第六部 憂目の夏に 3
真夏の正午前。
暑さが最高潮に達する前に、奈々さんが住むアパートに到着した。
海から波の音と潮の匂いが微かな意識をもって、僕の身体に侵入してくる。
以前、彼女から聞いていたアパート名と部屋番号を確認して、腐食が著しい階段を踏みしめていく。
二〇二号室と表記されたドアの前に立つと、開閉の邪魔にならない位置に小さいプランターが置いてあった。
プランターには、青みがかった紫色の花が数本植えられていて、幾らか元気のない表情を垂らしながら、こちらに顔を向けていた。
インターホンを押すと、引っ掛かりが生じてから、元の位置に戻ると同時に二段階の機械音を届けてみせた。
反応は無い。
外から室内の様子を窺ってみても、中から人の気配を感じられない。
一分ほど佇んでから、今度はドアを三回ノックしてみたが、こちらも反応は無い。
室内で奈々さんが倒れているかもしれない、という可能性を考えた。
もしかすると、今は真夏であるし、働き詰めの彼女には過酷な環境であるから、身体を壊したのかもしれない。
もう一度、ドアを三回ノックしてから、訴えかけるように大きめの声を出した。
「奈々さん、奈々さん。いますか?」
返答は無い。
周辺を見渡しても、特に手掛かりになるものなどは見られないし、しばらくドアの前にいるものだから、隣接したアパートの一階から、女性が煙草を燻らせて、こちらに奇異の目を向けていた。
煙草を持っている手で乱れている髪を撫でて、左手には、缶ビールらしきものを手にしていた。
怪しまれては、奈々さんの所在確認も困難となるから、今日は帰るしかなさそうだ。
連絡が取れない状況なのだから、一般的には警察に通報して、アパートの管理会社や管理人を介して部屋を確認するしかない。
しかし、僕が警察に連絡したとしても、
「誰なんだ? 君は? 関係は?」と、一蹴されてしまうのではないか。
頼めるとしたら、五十嵐弁当の老夫婦、奈々さんの父親だろう。
老朽化した階段の手摺りを持ちながら、渇いた喉と渇いた心に心配する感情を上乗せして、僕は正午過ぎに帰路についた。
奈々さんは、何かの事件に巻き込まれたのだろうか。
僕に、何かできることはないのだろうか。
不安、心配、焦り、緊張などの感情が一気にテトラポットにあたる波のように激しく打ちつける。
次の日、次の日と再びアパートへと足を運んだが、何の成果もないままに、時だけが無情に過ぎていく。
警察に通報しようにも、奈々さんの父親のことを考えると、勝手に通報しても良いものだろうかと思う。
今日は、昼下がりに行こうと計画していたから、今日も何の進展もしないようであれば、五十嵐弁当の老夫婦に警察への通報を提案してみよう。
しばらく、自宅の部屋で寝転んで、色々なことを脳内に巡らせていると、蝉の鳴き声が聞こえる室内に携帯電話が細かく震えた。
基本的に携帯電話は、マナーモードのバイブレーションにしている。
傍らで震える携帯電話の画面を確認した。
【公衆電話】と表示されていた。
普段は、着信で電話番号が不明なものは無視するが、僕に公衆電話からかけてくるのは、今までの人生で一人しかいない。
すぐに、人差し指を画面の右側に滑らして着信を受けて、携帯電話を右耳に押し当てた。
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