第六部 憂目の夏に 16

「ねえ……あのさ……」


 何かを言い淀む麻衣に視線を向けた。

両足に腕を回して抱え込んだ姿、思い惑うような横顔をしているせいであろうか、普段と比べて奥ゆかしい感じの印象を受けるし、今のように落ち着いていれば、綺麗な女子中学生である。


「さっきは……助けてくれて……あ、ありがとう……」


「――ああ……別に、気にすんなよ」


「前の時も……ありが……とう」


 予想していなかった言葉を続けるものだから、少しばかり驚いた。

会話をするにしても、屋上の鍵のことを追求してくるものと思っていたからだ。

いつも強気で攻めてくる麻衣は、澄み渡る青空の下にいるおかけで、素直という心が導き出されたのかもしれない。

以前に萌音が話していた麻衣の葛藤や苦悩は、青空に、どうやら見透かされていたようだ。


「この間……っていっても、夏祭りから数日経って――」


「ん……?」


「――あの人と話した」


 再び予想していなかった言葉が、僕の耳に柔らかい衝撃を与えて『あの人』が奈々さんを指している言葉であると瞬時に理解した。

夏祭りの数日後ということは、奈々さんが五十嵐弁当に出勤しなくなる一週間程前のことだ。

つまり、麻衣と話をした数日後に、僕は奈々さんと会っているが、奈々さんの口からは一言も麻衣と話をしたという話題はでなかった。

「……何を?」と、奈々さんのことで動揺を見せないように、冷たさを感じる声で返した。


「……スーパーで買い物していたら、声をかけられて外で少し話した」


 問答になっていないと思ったが、麻衣が話す内容を黙って聞くことにして、しっとりと背中に貼り付くシャツを手で剥がした。


「最初は……色々あっちが話をしてきて、面倒くさいなって思って。

私のこと……心配しているみたいに言われてムカついた……自分が良い人って思われたいだけじゃん。

たいして知らない相手に、そんなことを言うんだから……

人助けしているんだ――って、気持ちよくなりたいから言っているだけって……思った」


「――奈々さんは、そんな人じゃない。

損得で話す人じゃないし、心配しているっていうのも本心だと思う」


「今まで……綺麗な恵まれている中で生きてきた人だから、そんな風に他人に言えるんだろうなって……」


 違う。麻衣は、思い違いをしている。

奈々さんは、人生に恵まれているとは決していえない。

もちろん、悲惨な道を歩まざるをえない人は世の中に数多くいる。

幸福の深度など千差万別であるし、比較するものではないけれど、彼女は辛く悲しい道を一人で歩んできたはずだ。


「でも……だんだん話していくと、悪い人ではないんだなって。

『最初は難しいかもしれないけど、勇気を出して、思っていることを素直に伝えてみたらいいんじゃないかな。

きっと良い方に動くと思うよ。

周りには萌音さんも一弥君だっているから、きっと大丈夫だよ』って……言われた。

だから……」


 奈々さんは、麻衣を自身に重ねていたのかもしれない。

誰にも頼れずに孤独で歩く道程の過酷さと怖さを知っているのだから、自身は叶わなくとも、麻衣を深い井戸に落としてしまうような心情にさせたくないと思ったのではないか。


「……助けてもらって、いつまでも黙っているのは違うかなって……思った。

この間、萌音にも……いつも、ありがとうって言えた。

……萌音に風間は別棟の方に行ったって聞いたから、こっちに来たら川田も一緒にいるんだもん」


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