第六部 憂目の夏に 9
堂島さんは、ベンチから離れると、脇を締めて拳を握り、幾らか体を前傾させて臨戦態勢になった。
その静かな佇まいは、ただ者ではない威圧感を伴っていて、僕は唾を一つ飲み込んだ。
「ほら、打ってこいよ。先手はくれてやる」
堂島さんは、どっしりとした上半身の構えとは対照的に、下半身は軽やかなステップを地面に刻んでいて、時折、打ってこいと言わんばかりに顔を突き出してくる。
構えを
彼は、格闘技を使う人間であると。
僕は、体を半身後ろに引いてから、右腹の前に右手を軽く握った。
先手を打つことを認めている堂島さんに、様子見をするため彼の前に出ている左足めがけて蹴りを繰り出した。
鈍い音がしても、全力ではない七割程度の威力であるから、彼は幾らか足を上げる素振りを見せた後に、僕の拳の間合いに瞬時に入ってきた。
左ジャブ、右ストレート、左フック。
連撃は、落ち着いていた僕の思考を一気に切り替えた。
やはり、彼は精度の高い格闘技を使う。
このままでは、さらに連撃をもらうと判断して一気に後ろに飛び跳ねて距離をとった。
口内には、鉄の味がゆっくりと確かに広がっている。
ステップをしている堂島さんの表情は、獲物を捉えるように冷たい目を僕に合わせていた。
彼は、本気で打撃を繰り出していない。
僕は、先程と同じように彼の左足太腿めがけて、全力の蹴りいれてから、一気に距離を詰めてガードされている右側頭部に左フックを浴びせて、さらに左の顔面に大振りな右フックを決めた。
確かな手応えにより彼の体はよろめいたが、バックステップを踏み、離れ際に右ストレートを放ってきた。
「おー痛えな……お前、けっこうやるな。
ちょっと……最近、鈍っていたからな……
少しだけ本気でいくぜ」
そう言い放った後で、視界から消えるように俊敏な横移動をすると、右の顔面に左ジャブ、左フックを仕掛けてきて、僕の体が左に流れたとみて、サイドステップで正面の懐に入り込んで、強烈なボディブローを二発入れられた。
連撃に怯んで距離をとったが、ボディブローの影響で呼吸がうまくできない上に、連撃の最中に右目の上が裂傷したのか、視界もままならない。
「お前……普通なら、そこで倒れるところだぞ。
――俺、昔な……この世界に入る前は、ボクシングをやっていて、日本ランカーだったんだ。
まあ……故障続きで辞めちまったけどな。
もう、いいだろ? お前の気持ちは――」
「まだ……終わって……な、いですよ。
ボク……シング? これは、喧嘩……でしょ?」
呼吸は、幾らか戻ってきた。
ボクシング経験者とは良い話を聞けたのかもしれない。
堂島さんが、どのような道を歩んできたのかは不明であるが、今までの喧嘩においてもパンチ主体の攻撃をしていたのであれば、まだ勝機はある。
しかし、元日本ランカーが相手では望みが薄いことも事実だ。
僕は、この攻撃に全てをかける。
元プロの攻撃を躱す技術は無い。
それならば、頭部への防御を最優先にして、胴体や他の部分の防御は捨てる。
この戦いを勝利で終えて、奈々さんを救える兆しになれば……。
彼女に、僅かな希望が優しく降り注ぐように。
彼女に、微かな言葉がいつまでも届くように。
彼女に、穏やかな暮らしが日々訪れるように。
彼女に、幸せな未来という道が見えるように。
僕は……奈々さんのために。
意を決して……ただ、突っ込むだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます