第三部 心情の夏に 2

「その後も、君は何度か野良猫を探しに来ていて。

その度に、時計屋さんに怒られていたよね」


 最近は、めっきり顔を合わすこともないけれど、確かに、その時期は時計屋の店主に怒られていた。


「野良猫に餌をやることは、もちろん賛否両論あるけど、君は自分が損をしても猫のことを想っていたのは事実で――それは、優しいんだよ」


 野良猫に餌を与えるのは、無責任という声があるのは理解している。

それが、他人に迷惑となる可能性があることも。

しかし、全ての生物が、いつ死ぬかもわからない中にあって、今日の幸福を願うのではないだろうか。

野良猫というのは、常に空腹であることが多いから、ほんの一時でも幸福を感じてもらいたかった。

偶然、自分の前に、お腹を空かせた野良猫が現れて、それを見捨てることが僕にはできなかった。

無知な偽善者と非難されても仕方がないとは思う。

もちろん、最終的には保護するつもりであったから、その部分に関しての批判は一切受け付けない。


「それから、君のこと気にするようになっちゃって……

この間、君があの道を通った時に、元気のない――

悲しそうな表情をしていたから、心配になって思わず声を掛けちゃった」


 あの日は、ありもしないことで教職員に嫌疑をかけられて、指導された帰り道だった。


 普段から、他人に弱音を吐いたり、愚痴を並べるのは格好悪いと思っていたから、誰かに自身の悲しみ、苦しみを話すのはあるはずもない。

仮に、万が一に話すにしても、信を置く相手でなければ、心情など吐露しない。

無闇矢鱈むやみやたらと、ひけらかすような振る舞いをする者もいるけれど、非常に滑稽であると感じる。

他人は信用ならないという思いが、根幹にしっかりと存在していて、皮膚に傷を残す火傷のように焼き付いている。

しかし、奈々さんになら、自身のことを話してみようと思った。

それは、彼女という人間が身に纏う雰囲気や、目線、話し声、所作に身体を包まれているように感じたからだろうか。


「あの……声を掛けられた日は、教員にやってもいないことを怒られた帰りで、ムカついていたというか」


「え? やってもいないことで? 酷い……ね。

大丈夫?」


「まあ、結構多いので諦めていますね。

この間は、生意気な後輩の数人を殴った奴らがいて、

俺も、誘われたんですけど……

大勢で囲むのは格好悪いから、その場にも行かなかったのに指導の対象ですよ。

反論なんて聞き入れてもらえないし」


 奈々さんは、心配そうな表情で、僕の顔を覗き込んで「大丈夫……?」と、言った。


 他人のこういう言葉は、何らかの立場や義務に駆られた人物が、本心とは別に、上辺だけを繕うために使っていると感じていた。

奈々さんは、違う。

スッと真直ぐに心に入ってくるのは、表情、声、雰囲気などで彼女の労りが伝わってくるからだろうか。

正面に顔を向けると、照明と露によって芝生が幾らか煌めいているのがわかる。


「慣れた――って言ったら変ですけど。

親も同じなんですよ。

結局、指導されると親に連絡されることが多いので、 

家に帰ってから、父親にも殴られましたよ」


 周囲にいる大人達というのは、大義名分があるかの如く、とにかく暴力的であると感じる。

それは、言葉による暴力も大いに含まれている。

教員達は、僕に学校での立ち位置、自尊心があるから、他人に言わないと思い暴力を振るう。

父親も親という立場を名目に暴力を振るう。


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