第六部 憂目の夏に 17

 思っていることを素直に伝える……僕は、奈々さんにもそうしてほしかった。

堂島さんが言ったように、僕を巻き込みたくないという思いから、根底にある真実の思いに虚実を覆い被せて沈めていたとしても。

助けてほしい。

巻き込みたくない。

両方の思いを天秤にかけて、傾いた方を現し世に反映させたのだろうか。

いくら考えてみても、奈々さんの本心は何を描いていたのか知ることすらかなわないし、電話越しに言いかけた彼女の言葉も未だにわからない。


「あの人に『お弁当屋さんで働いているから、よかったら食べに来てね』って言われたけど……何でも言う通りにするのはムカつくから、まだ行ってない」


 奈々さんの言葉に揺れ動いて、行動してみせた麻衣であるが、やはり彼女は彼女の良さを残しているようだ。

自身の心持ちを変えてくれた相手に対する言葉として適切であるかはおいておくが、他者からの助言などを妄信して鵜呑みにするのではなく、自身の中で取捨選択して行動することが最適であると思う。


「――風間は、食べたことあるんでしょ?」


「コロッケをご馳走してもらっていた」


「ふーん……美味しいの?」


 奈々さんの作るコロッケは、とても美味しい。

きっと彼女の作る他の料理も美味しいのだろう。

僕は、それらも食べてみたかった。

心の底から料理を美味しいと感じさせてくれた人。


「すごく美味しいよ」


「……そうなんだ。一人だと気まずいから……今度、萌音と一緒に行ってみようかな」


「――行っても、今は……もういない」


「何で……? 辞めたの?」


 詳しい話など言えるわけがない。

深く追求されて、奈々さんの生い立ちや境遇、現在の状況を吹聴するなどあってはならない。

恩ある人に泥を投げつけるような行為など、軽薄で最低を兼ね備える。

日本人として、そのような愚かな振る舞いは許されないし、この上ない恥であると思う。

生きていく道で、そのような人間には絶対になりたくなかった。


「まあ……色々と」


 麻衣は、どうやら誤魔化されたことを訝しんで「その……顔の傷と関係があるの?」と、僕の顔を覗き込んでから傷跡をまじまじと見つめた。

勘が鋭い人物なのか、僕の言動や表情、心の揺らぎなどから導き出した推論を並べようとでもいうのだろうか。


 不意に、僕の頬が麻衣の指で押された。

「いっ……!」と、頬の痛みが熱を取り戻したように溢れて、反射的に声が漏れた。

堂島さんの打撃による傷は、あの日の出来事を事実として物語っていて、奈々さんに対する一種の懺悔にも似た痛みを心に与えている。


「何するんだよ。まだ、痛いんだから触るなよ」


「答えないからじゃん。言いたくないなら、言わなくてもいいけど。

でも……あの人がいないこと、風間の顔に傷があることが関係しているなら、良くない状況ってこと?

それも言えないの?」


 今までも喧嘩した後は、大なり小なり顔に喧嘩の跡が表れていたのだから、特別気にすることでもないと思うのだが、なぜ、顔の傷と奈々さんのことが関係していると薄っすらと疑っているのだろう。

普段通り過ごすように努めていても、自身が気付かない内に、心の陰りのようなものを背負って歩いていたとでもいうのだろうか。


「……人それぞれ事情があるんだよ」


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