第六部 憂目の夏に 11

 目には見えずとも、心に存在している。

奈々さんに対する揺るがない想いは、霞んでいる景色とは違って、鮮やかに温かく彩られていた。


「それでも……俺は……奈々さんを……」


 堂島さんは、鼻血を指先で拭って大きく息を吸いこんでから、僕の胸ぐらを掴んで力強く持ち上げると、苦笑したあとで鋭い眼光を近付けてきた。


「――どうしてもわからねえか。

いや……認めたくないのか。

さっきも言ったが、どうにもできないことが世の中にはあるんだ」


 そのようなことは、わかっている。

しかし、奈々さんを闇の中へ一人で飛び込ませることになるのだから容認することなどできない。

心とは裏腹に、殴りつける動作を導く力が身体には湧いてこない。

度重なる打撃で節々に痛みが走って、意識も朦朧としているし、視界の陰りは先程より強くなってきていた。


「別にな……あいつやお前がどうなろうと俺には関係がねえんだ。

でもな、俺に義理を立てた奈々から任されたことだけは、守らなくちゃいけねえ。

あいつは……自分の苦しみに……

好きな相手――お前を巻き込んで壊したくねえんだろ。

わかってやれよ……一緒に過ごしたお前が、あいつの気持ちを一番理解できるはずだろ」


 不意に奈々さんの顔が浮かんだ。

彼女は微笑していた。

そう、初めて出会った……あの日のように。


「お前らは……俺には眩しいわ」


 堂島さんの手から僕の胸ぐらが離されると、自立することすら困難になってしまって、揺らいでいた僕に強烈な左フックと右のボディブローが殆ど同時に食い込んだ。

鈍い音と激しい痛みで、その場に崩れ落ちた。

終わってしまった。

奈々さんに向けていた一つの願いは、命を奏でている蝉が旋律と共に儚く持ち去っていった。

もう立ち上がることは……できなかった。

それでも、天を仰げば夏の青い空は僕を見つめていて、反照する青さと白さを一切笑わなかった。






 堂島さんとの喧嘩、彼のいうゲームから四日が過ぎていた。

夏休み明けの始業式である。

僕は、ため息を吐いて登校していたが、瞼の傷や顔の腫れは少しばかり落ち着いただけで、あの日の争いを事実として示している。

登校した生徒は、夏休みの大小様々な思い出話に花を咲かせていた。

萌音は、僕の顔を見ると心配の声を上げていたが、ただ苦笑して、一言二言を返すことしかできなかった。

式が始まる前、廊下に生徒が整列している時に湊が登校してきて、顔の傷やらを聞いてきたが、僕が濁したことで、それ以上深く聞いてはこなかった。


 始業式も春の全校集会と同様であり、校則に違反しているものは列から弾かれて、会が終了した後で指導を受けていた。

やはり、いつもの顔ぶれが並んでいるが、何人かの生徒は、夏休み前まで真面目な生徒として学校生活を過ごしていたはずが随分と変貌していた。

夏休みというものは、良くも悪くも生徒を変化させてしまうのである。

一箇月ほどではあるが、人を一変させてしまうには余りある時間なのかもしれない。

おとなしかった生徒は、外見だけではなく内面も変貌を遂げたのか、教職員に何やら悪態をついていた。


 やれやれ長期戦になりそうだと思っていると、列の中から視線を感じたものだから、横に目を向けると四人ほど過ぎた先から麻衣がこちらを見ていた。

まだ腫れている僕の顔を見て、彼女は何を思っているのだろう。


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