第六部 憂目の夏に 5

 自転車のペダルを必死に漕いで、奈々さんの家へと向かう。

彼女が、その場にいるという確証はない。

踏み込むペダルは、軽いような重いような感覚を僕の身体に刻んでいて、国道を走る自動車が生み出した風を顔に受けながら、額に滴る汗は夏空に消えていく。


 アパートに到着して、乱れた呼吸を整えようと深く息を吸うが、上手に呼吸ができない。

肩が揺れ動いて、頭に酸素が行き渡らない状態でアパートの階段を上がっていくと、疲弊した足に傾斜が笑いかけてくる。

部屋の前に着いて、インターホンとノックを繰り返すが、以前と同様で無反応であり、空虚のまま立ち尽くしていた。


 やはり、この場にはいないのか。

階段を力なく降りている途中で、隣接したアパートの一階に、以前も見かけた女性が立っていた。

女性の隣には見たことのある男性がいた。

夏祭りの日に、奈々さんから聞いた男性の名前。

堂島さん。

彼は、前に見た時と同様の出で立ちで、上下真黒のスーツ姿、黒いサングラスをしていた。

黒髪のパーマをオールバックにして、整髪料を多量につけているせいか、太陽が降り注ぐ海面のように光っている。


 僕が階段を降りきると、女性は堂島さんに対して、何やら不服そうな顔をしてから、煙草の煙を真っ直ぐに吐き出す。

彼は、その行為を見下すような雰囲気を体全体から出しながら、女性が差し出した金銭を受け取っていた。

どうやら彼女も債務者の一人のようだ。

僕が彼らを一瞥しながら歩いていると、争いにも似た会話が耳に流れ込んでくる。


「お前、ナメてるのか……?

二万……足りねえだろ?」


「だから、ウチも今月厳しいんだって……!

大体、十日で五割(借りてから十日後に、利子として元金の五割を支払うこと)なんて暴利すぎるじゃん!」


「ああ? お前が納得して借りたんだろ?

それにな……ブラックリストに載っていて、他の金融屋から金が借りられない、お前に貸してやっているんだぞ?

トゴ(十日で五割の利息の略称)で、何が悪いんだ?」


「だって! 払えないもん……!」


「払えねえなら……利息分に、さらに利子が付くだけだ。

そうなれば、返済はどんどん厳しくなるぞ。

なんとかして金を作れ。

渋るようなら、お前の職場や親族に手当たりしだいに行くから……覚悟しろよ」


 女性は僕の視線に気がついたのか、五メートル程の距離を小走りで詰めてきて、

「ねえ、君、お金貸してくれない?

二万円……無かったら、ある分でいいから」

と言いながら、下着を着用していないのか、シャツの下にある豊かな膨らみが静かに揺れていた。


「は……? 何で、俺が……」


「えーじゃあ……舐めてあげるから、一万は?

それか……ヤルなら二万で、どう?

君、かわいいから安くしてあげる」


 闇金、売春。

今の僕は、このような人達に関わっている心の余裕はない。

どうにかして、奈々さんの動向が知りたい。

そうだ。

女性の背後に、微動だにせず立っていて、サングラス越しにこちらを見ている男。

堂島さんは、何かを知っているかもしれない。

彼に問いただしてみようとするが、なめまかしい女性は身体を前屈みにして、豊満な膨らみを見せつけるように、上目遣いを駆使して提案を重ねてくる。


「ねえ、じゃあ、生でもいいよ。

それならいいでしょ?」


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