第六部 憂目の夏に 15
「ねえ……」
声に反応して振り返ると、麻衣が不思議そうな顔をして立っている。
突然に僕が行く先のない階段を上っていったのだから、気になるのは仕方がない。
先述したとおり、扉の前で屯している風を装えば、屋上が目的で来たと悟られることはないだろうが、僕は指先で掴んだ鍵を故意に揺らして見せた。
「え……? ここの鍵なの?
何で風間が……持っているの?」
僕は「まあ、色々と」と言って、幾らか入りの悪い鍵穴に鍵を挿すと金属の摩擦音がしてから手をかけた。
扉は簡単に開いた。
湊と共に来たのは、梅雨が明けた頃合いだったか。
少しばかり重い扉を押さえながら、麻衣が屋上に入れるように誘導した。
屋上に入れるということを彼女に見せたのは、夏祭りの帰り道に『麻衣さんのこと嫌じゃなかったら、気にかけてあげてね』と、奈々さんから言われたことが理由でもあるし、屋上からの景色を彼女にも見せたいという思いが働いたからであった。
屋上には、当然であるが誰一人として存在していない。
普段とは違う視点から町の様子を窺うことができて、点々と遊び回る白い雲と果てしなく広がる青空が僕達を見下ろしている。
麻衣は、何歩か踏み出すと「――綺麗な景色」と呟いていた。
胸ポケットから煙草を取り出して、火を点けるために手元を見ている間に、彼女は屋上の際へ向かってしまった。
「おい、ちょっと……!」と、決め事から外れる行為を咎めるために走って麻衣の腕を掴んだ。
振り返った彼女は「――煙草なんてやめなよ。格好良いと思っているの?」と、僕の口から煙草を奪うと細い指先から宙に投げつけた。
煙草は、空中を舞っていった後で屋上からアスファルトの地面へと叩きつけられて死んでしまったことが予想された。
こちらも決め事から逸脱してしまう行為である。
校庭などから、上から落ちてくる煙草を何者かに目撃されていたら終わりである。
もちろん、真っ先に二、三階から落下してきたと思うだろうが。
「ちょっと、こっち」と、僕は麻衣の細い腕を引っ張りながら扉付近の壁際に連れていく。
「何……?」
「一応、決め事があるんだよ……屋上の際には行かないでくれ。
あと大声も禁止、下にいる人に見つかるような行為も」
「ふーん」と、納得しない様子で壁を背もたれにして座り込んだ麻衣を見てから、僕も隣に何となく腰を下ろしてみた。
いや、何となくというのは嘘になるかもしれない。
夏祭りの日、奈々さんとの会話で麻衣の心に歩み寄っても良いのではないかと考えたからだ。
しかし、二人の間に会話は無く、頭上を泳ぐ雲のように沈黙が流れていく。
数羽の鳥が鳴き声と共に過ぎ去った後で、僕は空中に語りかけるように声を出した。
「――大丈夫か?」
「え……? 何が?」
「川田に……身体……触られただろ。
まあ、何かにつけて触るから、あいつは」
「大丈夫……でも、あいつ本当に気持ち悪い。
身体を密着してきて、後ろから匂いを嗅いだりされる子もいるんだよ? 本当ありえない。
気持ち悪いから、クラスの子がみんなで言おうって話してるのを聞いた」
今回の件で川田がおとなしくなることを祈るばかりだ。
麻衣の口ぶりから察するに、着任して数箇月で被害者や保護者から多数の声が挙がれば直ちに処罰されるはずだ。
しかし、学校側に適切な運営ができていればの話であって、深い利権やら黒い忖度が横行していた場合、被害者の声は、蝉に掻き消されて儚く消えていくことだろう。
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