第四部 喜色の夏に 6

 男性の元に辿り着いた奈々さんは、何やら会話をしているようで、肩から掛けたライトブラウンのショルダーバッグから何かを取り出して渡した。

奈々さんの背中に隠れて見えないが、男性は、それを確認するかのような挙動をした後で、踵を返して歩んできた道を戻っていった。


 奈々さんは、男性に対して軽く頭を下げると、彼女も踵を返して僕の方へ小走りしてきた。 

彼女の斜め後ろに焦点を合わせると、アパート群の隙間から、黒光りしたセダン型の高級車のボンネットが見えた。

風貌や自動車を鑑みても、やはり一般人とは思えなかった。


「ごめんね。ちょっと……知り合いの人で……」


 先程までの奈々さんの明るさが、あの男性の黒い波に飲み込まれ、奪われたような気がして心配になった。


「そうですか……大丈夫ですか?」


「えっ? うん、大丈夫だよ。

――心配してくれて、ありがとう」


 奈々さんの表情は、いつかの夏にある曇天を掻き消すような微笑みをしている。

なぜだろう。本心は、別のところにあるのではないか。

それが、僕の心を小刀で突き刺すような感覚になり、寂しくて、少し痛い。


「あのさ――お願いがあるんだけど」


「何ですか?」


 奈々さんは、悪戯な笑顔を浮かべている。


「今日、自転車の後ろに乗せてくれない?」


 自転車の二人乗りは、法令違反である。

と思いながらも、普段から友人達と二人乗り、

所謂、二ケツをしてしまっているから、特に怖気づいたりはしなかった。


「私、学生の頃にそういうのしたことないから、乗せてもらいたい。

それに、デートって感じもでるでしょ?」


「ああ……はい、いいですよ」


 平然を装ってみたものの、女性を後ろに乗せたことがないから、僕の緊張が奈々さんに伝わらないように努めよう。

自転車に跨る前、前籠からタオルを取り出して、彼女の尻が痛くならないように、畳んで厚みを増してから荷台に敷いた。

彼女は「ありがとう。失礼します」と、言ってから身体を横向きにして荷台に座った。

少しでも彼女の身体への負担が軽減するように、自転車に取り付けていたステップに足を置くように僕は伝えた。


「何か、すごくドキドキするかも。

安全運転で頼みますよ、お兄さん!」と、肩をポンと叩かれた。


「これ、犯罪ですから。

警察が声掛けしてきたら、奈々さんを置いて逃げますよ」と、僕は諧謔かいぎゃくろうする。


 真夏の中を走り出すと、身体の安定を図るためか、奈々さんは右腕を僕の腰に回して身体を僕の背中に預けてきた。

人肌の柔らかな感触が、僕の身体にゆっくりと確実に沈んで染み込んでくるようだ。

そして、彼女が自身につけた香水だろうか。

とても瑞々しくて、爽やかで、花の甘い香りがした。


 自転車は蝉の鳴き声を連れ立って、僕達を目的地へ届けようとする。

頭上には、青空がどこまでも広がっている。

時々、太陽は顔を隠してしまうけれど。

青空は、僕達を眺めているのだろうか。

青空は、記憶してくれるのだろうか。

青空は、忘却しないでくれるだろうか。


 この世に変わらない事柄や事象など存在しない。

時の移ろいの中にあって、変わりゆくことが、

万物の唯一にして、等しく携えていることであると思う。

それでも、奈々さんと一緒に過ごす時間。

この時に感じたこと、この時に思ったこと。

この時間に生まれた想いだけは永遠だ。

そう思った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る