒールは、七センチくらいあるだろうか。歩くだけでも疲れそうというか、茅では立っていることすらできなさそうではある。

 足は大丈夫だろうかとしばらく見ていたら、一度だけ足を捻りそうになって体勢を立て直していた。それ以上は何もなく、あれなら大丈夫そうかと判断をして、茅もまたアパートの方へと足を向ける。

 蝉の声は、変わらない。照りつける太陽も。とっくに正午は過ぎて太陽の高さが最も高くなる時間は越えているが、気温が高くなるのはこれからだ。腕時計を見れば、短い針がそろそろ一と二の半ばあたりにくる。

 衣浦と三砂がやってきたのが起きてすぐだったのだから、随分と長い間警察署に留め置かれていた形だ。知らない相手、やってもいないこと、長々と聞かれたところで言えることは何もないのに。

「藤江菜摘、ね」

 口にしてみても、やはり馴染みはない。今でも名前しか知らない、いや、女性ということくらいは分かっているが、本当にそれだけだ。

 道行く人は暑そうな顔はしているが、耐えられないほどではない。ふと見上げた建物の二階は窓が開いていて、なんとか風を入れようとしているのが見えた。

 アパートにテレビもない、新聞もとっていない茅では、事件というものに疎くなるのも当然のことだった。研究室で雑談をする相手がいれば話は別だろうが、そもそも雑談をするような相手がいない。

「……どうして、殺されたのか」

 自分自身が犯人扱いをされてしまった以上、気にしないというのも無理な話だった。まったく知らない相手とは言え、殺されて山の中に捨てられて、藤江菜摘は何をしてそんなことになったのか。

 歩き続けて、アパートの前に辿り着く。

「あれ、あんた珍しいね。いつも、もっと遅いだろう」

「今日は色々とありまして」

 アパートの隣の部屋の前で箒を手にしていた老人が、茅に気付いて顔を上げた。確かに茅がアパートに戻るのはもっと夜遅くなってからではある。

「あの」

「うん?」

「藤江菜摘さんの事件って、ご存知ですか」

 毎朝、新聞配達員の乗るバイクの音がしている。この老人ならば知っているだろうかと、藤江菜摘の名前を出してみた。老人は少しばかり考えるようにして、ああ、と声を上げる。

「あの、首がなかったとかいう死体か? 何でまた」

「いえ……小耳に挟んで、気になったものですから。テレビもないし新聞も取っていないしで、話についていけなかったんですよ」

「結構な騒ぎになってたぞ? 首はないしトランクケースに詰め込まれてるしで、可哀想なことだよな」

「そうですか……ありがとうございます」

 首がない、遺体。

 ぞわりと寒気がしたような、そんな気がした。老人に一礼をしていつも通りにアパートの部屋に入り、扉を閉めて鍵をかける。

 そのまま、扉にもたれかかるようにして、ずるりと落ちた。部屋の入口は薄暗がりであるというのに、どっと汗が吹き出してくる。

 寒い、そして――首が、痛い。

 スイゼンサマが来るぞと声が聞こえる。震える指先を持ち上げて、ひたりと自分の首に当てた。転がり落ちてはいない、まだ首は繋がっている。それなのにひどく寒くて、そして首がひどく冷たく痛い。

 ひたりと、何か刃物でも当てられているかのようだ。

「……スイゼンサマ」

 三砂はそれを、民間伝承と言った。幽霊というか、化け物というか、というあの曖昧な言葉が思い出される。

 ともかくまずは呼吸を整えなければ話にならない。落ち着けと自分に命じて、何度か深呼吸を繰り返す。そうしているうちに寒気も、冷たさも、痛みも遠ざかった。

 スイゼンサマが来るぞ。

 今日もまた、悪夢を見るのだろうか。自分の首が、ごろりと落ちる夢を。

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