第三部 心情の夏に 4

 夜の海というのは、全てを飲み込むような黒い表情に変わる。

波の音が鳴り響いているから静寂というわけではないが、全体的な雰囲気が心を落ち着かせてくれる。

波打つ音だけが辺りをしっとりと包み込んでいた。


 砂浜の辺りに照明など無いから、月夜に照らされた周辺は、お互いの姿が薄っすらと視認できる程度である。

僕は、眼前に広がる海に圧倒されるような感覚になりながらも、

「潮風が吹いてくるから、夏場の夜なら結構、涼しく感じますね」と、呟いた。


「そうだね。私、海って殆ど来たことないし、夜の海って初めて。

何だか不思議な感じ――だね」


「そうですね。

でも、海辺に住んでいるのに今まで来たことなかったんですか?」


「あ……私、ここで生まれ育ったわけじゃないんだ。

お父さんと半年前に、ここに引っ越してきて。

それで――今はアルバイトしたりしているの」


 横から一瞥すると、奈々さんの黒く艷やかな髪を、潮風が愛でるように一本ずつなびかせている。

人工の灯りが近くに無いというのは、自然と夜を引き立てて、二人の頭上には満天の星が煌めいていた。

夜凪の海面からは、得体の知れない何かが現れても不思議ではない雰囲気がある。

それでも、この場所に二人きり。

この世界に、二人だけが存在しているのではないか。

そうであれば良い。

そのような思考が脳裏を過ると、何とも滑稽な夢想家になった気分になる。


 しかし、中学生というのは……思春期とはそれで良い。

大いに夢想家であった方が、想像力を養えるはずだ。

対人関係においても、相手に対して想像力を働かせることで、思いやる心を得られるのではないだろうか。


「前は、どこに住んでいたんですか?」


 奈々さんは、黒髪とは正反対の白い指で、潮風に乱される髪を丁寧に掻き上げる姿態をする。


「うん、前は群馬県にいて……

その前は、静岡県、福井県、大阪府に住んでいたの」


 奈々さんは、県名を指折り数えていたが、横から見ると何とも切ない表情を浮かべていた。

恐らくは、幾度となく住居を変えてきた中で、

様々な感情が華奢な肢体と心に重くのしかかってきたのだろう。


「俺は、ここで生まれ育ったから……

どうなんですか? 他の場所って」


「うん? どこも素敵で良いところだよ。

その地域の特徴や特性なんかもあったりして。

そうだ、いつか一緒に――行けたらいいね」


 奈々さんは、軽い気持ちでその言葉を発したのかもしれないが、僕にとって非常に心嬉しかった。

男女の交際という関係になってはいないけれど、今後も僕との未来を想像しているのが発言から汲み取れたからだ。


「はい」と、だけ返事をした。

二人が沈黙すると、波の音が繰り返し奏でられているだけになる。

僕の心から生まれた沈黙というものは、大きな一枚となって海面に蓋をして、そこから漏れ出した白波が二人に届くような感覚になった。


 波が引いた一拍に、奈々さんが「さっきの話だけど……」と、言った。

恐らくは公園のベンチに座っていた際、僕の大人達に対する不信感についてだろう。

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