第二部 邂逅の夏に 6

 僕は、立ち止まった。

今来た夜道を戻る。

視線の先には、明かりが点いた五十嵐弁当がある。

勘定台の前に立つと、奈々さんは、調理場の奥で洗い物をしているようだった。


 こちらに、背中を向けているので、一切、僕には気付いていない。

後ろ姿を見ると、華奢な体を前傾させていることで、どことなく寂しげに映る。

奈々さんから発せられているような洗い物を流す水の音が、僕の気持ちを冷やすように流れ込んでくる。

戻って来たはいいが、何と声を掛けたらいいのだろうか。


 僕は、見せかけの威勢や暴力に訴えて、自分が強い人間であると錯覚している。

そこに、生きていくなどありはしないというのに。

弱い。弱い人間であるのだ。

生来、恥ずかしがり屋の性格であったから、初対面に近い女性に、このように自分から、話し掛けることが無かった。

何と声を掛けて良いものか。

このまま声を掛けずに、踵を返すのは簡単であるが、立ち去る姿を目撃されたら、不審に思われるのは必至である。


 勇気を出してみたが「あ、あの……奈々さん」と、やや上擦った声になってしまった。

奈々さんは、声に反応して、パッと振り返ると一瞬不思議そうな顔をしたが、直ぐに笑顔を向けてくれた。


「ん? どうしたの? 何か……忘れ物?」


「あ、いや……仕事って、もう終わりますか?

もう夜……遅いから、よかったら家まで送りますよ」


 考えあぐねた中で出た発言。

このようなことを、いきなり言ったら不審に思うだろうと自問した。

気味悪がられやしないだろうか。

そもそも、先程の質問に、怒ってはいないだろうか。

そんなことが頭を巡ったが、奈々さんの反応は予想と違っていた。


「いいの? んー、そうだね。あと十五分くらいで、片付け終わって帰れるかな。

でも……私の家って、海沿いだけど大丈夫?」


「あ……はい、大丈夫です。

――ここで待っています」


 すんなりと了承してくれたことに、ある種の高揚感を感じていた。

奈々さんの言う海沿いというのは、僕の自宅方向とは真逆であるが、ここから自転車で二十分の距離といったところだ。


 しばらくベンチで座っていると、店の裏手から奈々さんが「お待たせ」と、姿を見せた。

先程の告げられた所要時間よりも早かったから、急いで仕事を片付けてくれたのだろう。


 僕が、すっとベンチから立ち上がると「海沿い――公園の近くになるんだけど、大丈夫?」と、奈々さんは額の汗を、優しくハンカチで叩きながら言った。


「はい。公園ですね、大丈夫です」


 ここまできて、奈々さんが徒歩や自転車以外の通勤方法であったら、僕の誘いが滑稽になるところだった。

彼女も自転車で通勤しているようで、胸を撫で下ろした。


 町の中心部の広くない道路は、自動車が幾らか往来しているが、そこから広い国道に出れば、長い歩道が悠然と存在している。

国道は、車通りも激しく、速度を出してくる自動車も多いから、特に夜道は危険である。

必然的に、歩道での自転車走行を選択してしまう。

自転車が歩道を走行する場合における、やむを得ない事情に該当するかは、わからない。


 二人は、闇夜の中で何を話すでもなく、ペダルをただ漕いで行く。

僕は、緊張していた。

目的地があるのに、目的地がないようだった。 




 

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