2.スイゼンサマ

 腰かけたパイプ椅子は、ぎしりと軋んだ。目の前には中年の男が座り、若い男が立っている。真四角の机に真四角の部屋、顔を上げた先には向こうの見えない真四角の窓。四角四角ばかりで、息が詰まりそうだった。

 記録係らしき人物は、部屋の片隅でパソコンに向かっている。

 取調室なんてものに入ったことがあるはずもなく、テレビでしか見たことはない。まさか生涯でここに入る日が来るなど、茅は考えたこともなかった。

 冷房が効いているから暑くはないが、だからといって快適なはずもない。

「すみませんが、もう一度言っていただけますか」

「ですから、藤江菜摘さん。山中に死体が捨てられていたんですよ、ご存知でしょう」

「いえ……残念ながら研究室とアパートの往復くらいしかしていませんので。新聞も取っていないですし、どうにもその辺りには疎く」

 何も偽りを口にしていないのに、目の前の男の視線は「嘘を吐くな」と茅を咎めている。

 なかったことを証明するというのは、あったことを証明するよりも難しい。そもそも茅はその藤江菜摘という人の名前すら今日初めて聞いたというのだ、けれどそれを証明する術は何もないのも事実。

「だが、死体のところにお前の財布があった」

「ですからその財布、十日くらい前に落としたんです」

「遺失物の届けがなかったのは?」

「どうせ中身、学生証と本屋のスタンプカードくらいしか入ってませんでしたからね。気に入ってたものでもないし、まあいいかと諦めたんです。学生証は現在再発行申請中ですので、どうぞ大学の方に確認してください。財布落とした翌日に申請したって、さっきも言ったじゃないですか」

 こんなことなら交番に行って届けを出しておけば良かったと、今更ながらに後悔する。自転車で十五分ほどのところにあるスーパーで買い物をして、そのままパーカーのポケットに財布を突っ込んで自転車に乗りアパートに戻って、そこで初めて財布がないことに気付いたのだ。工事中でアスファルトの剥がされている道はでこぼこで、自転車がひどく揺れたからそこでポケットから落ちたのだろう。

 けれど十五分かけてスーパーまでの道を戻ってみても、財布は一向に見付からなかった。どうせスーパーで千円札も使い切って小銭しか入っていないからと、どうしても困る学生証の再発行だけは早々に申請して、本屋のスタンプカードはまだスタンプも少なく、次行ったときに新しいものを作ればいいと思っていた。

 財布を落としただけなのにと、そんなことをぼんやりと考える。けれどそんな茅の思考は、机を叩くけたたましい音で強制的に終了させられた。

「お前がやったんだろうが!」

「ですから、違いますって言ってるじゃないですか! だいたい犯人がそこに財布を落としていくなんて、間抜けにもほどがあるでしょう!」

 人を殺しました。その心理は茅にはよく分からない。けれどそうなったとき、人はそれを隠そうとするのではないだろうか。それとも潔く「自分が殺しました」と警察に言いに行くのだろうか。

 それはよく分からないが、ともかく財布が落ちていたとしたら、それは本当に間抜けだろう。そして人を殺したあとに財布を落としたことに気付いたのなら、必死でそれを探すだろうに。少なくとも、もし茅が犯人ならばそうする。

「……衣浦きぬうらさん、本当に知らなさそうですよ」

三砂みさご

 若い男に声をかけられた中年の男が、深々と溜息を吐いている。衣浦というらしい男は舌打ちを隠すこともなく、茅から視線を逸らすように横を向いた。

「財布、どこにあったかご存知ないんですか」

「ですから、死体のそばに落ちていたんでしょう? 犯人なら間抜けがすぎます」

 三砂と呼ばれた若い男に問われ、そうではありませんかと問い返す。答えの代わりに、彼は肩を竦めていた。

 がたんと音を立てて衣浦が立ち上がり、取調室の扉を開く。

「三砂、お帰りいただけ。また何かあった場合は呼ぶ、分かったな」

「はあ……できれば、呼ばれたくないんですけど」

「分かったな!」

 衣浦は扉のところに立ち、じっと茅を見ている。まだ疑っているような、有無を言わせないような、そんな圧力を感じて、茅は細く息を吐いた。

 これはきっと、首を縦に振らなければこの部屋から出しても貰えなさそうだ。

「……分かりました」

 渋々返答をすれば、ふんと衣浦は鼻を鳴らして、うるさい足音と共に取調室を去って行った。そう不満げにされたとて、茅が犯人ではないのだからどうしようもないだろうに。

 しかしながら、どうして茅の財布がそんなことになっていたのか。拾った犯人がこれ幸いと、茅に罪をなすりつけようとでもしたのか。

「お送りしますよ」

「それは、どうも……」

 三砂に言われ、立ち上がる。座り心地の悪いパイプ椅子にいつまでも座っているような趣味はなく、あちらこちらが痛みを訴えている。

 どうにもこの、パイプ椅子というのはいただけない。いっそ取調室の椅子も、もっと座り心地の良いものにすれば喋る気にもなるだろうに。

 白い蛍光灯が照らす廊下を、三砂と並んで歩いていく。途中で数人のスーツ姿、あるいは制服姿の人とすれ違い、警察官にも色々といるのだなと、そんなことを考えた。

 そもそも警察署になど、普通に生きていたらあまり縁はない。せいぜい運転免許のことか、あるいは落とし物か。けれどそれらも、免許センターや交番で事足りることであって、わざわざ警察署に来るようなこともない。

