第六部 憂目の夏に 14

「ちょっと……! 風間、やりすぎだよ……!」


 麻衣の細腕が僕の上腕を引っ張った。

相手に立ち向かってこさせないように、戦意を削ぐことは大切であるから、彼女の発言は、大海に漏れた油を手で掬うような話だ。

顔面への打撃をしないで、身体中心と頭部にのみ攻撃を加えたことも明確な理由がある。

僕は川田の隣に屈んでから、追撃の膝蹴りがしっかりと効いてしまって、項垂れている彼に語りかけた。


「先生……いつもは、あんた達――教員の暴力を受け入れてやっていただけですよ。

一対一だったら、こうも無様な姿で負けているじゃないですか」


「ガ、ガキが……けい、警察沙汰にしてやるから……な」


 この言葉も想定内だった。

しかし、二度と同じ言葉は吐かないだろう。


「俺に先生が負けたって……全校生徒に知られますよ?

それに……柔道は強くても、喧嘩は弱いって発覚したからには、あんたに恨みを持っている生徒から袋にされる可能性だってある」


「お前……クソ野郎が……」


 川田という人物は、僕達と同じように体裁を気にすると考えられるから、答えが一択となってしまったはずだ。

喧嘩に負けてしまった今、この場から立ち去っていくしかないのだ。

立ち去っていった後、顔面が腫れていたり裂傷していた場合、他の教職員からの追求は免れないだろうから、顔面への攻撃を避けていた。

膝蹴りをした頭部が腫れていても、頭部を凝視したりする者など多くはないだろう。


 このように一見回りくどい手段に思えるが、警察への通報や親へ連絡されることが怖かったからではない。

川田の精神に、生徒に負けたという楔を打ち込んで、彼の暴力から犠牲者を減らすことが目的だ。

いつか遂行しなければと作戦を心の内に巡らせていたが、それが今日であった。

学校という狭い社会の中にあって、身勝手で一方的な暴力に虐げられる一人を減らす。

奈々さんを救えない僕にできる、唯一のことなのかもしれない。


 川田は、幾らか平衡感覚を失っているような素振そぶりで立ち上がると、普段の威勢とは違って「この……クソガキが」と、弱々しく捨て台詞を吐いてから中央廊下を壁伝いに進んでいった。

僕は、小さく丸まってしまった彼の背中に、日々の集約した思いを最後の言葉として投げかける。


「今後、女子に触ったり、卑猥な言葉をかけないでくださいよ、先生。

――もちろん麻野にも。

――見ていて気持ちが悪いんだよ」


 僕の声は中央廊下に響いていたが、川田の心には響いていないだろう。

これで傍若無人な振る舞いが、彼の心に潜み陰りの中で慎ましく生きていくことを願うばかりである。


 僕は、麻衣の横を静かに通りすぎてから、目的地へ向かうために階段を一歩ずつ上がっていく。

予想外の出来事であったが、川田を対処できたことは何かの一歩となったはずである。

爽快な気持ちも束の間で、奈々さんのことで黒く沈む胸中は、蜜に蟻がどんどんと押し寄せるように群がる。

こちらは、どうにも対処することができない。

屋上へと繋がる黄白色の扉を前に立つと、鞄から代々受け継がれてきた鍵を取り出した。

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