第六部 憂目の夏に 4

 奈々さんが着信相手ではないことも念頭において、電話の相手に対して名前を名乗らずに、「はい」とだけ答えた。


「――奈々です。一弥君……?」


 よかった、奈々さんの声を聞いて安堵した。

その透き通る声によって、生命安否の不安は大空を舞う鳥のように飛んでいったが、心の内にある心配は野道を駆け回る犬のようである。


「そうです。奈々さん、何かあったんですか?

――店の人も心配していましたよ」


「うん……心配かけて、ごめんね。

あのね……私……もう一弥君に会えないから……最後に話をしたくて」


「え……? 会えないって、どういう……」


「……ごめん……ね」


「そんな突然……何が……あったんですか?」


「………………」


『会えない』という言葉に、様々な感情が入り乱れて、早口で問い詰めてしまいそうな状態である。

携帯電話を持つ手に力が入りながら、身体は小さく震えて、胸の鼓動が喉元まで重く響いていた。


「奈々さん……俺、奈々さんのためになら……

何でもしますから、教えてください」


「……うっ……っ……っ……」


 僕の右耳から奈々さんの小さな嗚咽が入ってくると、心の奥がひどく締め付けられた。

隣りにいてあげたい、隣りにいてあげなければいけない。

なぜ、彼女を一人にさせているのだろう。

彼女の泣き声と吐息は、僕の耳に音を残すだけで、時の流れにより形を変えていってしまう。


「奈々さん……今、どこにいるんですか?」


「……ごめんなさい」


「それは……俺が……俺に言っても……

意味がないからですか? 助けにならないからですか?」


「――違う……違うよ。

一弥君には……幸せになってほしいから……

だから……」


「何で……言ってくださいよ……」


「ごめんね。今まで……ありがとう。

一緒に過ごせた時間は――今までの中で一番楽しかった。

海に行ったこと、お祭りに行ったこと、花火を見たこと、自転車の後ろに乗せてくれて、二人で話した時間が……私は幸せだったよ」


「それは、俺だって……」


「守るって……言ってくれて、本当に――嬉しかった」


「守れてない……

――今だって、泣いているじゃないですか」


「そんなことないよ……

――私は、一弥君に救われていたよ」


「それは、俺の方ですよ。

何で……何で、話してくれないんですか……?」


「……ごめんね。

――もし私達、このまま一緒にいたら、しょ……」


「え……?」


「ううん、何でも……ない。幸せに……なってね。

今まで、ありがとう。

私は、いつも……一弥君と同じ気持ちだったよ。

さよう……なら」


 奈々さんの泣き声混じりの声から、断続的で無機質な電子音に切り替わると、お互いの会話が途絶えた。

今の二人を繋いでいたものが無くなった。

焦燥感が身体中を蕁麻疹のように侵して、言葉にならない思いが自身の中に流れる血液を熱くさせていく。


 携帯電話を握りしめて、僕は急いで夏の中に飛び込んでいった。

冷めやらぬ感情と真昼の陽射しは、僕に対して容赦のない攻撃を繰り返す。

会いたい。

会って話したい。

会って抱きしめたい。

ただ、それだけだ。

ただ、それだけだった。


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