第三部 心情の夏に 6

 奈々さんと接していると、人に対する壁のようなものが無くなると感じていた。

それが、彼女の云う心の鎧なのかもしれない。

彼女は、僕に大いなる安らぎを与えてくれる。

一緒にいるのは緊張するが、それというのは異性として意識しているからで、不安からくる緊張ではない。

普段と違って、自身の威勢を示すようなうそぶいた発言もしていないし、素直に言葉を紡いでいるほかならない。

どうやら僕の心の鎧は、この瞬間において、いつかの時代に借りられてしまったようだ。


 奈々さんは、浜の砂を人掬いすると、拳の隙間から砂粒をゆっくりと流出させている。


「心って、もし見えるならどんな形なのかな?

丸、四角、三角? ハートかな?」


「んー、丸の印象がありますけど。

俺の今までの形は、きっと歪な形をしていますよ。

奈々さんのは、丸い形しているはずです」


「えー何で?

それなら、私も歪な形をしているよ。

もしかしたら――みんな歪かも」


 僕の心というものを具象化した場合、虫に食い荒らされた木の葉のような形をしていたのだろう。

日々の生活にあって、他者に傷付けられたこと、他者を傷付けたことで形が変わってしまった。

しかし、心というものは修復できるようだ。

奈々さんが……傷を埋めて形を変えてくれた。


 人間には普遍的なものが多くある。

傷付ける。

傷付けられる。

誰しもが経験して通過する。

思春期のみならず人生において多分にあることで、人間の成長には必要不可欠だ。

傷付けるばかりでは、成長しない。

傷付けられるばかりでは、成長しない。

ある程度の傷を繰り返す内に、厚みを増して強くなるし、他者に対して優しくできる。

しかし、世の中の人間にあって、傷ついた心を一人で治せないこともある。

それは、人と人が心を通わせることで治せるのだと知った。

もちろん、深淵で甚大な傷は、どうすることもできないのだから、時に委ねるしかない。


「心の色は――何色かな?」


「俺は、冷たいとか言われたりもするから、

きっと青とか水色とかですかね。

奈々さんは、太陽みたいな明るい印象があるから、

オレンジですね」


「ふふ、ありがとう。

でも、一弥君は、冷たいの青じゃなくて青空の青だよ」


 良い意味として受け取ると、何だか褒められているようで照れくさかった。


 奈々さんは、手に付着していた砂を払って、立ち上がった。

砂浜に静かな音を出して眼前の海へと進んで行くと、波打ち際を行ったり来たりしている。

波と戯れている彼女の様子を見ていると、愛おしく感じる。

普段は凛としていて綺麗な女性であるが、今は無邪気に跳ね回る子供のようである。


 星が煌々としている。

僕の視点から見る奈々さんは、まるで夜空の中に存在しているように見える。

その姿を架空の人物に例えると、天女のようだった。


 僕も立ち上がって、奈々さんの顔が視認できる程度まで近付いた。

風が段々と強くなって、波の音が増幅されていく中で、海と戯れていた奈々さんは、僕の方を振り返った。

彼女は、やはり微笑していた。

波打ち際にいる奈々さんが、僕に向けた言葉というのは、重厚さを増した波が部分的に奪ってしまって聞き取れない箇所があった。


「私は、――君に――――よ

――を知って――君は、きっと――多くの

――――あげられるよ」


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