「変わったお名前ですね、茅さん」

「そうかもしれませんね」

 廊下を歩きながら、世間話のつもりか、三砂がそんなことを言い出した。志津利茅、確かに今まで二十数年生きてきて、同姓同名にお目にかかったことはない。

 そういえばと思い出したのは、部屋で見た三砂の警察手帳であった。あれには顔写真と、それから名前。

「思い出しました。貴方も、お名前」

「ああ、手帳。お見せしましたね」

「はい」

 それほどまじまじと見たわけではないが、あの名前は記憶に残った。何せ今こうして茅の隣を歩く、上背があって鍛えられていると分かる体格の男には、何とも違和感のある名前だったのだ。

「三砂彩里さいりさん。一瞬間違っているかと思いましたが」

「女性のようだと、よく言われますよ。似合わないでしょう」

 さいり。

 確かに響きは女性のようで、その字面もやはり女性のようではある。茅の勝手な考えなのかもしれないが、『彩る』という字はどこか女性的だ。

「さあ……それを判断するには、貴方の為人ひととなりを知りませんので」

 とはいえ、茅が分かっているのは彼の見た目くらいのもので、その性格だとか趣味だとか、そういうものが分かるはずもない。実はその名前が似合いの性格や趣味があるかもしれないと思えば、似合わないと明言をする気にはなれなかった。

 なんとなく痛んだ気がして、首筋を手でさする。当然ながらそこに切れ目はなく、首は落ちていない。茅の首と胴体は、間違いなくまだ繋がっている。

「首」

「え?」

「どうかされましたか。取り調べの時には何もなかったと思いますが、痛めたりしましたか?」

「ああ……いえ」

 足を動かしながら、どう説明したものか考えた。

 首が落ちる夢。あの女の声。あの女、どの女なのだろう。あの女だと思うばかりで、ではそれが『誰』とも分からないのに。

「おかしなことを今から言いますので、聞き流してくださって構わないのですが」

 どうして説明をしようと思ったのかと言えば、きっと何となくだ。夢見の悪さに疲れていて、いっそ吐き出してしまえば夢が消えてくれるかもしれないと思ったのかもしれない。

 その辺りは茅自身もよく分からないが、気付けば口を開いていた。

「声が、聞こえるんです。それから夢見が悪くて」

「声?」

「『スイゼンサマが来るぞ』と声がするものですから。それから、自分の首がごとりごろりと落ちる夢ばかり最近見ているもので。おかしな話でしょう」

 唄が。

 声が。

 音が。

 そもそも何とも分からぬものが、茅の背中に手をかけている。追われて、足がもつれて転んで、追いつかれて、そしてごろりと落ちるのだ。

「……スイゼンサマ」

 三砂が繰り返すように、そのことばを転がした。ああ、と彼が小さく声を漏らしたのを聞き逃さず、茅は彼の顔を見る。

「何か、ご存知ですか?」

「むしろ、ご存知ないのですか? この辺りの人なら、大概知っていますが」

「残念ながら、大学院でこちらに来たもので。そしてお話ししました通り、研究室とアパートの往復しかしていないものですから」

 茅の出身は、ここよりも北だ。別の大学で学んだ後に、大学院試験を受けてこちらへと引っ越してきた。知り合いと呼べるようなものもなく、親戚もない。友人を作りにきたわけでもないので会話をする程度の間柄はいれど、それだけだ。

 警察署入口の自動扉が開けば、降り注ぐような蝉の声がわっと遅いかかってくる。じいじいと鳴き騒いでいるのは、アブラゼミだ。

 むわりとした湿っぽい熱気の中、自動扉から一歩外に出た三砂が足を止める。こうも湿っぽいと、どうにも息がしづらくていけない。

「民間伝承の類ですよ。スイゼンサマという化け物というか、幽霊というか」

「化け物」

「信じていない顔ですね」

「生憎と、目に見えないものは信じない性質たちでして」

「そうでしたか」

 どんな顔をしていたのか茅には自覚がないが、少なくとも三砂には『信じていない顔』に見えたらしい。

 確かにそう言われても、その存在を「はいそうですか」と茅は信じられない。確かに声は聞こえる、夢見は悪い、けれどそれを見た覚えもなければ、どうしてそんなことになったのかという心当たりもない。

「それでは、お気をつけて。またお呼びすることになったら申し訳ございませんが」

「そうならないことを、祈ってますよ」

 三砂に見送られ、警察署に背を向ける。ただじいじいと降り注いでくる蝉の声と、まとわりつくような暑い空気に、茅はひとり溜息を吐いた。

 夏は、嫌いだ。冬も好きではないが、夏はそれよりも嫌いだ。いっそ早く秋になればいいとは思うものの、今はまだ七月、梅雨が明けたばかりである。残念ながら秋は一足飛びに来てくれるはずもなく、あと一ヶ月以上はこの暑さと蝉の声に付き合わなければならないだろう。

 もう一度、首を手でさすった。やはり、まだ繋がっている。

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